癌とわらう
1
癌が わらう
ハハを わらう
癌が わらう
ハハも わらう
ハハが わらう
癌を わらう
ハハが わらう
癌と わらう
2
癌と診断されたとき(医師はためらいなく告知したという)、義母は平静のように映った。
職場からの帰り道で電話を入れたら、
「3センチだって、でかいだろ!」
と、あっさりと答えた。男口調で。
内心はとうとう聞かずじまいだった。けれど、私も「ああ、そう」と淡々と答えたように記憶している。義母の思いやりがそうさせたのだろう。
しかし、癌の力は強かった。義母を圧倒した。義母の平静さは次第に崩れていくようだった。義母は、痛みや吐き気などでうめいていたと思う。
まさに、癌がわらっていたのだ。
二度胃の手術をし、全摘の後も、いくつもの治療を続けた。良いと思う療法は、初めの頃は効くように見えた。が、それも次第に薄らいでしまった。
癌はますます強くなっていった。義母の苦しみも増していくばかりである。生きているわれわれと、死に近づく義母との距離が開くばかりのようだった。
そのころからだろうか、義母に平静さを感じるようになってきた。止まないうめきが、いつの間にかしずまっていくようだった。おそらく苦しみはすごくなっていっていたのだろうが。
癌の力を上回る義母の力が生まれ出たように映った。
癌にわらわれていたのが、今度は逆に癌をわらうように変わったのだ。
最期のとき、義母の目は静かだった。澄んでいた。娘が身を寄せ、孫たちが囲んだ。家族みながいた。
その真ん中に、平安そのものの母が居た。長い祈りを終えた人のように。
死の瞬間はとつぜんだった。しかし平安そのものの死だった。癌によって新たないのちが生まれたかのようだった。
そして、そのいのちを生きた人の死だった。
義母は、癌とともにわらいながら、天へ旅立ったのだ。
義母の最期
十二月三十日の午前零時を回って何分くらいだったろう。義母が息を引き取った。娘と三人の孫たちと義理の息子が看取った。
一九九七年十二月三十日。
その六時間ほど前、皆で、買ってきた牛丼を食べた。個室を与えられていたので、家族はそこで食事ができたのだ。
義母はその様子をうれしそうに見ていた。自分は食事をすることはできず、点滴だけだった。声はもう出なくなっていたと思う。その義母の前で夕飯を食べることにためらいがあったが、義母の望むことであったので、甘えることにした。
義母がみんなをみつめる目は優しかった。見守られているという気がした。
私たちにも、義母のいのちの時間に限りがある、という覚悟のようなものはあった。重い病状であったから。
けれどお別れの時がすぐそこに迫っている、―六時間後に亡くなるなどと思ってはいなかった。中一と小五と小二の孫たちは、食事の時間に本当に久しぶりにお祖母ちゃんがいることを喜んでいた。
実の母が亡くなったときもそうであったが、生きている者は、死にゆく人の死がもっと先の事であると思いたいのかもしれない。
*
義母は痰(たん)をよく詰まらせた。そのたびに看護師に来てもらった。最期のときも、痰の吸引のために当直の看護師に来てもらった。
その彼女は、なぜか義母の体を起こした。そして軽く背中を叩いた。その途端、呼吸が止まった。
わたしたちはあわてて義母の周りを囲んだ。重篤(じゅうとく)ではあったが、六時間ほど前の様子を皆が見ているのだ。「いま死ぬ」ということが信じられない。受け入れられない。
けれど、時は来た。来てしまったのだ、ついに。
わたしは息子たちに言った。
「さ、おばあちゃんにちゃんとお別れをしようね。『ありがとう』って、言おうね」
息子たちは、懸命に、
「おばあちゃん、ありがとう!」
「おばあちゃん、ありがとう!」
と叫んだ。
その声ごえは真夜中の病室に響きわたった。
耳は最期まで聞こえるという。
孫たちの声、娘の声、そしてわたしの声は、確かに届いたと、二十五年経った今も思う。
義母の顔は、ほんとうに安らかだった。透きとおった、といっていいほどの清浄さがあった。
私たちの国籍は天にあります。(新約聖書「ピリピ人への手紙」3章20節)
義母は信仰の香りを放ちながら、天の国に帰っていった。
十二月三十一日、世界は新しい年を迎えようとしていた。
●ご訪問ありがとうございます。
さまざまな死の場面を経験した方々がおられるでしょう。わたしのこの経験も、その一つです。
死をもって生を輝かせる、という死を、義母は教えてくれたのでした。