人前に出る時につける物ではないと思って使わなかった。そんな紅を引いて相手の女に会う勇気など微塵もない。
「駄目,塗って。今のままやと顔色悪く見える。」
入江は勝手に三津の化粧道具をがさごそ漁って紅を取り出すと,それを器用に塗ってやった。easycorp
「ほら綺麗。あーでもこんな綺麗な三津連れて歩いたら目を引きそうやなぁ。他の男に見せるのは惜しい。でも自慢の妻やけぇいいか!よし行こう。」
入江は満足気に頷いて三津の手を取って外に出た。
「あの……どこまで行くのでしょうか……。」
「御所の近く。道覚えてね。」
入江は何故かご機嫌でそんな言葉を投げてくるが今の三津には道を覚えるどころの話じゃない。
「多分無理です……。」
「まぁ何処へ行くにも基本私と一緒やから覚える必要もないか。」
「小太郎さんは私なんかとずっと一緒に居ていいんですか?」
「当たり前やん。それが私の任務よ?」
『何でまた急に自分の事を“私なんか”って……。』
自分を卑下する三津の発言を入江は不思議に思った。
『もしかして三津は何か勘違いしてる?』出逢った頃は卑下ばかりしていた三津だが,長州へ身を移してからはその発言はだいぶ減っていた。
そしてその発言が出る時は大抵自分を誰か別の女と比較した時だ。
『まさか?もしかして?』
自分の推測が正しければ三津は何て可愛い勘違いをしてるのだろうと笑いそうになった。
そして自分が盛大に勘違いをしてると気付いた時にどんな表情をするのだろう。
『いけんっ!考えただけでも可愛いっ!』
だから入江はあえて何も言わずに三津を目的地まで連れて行った。
「ここ。私の仕事場。」
「薫……堂……?」
二人はとある店の前で立ち止まった。店先に掲げられた立派な看板の名前を三津はゆっくり読み上げた。
「そう,おいで。」
入江は三津の手を引いて中へと入った。
「ただいま戻りました。」
「おかえりなさいませ河島様。」
入江に気付いた店主の男がにこにこしながら声をかけた。そしてその背後に隠れるように佇む三津に気が付いた。
「おや,そちらのお方は?」
「昨日お話した妻の松子です。」
「あぁ!この方が!何とも可愛らしい奥方様で。」
三津は慌てて姿を見せて頭を下げた。
「妻の松子でございますっ!」
「松子,こちら栄太さんだ。私が京に来てからずっとお世話になっている。」
入江の声も喋り方も貫禄を醸し出していて三津は変に緊張した。
「ここでは何ですから中でお話を。」
栄太は二人を奥の座敷へ通した。三津はガチガチに緊張したまま二人について行くしかない。
お茶を出してもらって入江はすぐに喉を潤したが三津は手を太ももの上に重ねたまま微動だにしなかった。
「松子,栄太さんは長州を贔屓になさってくれていて潜伏先としてこの場を使わせてくれている。
私は商いと香の技術を学びに来た近江の商人してこの店で働いてる事になっている。」
「そう……でしたか……。」
だから嗅覚が鈍るのかと合点がいった。
一日この店に居たらそりゃあ香の匂いも染み付くわなと理解した。
「それにしてもいい方を見つけましたねぇ。」
にこにこと頭から全身隈なく見られて三津は目を伏せた。何だか品定めをされてるようで落ち着かない。
「でしょう?禁門の変で避難した先で出逢いましてね。私の一目惚れです。今に至るまで献身的に支えてもらって……ようやく婚姻にこぎつけました。」
にっこり微笑む入江は横目でちらりと三津を見た。あからさまな作り笑顔と目配せに三津は黙って頷いた。
『そう言う設定なのね。』
長州贔屓と言えど,三津が桂の妻である事は秘密事項なんだなと理解した。
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