「なれどそれ程に、重治なる男の才が優れていたという事であろう。いつか、この織田家に欲しい逸材じゃ」
信長はそう言って、茵の上から静かに腰を浮かせた。
そしてそのまま部屋の入側まで出ると
「されどお濃。此度のことは、我が織田家にとっては朗報じゃ」
手入れの行き届いた典麗な前庭を眺めながら、信長は希望を掴んだような顔をして言った。
「朗報?」脫髮先兆
「ああ。重治らが、儂の代わりに稲葉山の城を乗っ取ってくれたと考えればな」
濃姫は目を見開くと、サッと膝を入側の方へ向けた。
「…では、重治殿とお取り引きを?」
姫の問いに、信長は沈黙をもって答えた。
「しかしながら殿、長年美濃の国主に忠節を誓うて参った者たちです。そう易々と取り引きに応じるとは思えませぬ」
「案ずるには及ばぬ。 第一、その忠節に亀裂が入った故の、此度の稲葉山城奪取であろう?
奴らは龍興めを見限ったのじゃ。怨みこそあれ、今さら忠節の念など示す訳がなかろう」
「……」
「稲葉山の城を儂に明け渡してくれるのならば、奴らに美濃の半分をくれてやっても惜しゅうはない」
「まぁ、それは随分と太っ腹なことで」
「お濃、そなた儂が絵空事を言うていると思うておるのであろう?」
「違うのでございますか?」
信長の性格上、大方 方便で言っているのであろうと姫は思っていた。
「馬鹿に致すな。長年手に入れたかった国と城が、戦をせずして儂の物になると考えれば、
美濃を半分くれてやることくらい、どうということはない。寧ろ双方にとっても良い話じゃ」
「あくまでも、その取り引きに乗ってくれればの話でございますけどね」
「まだそれを言うか。──無用な懸念じゃ。そもそも重治らが城主になれる訳もないのじゃから、
必ずやこちらの誘いに乗って来るはずだ。亡き蝮の親父殿が美濃の後継者と認めた、この儂の誘いにならな」
自信ありげに述べる夫の背中を見つめながら、濃姫は浅い溜め息を漏らすと
「…であれば私は、安んじて殿のお手並みを拝見することに致しましょう」
おざなりな一礼を垂れた。
「ああ。そちは城移りの支度でもして待っておれ」
信長は振り返り、勝ち気な笑みを姫に向けると「ではな」と言って、足早に部屋の前から去って行った。
濃姫は遠退いていく夫の背中を見送りながら、ふっと肩で息を吐いた。
「自信家で都合の良い時だけ楽観的なところは、今も昔も変わらぬのう」
姫が可笑しそうに呟くと、三保野が傍らに寄って来て
「…姫様は上手くいかないと思っているのですか?」
「何がじゃ」
「先程の取り引きとやらの話にございます。──美濃の半分がいただけるのであれば、私ならば直ぐに応じますけどね」
「女の考え方と殿方の考え方は違いましょう。それに重治殿は、そこらの凡庸な兵たちよりもずっと頭が回るお人のようですし」
「そうやも知れませぬが…」
「それに美濃の男たちは義理堅い者が多い。父上様の代から仕えている者たちも関わっているのであれば、
そう易々と事が運ぶとは思えませぬ。ま、向こうから願い出ているのならば話は別じゃがのう」脫髮先兆
淡々と語る濃姫を見て、今度は三保野が溜め息を吐いた。
「姫様。現実的に状況を見据えるのも良うございますが、もそっと、御夫君である殿のお考えを尊重して差し上げては如何です?」
「尊重しておりまする。じゃから “ 安んじてお手並みを拝見致します ” と、頭を垂れて申し上げたのではないか」
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