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1596(慶長元)年 〈サン=フェリペ号事件〉★

2014-01-18 | Weblog

●安土・桃山時代(後陽成天皇 豊臣秀吉)
1596(慶長元)年 〈サン=フェリペ号事件〉★
San Felipe Incident; Toyotomi Hideyoshi confiscates the Spanish galleon San Felipe , inaugurating his persecution of Catholic missionaries.

ベック式!ゴロ合わせ
異国矛盾(むじゅん)と サン=フェリペ。
           1596年 26聖人殉教事件 土佐浦戸湾 サン=フェリペ号事件

1596年、土佐浦土湾にスペインの大型帆船サン=フェリペ号が漂着。豊臣秀吉は増田長盛を派遣して調査し、このとき「スペインは宣教師を領土征服の手先としている」との船員の失言から、日本の植民地化を危惧した秀吉が宣教師や信徒などのキリシタンを磔にする26聖人殉教事件がおきた。

〈フェリペ2世〉

 サン=フェリペ号の名は世界中にその領土を広げたスペイン国王フェリペ2世にちなんだもの。さらに東南アジアのフィリピンもこの国王にちなんだものであることを意識すればフィリピンがスペインの植民地であり、マニラを根拠地としたことにもつながりやすい。

 

秀吉のキリシタン弾圧(上)

 キリスト教の「日本征服」恐れた秀吉の妄想横暴…疑心暗鬼から教徒の逮捕・磔刑命ずる

スペインのガレオン船

▲スペインのガレオン船

 

 文禄5(1596)年9月28日、イスパニア(スペイン)の大型船「サン=フェリペ号」が土佐沖に漂着する事件が起きた。

遭難者は救出したが、積み荷の所有権をめぐってトラブルが発生する。

これがもとで疑心暗鬼の時の権力者、豊臣秀吉は、ついにスペインによる日本侵略説まで出し、京都のキリシタン教徒の逮捕と磔刑(たっけい)を命じる。

ここに、全世界を驚がくさせた弾圧事件が始まる。

 

積み荷はうちのもの

 

 サン=フェリペ号はガレオン船と呼ばれる当時最大級の帆船。船形がこれまでよりスマートで喫水も浅いため、高速で荷を多く積める利点があったが、安定性に劣るため、転覆事故を起こしやすいといった欠点もあった。

 文禄5年7月、多くの高価な荷を積んでフィリピン・マニラを出航したサン=フェリペ号は一路、メキシコを目指して太平洋を横断していた。ところが、東シナ海で台風に遭遇する。

 安定感のない船だけに揺れも大きい。すぐに舵(かじ)が壊れて操船ができなくなったため、メーンマストを切り取って何とか難を逃れようとするも、多くの乗組員は傷つき、船体の損傷も激しい。

 ただ、ただ激しい風とうねりに身を任せるしかなかった。そんな中で、ようやく漂着したのが日本の土佐沖だった。

 突然の“南蛮船”の漂着を受けて、土佐の大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は乗組員を土佐・浦戸に収容すると、事の一切を秀吉に報告。秀吉が派遣した奉行の増田長盛(ましたながもり)は乗組員の全員処刑の可能性と積み荷の没収を伝えるのだった。

 

 当時の国内外の海事法では積み荷の扱いは船側にあるにもかかわらず、秀吉側は何を誤解したのか、「漂着した積み荷の所有権はその土地に移るのが昔からの日本での習わし」などと主張してしまったのだ。

 

 ここに互いの意見が真っ二つに割れてしまった。

 

 

 

緩やかなはずが…

 

 

 

 織田信長はキリスト教布教を奨励したことから各地に南蛮寺と呼ばれる教会が建てられた。だが、一向一揆のような宗教による大規模な反乱を警戒した秀吉は天正15(1587)年、キリスト教の布教禁止などを命じる。

 

 ただ、このとき禁じたのは布教活動だけで信仰までは禁じていなかった。貿易による利益を優先したためだが、漂着事件以来、秀吉はスペイン、さらにはキリスト教による日本征服を恐れるようになっていく。

 

 一説には、積み荷を没収された腹いせに、乗組員の一人が「スペインは日本征服のために宣教師を送り込んだのだ」などとする内容の暴言を吐いたためともいわれている。

 

 このとき、乗組員の前でひとつの秀吉の書状が読まれている。

 

 その中には、都にいる複数のポルトガル人らの証言として、「スペイン人は海賊」「世界各国を武力征服したように日本も征服するため測量に来た」などと書かれていたという。

 

 だが、この疑心暗鬼ともとれる秀吉の書状の内容をよく見れば、秀吉の根拠となっている証言者は日本と最初に貿易を始めたポルトガル人である。

 

 船が種子島に漂着して以来、50年間ずっと日本と交易してきたのはポルトガルである。その意味からすれば、遅れて出てきたとはいえ、スペインは商売がたきであり、面白くない存在であるはず。

 秀吉はそんなポルトガルの口車に乗ってしまった…ともみられなくもないが、漂着事件直後の文禄5年12月、再び禁教令を公布する。

 

伸びる弾圧の手

 

 天正の禁教令で南蛮寺などすべての布教施設が壊された京都で、文禄2(1593)年にフィリピン総督の使節として来日したフランシスコ会の宣教師、ペトロ・バプチスタは、秀吉から今の四条堀川周辺に広大な土地を与えられると、教会や病院、学校などを建てた。

 病院には当時、手の施しようもなかった病気の患者や、貧しい人たちを収容して治療を行ったとして、その精神に共感して活動に参加する日本人も数多くいたという。

 ところが、サン=フェリペ号事件後に出された禁教令で様相が一変する。

 秀吉は、京都にいるキリスト教の一派、フランシスコ会の宣教師や信者、関係者全員を逮捕するとともに磔(はりつけ)の刑にすることを奉行の石田三成に命じる。

 日本の文化や伝統を尊重しつつ、大名ら上層部から浸透させたイエズス会に対し、自分たちのスタイルにこだわり、貧しい階層に入っていったフランシスコ会の活動が、秀吉には挑発的に見えたというのだ。

 だが、ここでも先発・イエズス会に対する後発・フランシスコ会の構図が見えていただけに、またしても秀吉は乗せられたのだろうか。

 バプチスタらに逮捕のときが迫ってきた。

 

秀吉のキリシタン弾圧(中) 刃物で1人ずつ、左の耳たぶが切り落とされていった…キリスト教憎しの秀吉、磔刑前の教徒24人への仕打ちは民衆への“見せしめ”

 

2014.5.4 07:00 (1/3ページ)関西歴史事件簿

 

ガラシャ夫人の銅像=京都府宮津市

ガラシャ夫人の銅像=京都府宮津市

 

 文禄5(1596)年10月、台風で土佐沖に座礁したサン=フェリペ号の事件をスペインの日本征服の第一歩と邪推した豊臣秀吉はキリシタンへの不信感を募らせると、石田三成に命じてフランシスコ会の関係者を次々と逮捕する。その数は24人にのぼり、あとは全員、死を待つばかりとなっていた。だが、それでも許せない秀吉は、さらにむごい仕打ちを用意していたのだった。

 

地震や嵐も

 

 この年の9月、京・伏見付近で大地震が発生し、秀吉の居城・伏見城の天守が倒壊したのに続いて、サン=フェリペ号が遭遇した台風は近畿にも大被害をもたらした。

 それだけに、サン=フェリペ号事件は、秀吉の主治医・施薬院全宗(せやくいんぜんそう)ら反キリスト教派の格好の攻撃材料になったともされる。

 全宗といえば、信長の比叡山焼き打ち後に延暦寺を復興させた一人として知られるが、このとき健康を害していた秀吉にとって主治医の言葉は染み渡るように響いたことだろう。

 秀吉が再び禁教令を出すと、キリシタン全員の逮捕と処刑を京都奉行の石田三成に命じた。ただちに逮捕予定者のリストを作る。イエズス会に入会している小西行長ら秀吉配下の有力大名もいる中、名簿の筆頭は摂津・高槻や播磨・船上(ふなげ)の城主を務めた高山右近だった。

 右近は秀吉のバテレン追放令に反し、教えを捨てなかったため任を解かれ、政治アドバイザー的な身分で加賀の前田利家のもとにいた。

 だが、キリシタンにとって信仰で命を失うことは殉教であり、聖人となる機会ととらえていた時代。名簿の話を聞いた右近は喜んで利家に別れを告げたとされる。細川忠興夫人・ガラシャも晴れ着を作って、そのときを待ちわびていたという。

 

 

このため、のちの影響を考えのだろうか。三成は対象をキリシタン全員とすることに反対する。

 

次々と捕らえられ

 

 そこで最初の標的となったのは、宣教師のペドロ・バプチスタらフランシスコ会の関係者だった。

 フィリピン総督の日本最初の使節として文禄2(1593)年に来日し、謁見した秀吉から京都・四条堀川近くに広大な土地を与えられると、禁教令下にもかかわらず修道院や教会、病院などを建てる。

 病院は京都初の西洋式施設で、多くの貧民やハンセン病患者を収容するなど布教・奉仕活動を積極的に進めたことから、周辺は200人以上の信者でふくれあがり、ひとつの町を形成するほどだったという。

 これが秀吉には反抗的にみえたのだろう。サン=フェリペ号事件後の文禄5年11月、再び禁教令を出すと、12月8日に秀吉は逮捕命令を出した。

 深夜、秀吉の命を受けた三成は翌9日、手勢を連れて京都のフランシスコ会修道院に向かい、尾張のレオン烏丸(48)▽尾張のパウロ鈴木(49)▽伊勢のトマス小崎(14)-ら5人の日本人を逮捕した。

 10日には、大坂にも追及の手が伸び、摂津のパウロ三木(33)▽五島のヨハネ五島(19)▽備前のディエゴ喜斎(64)-らが捕まる。(年齢はいずれも死亡時)

 結局、翌年の1月までに京都で17人、大坂で7人が逮捕されて、京都・小川通沿いにある牢屋敷に相次いで投獄される。

 ペドロ・パウチスタとマルチノ・デ・ラ・アセンシオンの両神父をはじめ、ほとんどがフランシスコ会所属の修道士およびその信徒だが、パウロ三木ら3人のイエズス会信者も含まれていた。

 

度重なる受難

 

 捕らえられた24人はこれから起きる運命、つまり磔(はりつけ)による刑死を受け入れる覚悟はできていた。そして年が開けてまもない1月3日、牢から少し北の堀川に架かる「一条戻り橋」に連れて行かれる。

 この日は、前夜の雪模様から一転して晴天で、朝食をとったあと後ろ手に縛られて、雪の残る道を歩いて橋に向かった。

 一条戻り橋といえば、死者がこの橋上で生き返ったとか、死刑囚が真っ正直に生まれ変わるよう引き回しの際にはここを通ったなどといった、平安の昔から生と死にかかわってきた歴史がある。

 そのような所で「今度は何事か」と集まった多くの民衆を前に、見せしめとしていきなり左の耳たぶを切り落とされたのだ。秀吉は両耳を落とすように指示をしたが、ここでも三成のとりなしで片耳になったとか。

 刃物で一人ずつ切り落とされ、そのたびに血を流しながら顔をゆがませる。待つ身としては恐怖もあろうが、宣教師を中心に不安を取り除くような言葉をかけ合い、粛々と進んでいった。

 切られた耳はその場に捨てられたが、イエズス会の3人分は大坂奉行所の役人ながら同会信者の野田源助が拾いあげ、同会宣教師のオルガンティノに手渡したという。

 オルガンティノは涙ながらに、「これは日本イエズス会の初穂(はつほ)、私たちの労働の実り、新しい教会の花です。これを主、イエス・キリストにささげます」などと祈ったといわれている。

 24人の受難は、さらに続く。

 


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