ある事象は、それを正確に現すことはできない。
ひとりひとりの感じ方が異なるからだ。
昔から言われるように、
「藪の中」とか「群盲、象をなでる」と。
人の言うことは、その人の意見、考えとして受け止め、
それをも踏まえて自分なりに解釈したいものだ。
評論家とか識者の意見だって、その人のひとつの解釈に過ぎない。
時を経ればその人でも別の解釈がありうるかもしれぬ。
まぁ、あの時はああ言ったよね、と追及しないのも大人の対応。
ネット時代だからネットから過去の発言を探し出して変節だとか一貫性がないとか
あげつらうのもある意味大人げない対応だと思う。
逆にしらを切るのも同様だ。
他人の言はおろか自分の見方も鵜呑みにしないことだ。
これって世界を正確にとらえようとする人にとって不可知論に過ぎぬかもしれぬ。
こうなると、ニーチェの言説だってひとつの解釈ととらえたほうが妥当だろう。
人はそうやって事実に迫ろうと苦労するのかも知れぬが、
それで精神を疲労させることなく大方は「判断停止」をすることでバランスをとる。
精神衛生上の知恵というものだろう。
今日は午後から雨の予報だったが幸い持ちこたえた。
この時間になって雨が降り出した。
仕事は午前中で切り上げ、午後はのんびりと過ごす。
---------------------<朝日新聞>
折々のことば:353 鷲田清一
2016年3月28日
世界はいつもある視点から捉えられる。いいかえると、どこからどう見るかでその見え姿も変わる。だから、解釈から切り離された「事実」そのものがあるわけではない。世界はつねに別様にも解釈できる。「事実」を意味する英語の「ファクト」はラテン語の「作られたもの」(ファクトゥーム)に由来する。19世紀末ドイツの哲学者の遺稿「権力への意志」から(原佑訳)から。
ひとりひとりの感じ方が異なるからだ。
昔から言われるように、
「藪の中」とか「群盲、象をなでる」と。
人の言うことは、その人の意見、考えとして受け止め、
それをも踏まえて自分なりに解釈したいものだ。
評論家とか識者の意見だって、その人のひとつの解釈に過ぎない。
時を経ればその人でも別の解釈がありうるかもしれぬ。
まぁ、あの時はああ言ったよね、と追及しないのも大人の対応。
ネット時代だからネットから過去の発言を探し出して変節だとか一貫性がないとか
あげつらうのもある意味大人げない対応だと思う。
逆にしらを切るのも同様だ。
他人の言はおろか自分の見方も鵜呑みにしないことだ。
これって世界を正確にとらえようとする人にとって不可知論に過ぎぬかもしれぬ。
こうなると、ニーチェの言説だってひとつの解釈ととらえたほうが妥当だろう。
人はそうやって事実に迫ろうと苦労するのかも知れぬが、
それで精神を疲労させることなく大方は「判断停止」をすることでバランスをとる。
精神衛生上の知恵というものだろう。
今日は午後から雨の予報だったが幸い持ちこたえた。
この時間になって雨が降り出した。
仕事は午前中で切り上げ、午後はのんびりと過ごす。
---------------------<朝日新聞>
折々のことば:353 鷲田清一
2016年3月28日
世界はいつもある視点から捉えられる。いいかえると、どこからどう見るかでその見え姿も変わる。だから、解釈から切り離された「事実」そのものがあるわけではない。世界はつねに別様にも解釈できる。「事実」を意味する英語の「ファクト」はラテン語の「作られたもの」(ファクトゥーム)に由来する。19世紀末ドイツの哲学者の遺稿「権力への意志」から(原佑訳)から。
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