読了。これで3回読んだことになる。
それだけ読みやすく本棚の目に付く位置にあるということか。
ところで先ほど書いた文が投稿に失敗し揮発してしまった。
(困るんだよね、頻発すると)
記憶力が弱い私には前の文を再現することができない。
その本の中で、金色の輪回しのお話がある。
小川未明とすぐわかった。同郷の童話作家ということもある。
梗概と書評は、小川未明「金の輪」を参照。
小川未明と言えば『赤いろうそくと人魚』が良く知られており、
上越市の直江津海岸の公園には写真のような塑像もある。
ちょっと見にマックシェイクを持っているようにも見えるが、
ろうそくなのである。
彼女の目は、眼前の日本海の海を見ている。
凪の日の海も、冬の鉛色の雲の下に荒れ狂う海の日も、
変わらぬ視線で、淋しげな視線を落としている。
このため、この日本海の海に沈む夕陽を飽かず眺める事のできる
この公園を一層さびしげなものにしている。
ここに集う人は、人魚の像を見、そして海を見、
一体何を想うのだろう。
遠い日のことか。
西の彼方に去った懐かしい人たちの事か。
閑話休題。
『金の輪』のことであった。
小川未明の作風は、童話とは言え、決して童話を楽しむ年代の
子供たちに迎合していない。
むしろ積極的に人間である事の、やがて経験するであろう、
もろもろの悲しいことをも伝えようとしている。
金色の輪回しを羨ましげに見る少年とその死のお話も、
人はいずれ、それも幼くして死ぬということもあることを
それとなく教えている。
人の生は死と隣り合わせである。足して100%なのがその人の
全てである。
したがって、生れ落ちたそのときが生100%とすれば、
日々に死のパーセンテージが高まっていくことになる。
それも一律ではなく、生気の失せた状態では死のパーセンテージは
一気に大半を占めることにもなる。
そのような生死のせめぎ合いの中に人の生というものがある。
そんなことを感じさせる作品である。
それだけ読みやすく本棚の目に付く位置にあるということか。
ところで先ほど書いた文が投稿に失敗し揮発してしまった。
(困るんだよね、頻発すると)
記憶力が弱い私には前の文を再現することができない。
その本の中で、金色の輪回しのお話がある。
小川未明とすぐわかった。同郷の童話作家ということもある。
梗概と書評は、小川未明「金の輪」を参照。
小川未明と言えば『赤いろうそくと人魚』が良く知られており、
上越市の直江津海岸の公園には写真のような塑像もある。
ちょっと見にマックシェイクを持っているようにも見えるが、
ろうそくなのである。
彼女の目は、眼前の日本海の海を見ている。
凪の日の海も、冬の鉛色の雲の下に荒れ狂う海の日も、
変わらぬ視線で、淋しげな視線を落としている。
このため、この日本海の海に沈む夕陽を飽かず眺める事のできる
この公園を一層さびしげなものにしている。
ここに集う人は、人魚の像を見、そして海を見、
一体何を想うのだろう。
遠い日のことか。
西の彼方に去った懐かしい人たちの事か。
閑話休題。
『金の輪』のことであった。
小川未明の作風は、童話とは言え、決して童話を楽しむ年代の
子供たちに迎合していない。
むしろ積極的に人間である事の、やがて経験するであろう、
もろもろの悲しいことをも伝えようとしている。
金色の輪回しを羨ましげに見る少年とその死のお話も、
人はいずれ、それも幼くして死ぬということもあることを
それとなく教えている。
人の生は死と隣り合わせである。足して100%なのがその人の
全てである。
したがって、生れ落ちたそのときが生100%とすれば、
日々に死のパーセンテージが高まっていくことになる。
それも一律ではなく、生気の失せた状態では死のパーセンテージは
一気に大半を占めることにもなる。
そのような生死のせめぎ合いの中に人の生というものがある。
そんなことを感じさせる作品である。
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