日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

日本の神名 三柱

2011年08月08日 | 日記

今日は日本の神名・三柱を考えます。

1.天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊(あめゆずるひあめのさぎりのくにゆずるひくにのさぎりのみこと)

この神名は、古代シュメル人が与えていた大気の神エンリルの性格(属性)を、日本人が自らの感性において漢字13文字で表現したものです。
『先代旧事本紀』(以下、『旧事紀』と略記)の編纂は、推古28(西暦620年)年2月、勅によって始まり、同29年2月、聖徳太子の逝去によって中断され、
後代、正史として日の目を見ることはありませんでした。

『日本書紀』・推古記は次のように記します。
「是の年、皇太子(聖徳太子)・嶋大臣(蘇我馬子)、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部併て公民等の本記を録す」。
現存するものは、途中が脱落し、内容も物部氏の記録に近く、完成した史書の形では残りません。
しかし、『旧事紀』は、『記・紀』が記さない神名、「天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊」を残すなど、国史を考える上で欠かせない価値を持っています。

聖徳太子には敬服するものがあります。
語り部が継承してきたのであろう、天地の気象と大地の豊穣とともに、天が成り国が成るさまを、13文字の漢字で表現されるこの能力を、私は誇りに思うものであります。
推古15年(607年)の遣唐使・小野妹子に持たされ国書、「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す」の文面にしても、
太子の国家観は、中華圏のそれとは異なったものを持っていらっしゃったことが分かります。
日本人の国家観は古代より決して狭いものではありませんでした。

何れにしても、日本人は、古くアブラハムが神(エール)と呼び、主(バアル)と呼んだ同じ神を、
日本ではそのような変位を受けることなく、シュメル人の持っていたエンリルの純粋な神格を継承し、自前の名前で後世に書き残しました。
このことは、この神格を持った人々の移動が日本にあったことを意味します。
伊邪那美命(いざなみのみこと)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の黄泉下りを参考にすれば、
ウルク期には、移動があったものと思われます。

2.天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

神名を考える上での困難は、神の御名は、その神を守護神或いは主神として戴く、氏族と不可分には考えられないということです。
メソポタミアにおいて、アッシリアのニネヴェ陥落(BC612)までを一つの区切りにして、興亡のあった王国を概観すれば、ウルク、アッカド、ウル、古バビロニア、
ヒッタイト(ハッチ)、ミタンニ、メディア、アッシリアと多数に及びます。
私は、これらの国々の氏族は、北回りのルート(後代のシルクロード)を取るか、ヒマラヤ南山麓を東へ進むルートを取って、或いは航路で、日本へは全て来たと考えています。

問題は、上記の氏族にイスラエルを加えて、果してどの氏族の戴いていた神が、「天之御中主神」と表現するにふさわしい神であるかです。
旧約聖書が、イスラエルの習俗について記しているのですが、その習俗は、中国の史書が烏桓、扶余、高句麗、百済、新羅について書くところと似たところがあり、
イスラエルが日本へやって来たことは疑いようのない事実だと思われます。

では彼らは「天之御中主神」と呼ぶにふさわしい神格を持っていたのでしょうか?
本来ならばヤ
ウェがそれに該当します。
しかし、それらしい痕跡を中国史書はどこにも記しません。
彼らは、以前に「日の丸の話」で烏桓について記した通り、鬼神を敬い、天地・日月・星辰・山川を祀り、大人の健名のある人を祀りました。
ここから「天之御中主神」がモーセのヤ
ウェである可能性は消えます。
ただ、烏桓が敬ったという「鬼神」が何であったかについては、興味が残ります。

「天」という呼称をシュメルでは何と言っていたか調べてみました。
飯島 紀氏の『日本語‐セム語比較辞典』(国際語学社 2003)は、「AN/ZIKUM(原語)」と書いています。
シュメルの神話を集めたものの中に、人間を作る話があり、そこにアン(天)、エンリル(大気)、ウトゥ(太陽)、エンキ(地)の神々が登場します。
ここでは「アン」と読んでます。出典は、アッシリアの都・アッシュールで発見された粘土板で、古いもののコピー粘土板だと云います。

次に「アンシャル」です。
「アンシャル」は月神ナンナに対する祈祷文で出て来ます。(この祈祷文の出典も古い時代に作られたもののコピー粘土板で、BC1000~BC600の作と推定されています)。
「AN」は「天」で、「sar」は「sa=中とか心」+「r=語尾」と解しました。言われているように「天の中心」です。

悩んだ割には、言葉にすると随分と簡単に結論が出て来ました。
「天之御中主神」は、シュメル人の持っていた「天」・「天の中心」という神格が、アッシリアにおいても引き継がれて、
「アン」・「アンシャル」と呼ばれていたものの、日本語による表現ということになります。

同時に、古代日本にアッシリアが与えた影響は思いのほか大きいという事が分かります。
日本との連関を考える場合、私達は「アン」や「アンシャル」は、既にアッシリアの神名なのだと考える方が良いように思います。

3、可美葦芽彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)

この神名はエンキを表したものだと考えています。

4.補記

このブログでは呉・越の人々について書いていません。
中国の少数民族についても、南方の人々、北方の人々についても記していません。
彼らは日本へ来ました。
また、私は、江上波夫氏の「騎馬民族征服説」に立つものではありません。
氏の説は成立しません。
日本へは様々な氏族がやって来て、興亡を繰り返しながら、現在の日本を建てました。
このブログは、私が内省した日本人の歴史を書いています。
そう思って読んで戴けますと幸いであります。



参考文献:飯島 紀 『日本語‐セム語比較辞典』 国際語学社 2003
       飯島 紀 『楔形文字の初歩』 ~シュメール語・ハッチ語・アッカド語・ウガリト語・ペルシャ語~ 国際語学社 2004
       飯島 紀 『アッシリア語入門
(現代アラム語)』 泰流社 1993
       飯島 紀 『シュメール人の言語・文化・生活』 泰流社 1996
       筑摩世界文學大系 1 古代オリエント集 筑摩書房 昭和53年
       クルーと・ビッテル 『ヒッタイト王国の発見』 山本書店 1991

 

 

 

 

 


                 

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