日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

カントの思考 2

2011年07月02日 | 日記

6月26日に書きました「カントの思考」について書き足します。
書くことは正確でなければならないと思い、カントが『純粋理性批判』で述べた「原因の概念」を、読み直しました。

カント自身が述べているように、カントの「原因の概念」=「神」は彼の思考の中の純粋概念です。
最初、彼の叙述は、彼の論理的思考の先にある、思惟に似た直観が得た確信(科学の場合これは仮説となります)を、
語っているのだろうと思っていました。

思考が行き着く先の思惟=直観は、経験から帰納されるものでないが故に、言葉を換えれば経験を頼りにそれを思ったり見たりすることができないが故に、
それは現実の世界の先に在る、ア・プリオリ(先験的)なものなのであろうと思っていました。


しかし、『純粋理性批判』を読み返しているうちに、
「思惟の所産でもなく」、「世界の外にア・プリオリに存在し」、「それ自体私(カント)に知られていないもの」と、
彼が述べる存在者とは、それは、神・ヤㇵウェであることに思い至りました。

そうすると、彼が叙述するところのものは、すべて創造主・ヤㇵウェを語っていることが分かります。
これは正しいと、(私は)思っています。
またこの神は、万人の直観や思惟、思考をもってしてもその像を結ぶものではありません。
「像を結んではならない」と、命じられ、誰しもそうしているからです。

そうするとカントがヒュームの批判に対して、
「悟性的存在者としての原因は、たとえ理性の理論的使用に関しては可能なまた考え得る概念であるが、
空虚な概念にすぎない」、と書いた彼の心中に、少々、修正を施さなければなりません。

彼はここでは「悟性的存在者としての物」について語っており、自己の信念を曲げて書いているのではないということになります。
このことは留意して読む必要があるように思います。

ヒュームとカントが18世紀に交わした論点は、決して古くはなく、そこには宗教と、宇宙を含む世界の探求の方法をめぐって、
私達が考えなければならない、二つの課題があるように思います。

20世紀のカール・R・ポパーは、探求の方法をめぐってカントのそれを採り、『科学的発見の論理』(1934)を書きました。

更に私達は、カントが「確かに私に与えられている」と述べたのと同じ確信を持った人を知っています。
それは、イエスです。

イエスには数々の愛と救いの言明があります。
また、イエスは、パリサイ人を前に、「アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのである」(ヨハネによる福音書 第8章 58)、と言われました。
ここで一つの問い掛けをしましょう。
それは、
宗教的直観と確信を啓示と呼べば、啓示は言明を超えて無証明に存在するかという問いであり、
言葉を換えれば、啓示は、言明を超越して無条件に成立するかという問い掛けです。

ここにユダヤ教とキリスト教をめぐるジレンマと、宗教と言明という、凡庸な人間の頭の処理能力を越える問題があります。


参考文献: カント 『純粋理性批判』 岩波文庫 中 1961 p305~357
注: 文中の引用文は26日のものを簡略にしてあります。

 

 

 

 

 

 


                               

                                           枇杷の実 1

                               

                                           枇杷の実 2

 

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