パブリックな意思決定を考えよう! (1)
Ⅰ.パブリック
A.最初に、本題で使う「パブリック」の定義を行います。
1.本題で使う「パブリック」とは、「社会全体の人々に関わりのある、若(も)しくは、
社会全体の人々が関りを持つ」事柄(ことがら)と定義します。
2.つまり、ここで言う「パブリック」とは、ともすれば、社会の中で「私」に対比される
「公(おおやけ)」や「公共」という言葉よりも、もっと「私たち一人一人の生き方に身近
に関わって来る具体的な課題や事象」という意味です。そして、その「意思決定」とは、
「社会全体の人々に関わりのある、若(も)しくは、社会全体の人々が身近に関りを持つ」
事柄についての意思決定です。そしてここでは、「私」は「公」なんだという意識を含意
(がんい)しています。
3.私達の言葉の中には「公」や「公共」と一緒に「私」という言葉があります。そして、
「公」や「公共」という言葉と「私」という言葉は、その言葉の含む意味の内容や領域は異
なっていると、普通には考えられています。この並立を可能にしてきたのは、人間の歴史と
密接に関わっています。ここでは最初に「私」を考えます。
B.人としての個人である「私」
1.日本人の「私」=「人としての個人」の意識は、文字が人間の意識の伝達手段として今
に伝わる平仮名や漢字やカタカナを使用するようになる時代よりも前の時代から、古来より
あったと考えて良いと思います。今に伝わる文字を使用するようになってからは、例えば、
『万葉集』があります。ここには天皇から防人(さきもり)、「読み人知らず」までの個人
の思いが情感豊かに表現されています。そして、『土佐日記』を書いた紀貫之がいます。
『枕草子』を書いた清少納言がいます。『源氏物語』を書いた紫式部がいます。これらは、
和歌は俳句、川柳へとつながり、「物語」や「日記」は江戸の人情本、滑稽本、道中本へと
つながりました。分野を変えれば、工芸の分野では、刀工は自分の名をその刀に刻み、その
業(わざ)を誇りました。大工や絵師、庭師、織物師、染付師、工芸家や陶芸家は、その匠
(たくみ)の業を誇り、多くの建物や作品を後世に残しました。能、狂言、歌舞伎の役者は
古の名優の名を代々襲名します。更には、武芸者はその勇名を競い、道を求め、流派を起こ
し、茶の湯や生け花は,茶道、華道として今に引き継がれています。また更には、中世の合
戦では、勇者はその名を大音声で名乗ることを誇りとしました。そしてまた、村や地域のた
めに力を尽くし、功績のあった人を、人々は祀(まつ)りました。これらは何れも、個人の
意識や思いが、そこに作り出される作品や仕事に強く反映され、それぞれの作品や探究する
ものの仕事は、それぞれの個人の意識(思い)の在り方によってできたものだということが
できるのです。これは、自由主義社会の人間の意識と社会に対する視点の基本となります。
C.「公(おおやけ)」
1.では、「公」はどうでしょう。ここでは『記・紀』が共に「聖帝(ひじりのみかど)と
称(たた)える仁徳天皇を取り上げます。仁徳天皇が行われた事跡がいつどのように行われ
たかについての記述は、『古事記』と『日本書紀』では異なります。
2.『古事記』は、「仁徳天皇」の項に次のように記します。少し簡略に写します。「この
天皇の御代に、太后やそれぞれの皇子達の御名代(みなしろ=それぞれの名前を持ち、一定
の職業に従事する領民と領地のようなもの)として(5カ所の)部を定めた。また、秦人
(はたびと=帰化人)を使役して(或いは、使って、若しくは、役目を与えて)、茨田(ま
んだ)の堤(つつみ)、茨田(まんだ)の三宅(みやけ)、丸邇(わに)池、依網(よさ
み)の池を作り、難波の堀江を掘って海とつなぎ、また、小ばしの江を掘り、また、墨江
(すみのえ)の津(港)を定められた。ここに(この時)、天皇は山に登られ、四方の国を
見渡され、次のように言われた。『国の中に(人々が炊事する)煙が立っていない。国は皆
貧しい。それ故、今から三年に至るまで、民(たみ)の課(みつぎ=税)と役(えき=役務
の提供)を免除せよ』。これにより、大殿(宮殿の本殿)は壊れて雨漏りがするようになっ
た。しかし、修理することなく、そのままにされた。そして、国中に竈(かまど)の煙が満
ちるようになり、天皇は、民は富んだと思われて、課(みつぎ)と役(えき)を命じられ
た。これによって、百姓(おおみたから)は栄え、役使(えだち=労役)に苦しまなかっ
た」。
3.『日本書紀』では上記2.の記述を、次のような順序で記します。a)応神天皇が崩御
されて、時の太子(ひつぎのみこ=皇太子)は、皇位を大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=
仁徳天皇)に譲られようとされ、大鷦鷯尊も固辞された。これが3年続いたのち、太子がお
亡くなり、仁徳天皇が即位された。b)即位から4年の春2月、天皇は群臣(まえつきみ)
に、「域(くに)の内に民が炊事する煙が立たない。百姓(おおみたから)は既に貧しい」
と仰せられ、同年3月、民の課役(えつき=税と役務)を3年免除するよう命じられた。こ
の日より、宮殿の宮垣(みかき)が崩れ、屋根の茅が壊れても、新しくされなかった。c)
3年目には、五穀は豊穣となり、人々は豊かになり、安らいだ声が満ち、炊事の煙は繁(し
げ)く立つようになった。d)(仁徳)7年の4月、天皇は高台に上られ、遠くまで煙が起
(た)っている様子を望(のぞ)まれ、この日、皇后と会話されて、次のようにお話になっ
た。「其(そ)れ、天(あめ)の君を立つるは、是、百姓(おおみたから)の為になり。
然(しか)れば君は百姓を以(も)て本(もと)とす。是を以て、古(いにしえ)の聖君
(ひじりのきみ)は、一人も飢え寒(こ)ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧しき
は、朕(わ)が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君
貧しということは」。同年8月、一人の皇子のために壬生部(みぶべ)を定め、皇后のため
に葛城部(かづらきべ)を設けた。e)(仁徳、以下同)10年の10月、民に課役をお命
じになった。
f)11年の10月、宮の北側の郊外に当たる原野を掘り、南の川から水を引いて西の海に
流れるようにした。この水路を堀江と言う。この時、茨田堤(まんだのつつみ)を築く。
g)12年の10月、大きな水路を山背(やましろ)の栗隈県(くるくまのあがた)に掘
り、田に注ぐようにした。h)13年の9月、茨木屯倉(まんだのみやけ)を立てた。10
月、和珥池(わにのいけ)を造り、横野堤(よこののつつみ)を築いた。i)14年の11
月、猪甘津(いかいのつ)に橋を渡した。そこを名付けて小橋(おばし)という。同年、京
の南門から丹比邑(たじひむら)に至る大道(おおじ)を造り、大きな水路を感玖(こむ
く)に掘った。水路は石河の水を引いて、上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦を潤すように
し、開墾して4万余の田を得た。
4.ここでは『記・紀』の違いは問題にしません。肝要なのは、仁徳天皇の御言葉として、
「其(そ)れ、天(あめ)の君を立つるは、是、百姓(おおみたから)の為になり。然
(しか)れば君は百姓を以(も)て本(もと)とす。是を以て、古(いにしえ)の聖君
(ひじりのきみ)は、一人も飢え寒(こ)ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧しき
は、朕(わ)が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君
貧しということは」、と記した『日本書紀』の編者には、「公(おおやけ)」とは何かとい
う意識が明確にあったということを、私達が自覚することにあります。
5.公(おおやけ)とは、人々が富む社会を言います。そして、現代では、「人々が富む」
と同時に、「人々が自由であり」、「人々の権利が確立している」社会を言います。ここで
は、「人々が富み、国が富む社会」とは書きません。それは、国には古来より官僚の組織が
あり、官僚が富むことと国が富むことは同義ではなく、官僚が富むことを以って国が富むこ
とと誤解されては困るからです。また、国家の形態はその時々の社会の一形態でしかありま
せん。
D.「公(おおやけ)」に対比される「私」の領域
1.ここで言う「私」の領域は、B.で述べた「私」とは異なります。B.で述べた「私」
は、ここで言う「私」の領域を生んだものであり、更に「公」の領域を生んだものでもあり
ます。そして、現代の「私」の意識は、「公」に対比される「私」領域と「公」の領域の両
者を一体とした(統一する)「私」へと進んでいると、このブログの筆者は考えています。
2.「公(おおやけ)」に対比される「私」領域は、日本の歴史で言いますと、日本列島を
一つの纏(まと)まりをもった社会として治(おさ)めようとする王とその制度が成立しま
すと、その領域に相対して、この王と制度の領域から自己の私領域を守ろうとする豪族の領
域として存在しました。そして神武天皇の東征によって新しい大和朝廷(神武・崇神朝)が
成立します。
【余談】:このブログで既に明らかにしているように、神武天皇と崇神天皇は同一人物、若
しくは親子、御兄弟です。私見では、『記〈古事記〉・紀〈日本書紀〉』は東征の過程を
神武天皇の業績として描き、神武天皇が即位されてからの御代を崇神天皇の業績として描い
たと考えているのですが、神武天皇の御陵を『記・紀』は記していますので、この御陵が
神武天皇の御陵であると実証されますと、神武天皇と崇神天皇は親子、若しくは、御兄弟と
いうことになります。更にもう少し書き加えますと、神武天皇は、御自分と同じ皇統に当た
られる饒速日尊(ニギハヤヒノミコト=大己貴神(おおなむちのかみ=おおあなむちのか
み)=大国主神=孝元天皇〉の王朝を引き継がれて新しい王朝(これが神武・崇神朝です。
この神武・崇神朝を分かりやすく言いますと、御一人の天皇の御代に御二つの元号を持たれ
たと考えれば、理解しやすいと思います)を建てられたのですから、御二人の祖である皇統
に当たれる神々を尊崇されたというのは史実を考えるうえでも整合性を持つのです。これを
読んでくれている中学生、高校生の皆さんは、神武天皇はこれまで色々言われてきたよう
に、架空の天皇でも、神話や伝説上の天皇でもなく、厳然と実在された天皇であり、御人
(おひと)であるということを頭に叩き込んでほしいと思います。しかし、こういうことは
今の学校で教えてくれません。学校で教えることを学び、その上で自分で考えなければなり
ません。
3.次に、神武・崇神朝から大化の改新までの間に、応神朝が成立し、滅び、そして継体朝
へと引き継がれ、物部氏と蘇我氏の争いがあり、大化の改新で蘇我氏が滅びます。この時代
は、先の時代より強い大権を持った天皇の統制と秩序の要請に対しやはり自己の私領域を守
ろうとする豪族の領域が存在し、これが社会の基本構造であったと考えて良いと思います。
上代と同じ構造です。そして、大化の改新(乙巳の変 645)によって、日本は律令国家の体裁
(近江令 668、戸籍作成 670、飛鳥浄御原令 689、大宝律令 701、養老律令 757)を整えて行
きます。そして、この諸改革を行わさせた意識こそ、3-d)と4で見た『日本書紀』の編
者が仁徳天皇の御言葉として記述した「公」の意識であり、「荘園」が登場(墾田永年私財
法 743)するまで、大和朝廷の目指した「公」となります。そして同時に、「私」の領域を
形成して行ったのが荘園です。
4.「荘園」は、大化の改新以前に豪族たちの支配下にあった土地を「公田」とし、加え
て、新たに開墾した土地の所有をその開墾者に認めることによって生じました。そして、そ
の変遷は、日本の土地(とその生産物)をめぐる激しい争いを生み、徳川幕藩制へと収斂
(しゅうれん)して行きます。そして、ここで留意すべきは、徳川幕府はその幕藩制が成立
する法的根拠を、大和朝廷の律令の手続きを踏んで得ている点です。これはどういうことか
と言いますと、徳川家康は幕府を立てる(1603)にあたって、朝廷から征夷大将軍(この職
は、崇神朝の時、北陸、東海、西(播磨、吉備)、丹波に派遣された四道将軍を引き継ぐも
のと考えて良いと思います)と朝廷の最高執政官の一つである右大臣に叙任されています。
征夷大将軍職によって日本全国の軍事統括権を得ます。そして同時に、これも軍事組織であ
る諸藩の大名、小名の叙任権を得ます。同時に、徳川家康は、朝廷の右大臣でもありますか
ら、その施政は、朝廷の右大臣としてのものでもあるという法的な(律令上の)根拠となり
ます。これが江戸時代の基本構造です。加えて家康は、「禁中並公家諸法度(きんちゅうな
らびにくげしょはっと)1615」を、前関白二条昭実、将軍徳川秀忠、前将軍徳川家康の連署
で公布し、天皇を政治から完全に遠ざけました。しかし、このような歴史の推移の中でも、
天皇は天皇位の継承者としての命脈を保ち続けれら、幕末を迎えます。
光満つ青空と桜
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