新・仏像ワンダフル!

千年の時を超えて仏像との新しい出会い
いやいや街を見渡せばよく似た人がいたような・・

木像不空羂索菩薩 法蓮寺・香川 10世紀

2012-04-30 06:25:04 | 旧仏像ワンダフル
腕が8本もあるのになんという安定感
しなやかな筋肉の自然なつながり
ずっしりとした存在感

平安の日本人にもそれなりに
生きる難しさがあって
沢山の腕を造り出し

それぞれの点を持って円と成す

ひとつの事に執着せず
調和とバランス

花を持ち 法を持ち
大きな耳で本質を観る

円がどんどん膨張し
やがて安らぎの中に還っていく





見猿 言わ猿 聞か猿  日光東照宮

2012-04-28 08:52:04 | 旧仏像ワンダフル
ガウディの壮大な世界観にすっかり心酔、
出るのはため息ばかりですが、
そういえばわが日本にも寺社仏閣ではよく見かける
欄間や建具の彫刻にとてもうんちくのあるものが
あると気が付いたんですよね~

修学旅行でもお馴染みの 見ざる言わざる聞かざる

 さてね、踊る阿呆に見る阿呆~
    ♪あなたな~らどうするぅ?

 日本人の感性だって捨てたもんじゃないですね。

イエスとマリアとヨセフ  サクラダ・ファミリア大聖堂

2012-04-19 20:30:28 | 旧仏像ワンダフル
ガウディの建築物を味わうには
人生すべてつぎ込んでも足りない、
本気でそう思います。

大河ドラマのように空間を埋め尽くす
人物や動物、植物や神々や悪魔、
世界を称賛する彫刻の数々。

観る場所によっても自分の心境によって、
感じるものが変わるのですが、
今回は何といっても 祈り です。

眼を閉じて ただ謙虚になり
ニュートラルに戻って感じてみます。
願わくばすべて受け入れ、
自分の中から湧き出る願いを
受け取りたいものです。




誘惑の像(ロザリオの間)  サクラダ・ファミリア大聖堂

2012-04-18 09:12:21 | 旧仏像ワンダフル
サクラダ・ファミリア内部で唯一ガウディが製作した
とされるロザリオの間、戦争で破壊され浮浪者がたむろし、
50年ものあいだ手つかずだったようです。

設計図も無い今となっては、聖堂の完成を目指し修復する為に
重要な場所のひとつと言えます。

すべてには意図があり、同じ意匠は使わなかったガウディ。

一本の柱の上に造られたこの像も示唆に満ちていますね。

悪魔に爆弾を手渡された人物の顔はゆがみ、体をそむけて
必死に救いを求めているよう。

仏像では見かけない善悪の場面ですね。
悪魔も天使も人間も、誰の心の中にも住んでいる住民だと
言っているようです。
 仏像は耳が異常に大きいので区別がつかますが・・
ガウディも仏像に触れる機会があれば、どこかに1人くらい
耳のでかい像を仕込んでくれたでしょうか。

ガウディの「よき死」  サクラダ・ファミリア大聖堂

2012-04-16 16:00:20 | 旧仏像ワンダフル
キリストの臨終を現したこの場面の
キリストの顔はガウディのデスマスクに
驚くほど似ていたのだそうです。

製作はガウディ生前のものですが、
死後10年後に起きたスペイン市民戦争によって
同じ民族の手によって徹底的に破壊されて
いたものが修復されました。

カトリックの教会なので宗教的な理由で
標的になったわけです。
設計図や模型もほとんど焼失、
未完の聖堂の建築も頓挫しかけていました。

ガウディの目指したものは、
自然の摂理の再現ではないかと思います。

建造物には1本の樹木をモデルに構造を割り出し、
力学的な強度を、紐で吊るした重りで検証する
逆釣り模型システムを編み出しました。

人物についても、まず骨格があり筋肉をまとい
皮膚を持ち、その上で成すしぐさは
精神性を表すのだと、どれもおろそかにせず
積み重ねられた結果の形だというのです。
本物の骸骨でいろんなポーズをとり、
それを写真に撮って製作にあたっていたようです。

もうガウディはいませんから、
現在続いている建築が意に沿うのか本人に確認は
できません。

が、ガウディと同じような心の境地で教会に
向かい合えば、遠からずのものが製作できるだろうと
サクラダ・ファミリアでずっと石を彫る
外尾悦郎さんは言っています。

自然を敬い、草や木々、動物や風や空、海、
身の回りの小さな存在にももっと心を注いで
見てみれば、生きづらさを感じる毎日の処方箋が
沢山隠れているのが見つかるかもしれないですね。





裸形阿弥陀仏 (ジョウ寺・奈良)と釈迦涅槃 (法隆寺・奈良)

2012-04-12 16:03:36 | 旧仏像ワンダフル
素朴な疑問として、お釈迦さまと仏さまの関係って
気になるものですよね~。

学術的には重要で長い話になるのだと思うのですが、
 仏さまの教えを広めるためにお釈迦様が現れたと、
だいたい考えていいのかと思います。

 卯月(4月)8日はお釈迦様の誕生日だという仏生会(ぶっしょうえ)
にちなんで、こんな話を聞きました。

 釈迦も阿弥陀仏もたいへん崇高なお方なのですが
名前の前に「お」を付けた突端、
   「お釈迦になって お陀仏です」と、

万事休す、ゲームオーバー的な意味合いに変貌します。

 これには諸説あって、鋳物職人に阿弥陀仏を注文したら
顔が釈迦で出来上がってきたので、それ以来不良品で使い物にならない
ことをお釈迦になると言った等いろいろあるようです。 

こんな身近にある仏教用語的なものも面白いものです。

仏教の信仰を意識しなくても自分たちの日常の中に
釈迦でも仏でも確かに存在する気配が感じられますね。

 でも、思いました。
 まだ生きながら釈迦や仏にはなりたくないかな~
 もう少し煩悩にまみれて娑婆でがんばりまっしょい!

 

 

 


アントニ・ガウディ 1852-1926 スペイン

2012-04-05 19:31:32 | 旧仏像ワンダフル
 宗教芸術は精神の表明であって

    諸形態の翻訳ではない

なにげに部屋の壁には6年程前からガウディの
カレンダーを貼っています。

教会や私邸、公園など
石やタイルに彩られた建物からは
人間の想いを形にする事には限界がないと
声なき声が聞えてくるんですよね~

普段はあまり意識していなくても
いつもそこにあって
時々無性にそれに触れたくなるなるんです。



今も建築が続くサクラダ・ファミリアのように
ガウディ本人亡き後も、人を喚起する精神性が
あるのだと思います。

思えば去年の8月に空海から始まり
東寺の立体曼荼羅に共鳴してしまい
仏像ってなんだろう?と始まったこのブログです。

仏像とガウディの建築物のあいだで
東も西も天高く広い宇宙でみんな一つにつながって
仲良く手をつないで花見でもしているような
果てしない時空に漂ってしまうんです。

一体自分に何が出来るのかと考え込んでしまうわけです。