りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

江戸=穢土

2024-05-24 04:38:45 |  日 記 
新しい町、新しい都市だった「江戸」。
「江戸」はもともと広大な湿地帯にあって、家康公が移ってくるまで、何かの中心であったことはない。と言っても、何もなかったというわけでもない。各地方、どこをとっても、最古層から現代にいたるまで、人々の営みが積み重なっているのが日本。「江戸」の湿地帯にも、気の遠くなるほど古くからの歴史はある。
しかし、都市であったことはなかった。家康公が来るまでは。
海を築固め、埋立地を拡張したり。土地や川の流れに大改造を施して、短期間の内に急速に都市化した。そういう意味では、人が集まって、自然発生的に都市化したのではなくて。最初になにがしかのデザインがあった。あるいはある種のイデアが計画の前にあった。何かを実現するために建設された、ある種の計画都市とも言えるわけだ。
とは言え、現在の「東京」を見て、全体の計画性というものを、シンプルに指摘するのは難しい(´ε`;)
わかりやすい「計画」の部分と、とても「計画的」とは言えないような部分が渾然一体となった「東京」を見て、かつての「江戸」の「計画性」を見抜くというのは至難の業である。

「厭離穢土欣求浄土」という浄土宗の文句は、これを家康公が旗印にしていたことでよく知られている。
「厭離穢土」、汚れた現世を厭い、離れる。
「欣求浄土」、ただひたすら、仏の国に生まれ変わることを望む。
「穢土(えど)」とは、すなわち、「穢れた現世」。
家康公が「江戸」に移るときに、このことを考えなかったということは、よもやあるまい。
地政学的に、「江戸」のアドバンテージを認めていた家康公が、「江戸」を中心とすることを決めた時に、「穢土」を「浄土」に変えてやろう!というプランも同時に描いた。そんなことを想像する。

今だって、「東京」は常に変化している。いつだって、「東京」は普請中と言えるわけなのだが、それはもう何百年も続いてきた、「江戸」から受け継いだ宿命のようなものなのかもしれない。が、現在の「東京」が「江戸」の都市計画の連続的延長にあるとは、ちょっと思えない。
明治維新に関東大震災、東京大空襲、戦後復興という大きな契機があって、時代ごとに「東京」は大きく変化してきた。この変遷はあまりに大きく、「江戸」の描いたはずの風景からは、ほとんど断絶しているようにも見えてくることもある。表面的な見え方がまるで違うから。
都市計画、都市設計の思想的バックボーンの違いが、「表面」に端的に表れていると見ることもできる。
「穢土」の「浄土」化。
家康公の秘めたる意図、というか、公然なる目的というか。
それが現代の「東京」に垣間見えることがあるとすれば、表面上の変遷などは「江戸=穢土」の土台の上に展開しているに過ぎないから?
「穢土」の「浄土」化が、ひたすらに続いているのであれば、江戸に鳴った最初の槌音は、いまだ鳴り止まず、というべきなのかもしれない。




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