りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

アトリビュート

2024-07-12 07:48:30 |  日 記 
持っているモノが、直接に、間接に、自分を表す。。。

神話に登場する神々の話なら、これは常識。仏像などでも、持ち物があってこそ、という表現。それがないと、判別のつかない神様っていうのはいらっしゃる。というか、神様の性質を明確に表す意味で、ほとんど不可欠。持ち物がないとわからない神様っていうのは、すでにして偶像的であるのだが、それはともかく。
アトリビュート、すなわち属性という概念を、ひろく人間一般にあてはめようとすると、現代においては不都合の方が多くなる気がする。
持ち物、所有するモノが、その人を表し得る場面はある。
このあたりについて、ピエール・ブルデューあたりが丁寧に論じていたりするのだけど、アトリビュートというよりは、それは「趣味」とか「好み」とか、現代ではおよそプライベートとされる領域、個人のテイストの領域にこそ、階級の象徴、階級的マトリックスがあらわれる。とりもなおさず、その個人が属する階級を表してしまう、とか云々。
長い歴史の上にできあがった階級社会にがんじがらめになっているヨーロッパの思想家にとっては、それはなるほど、真実なのかもしれない。
だが、所属する階級、クラスを不可避的に表すとしても、その人を表すとは言い切れないところがある。趣味は所属を表しているかもしれないが、同時に所属するグループ内での差別化も生み出す。その人は、そのクラスの中で位置づけられるわけなのだが、「その人」を見ないで済ませることができるという意味で、アトリビュートは大変に便利ではある。そう。「その人」に対して、関心を寄せる必要はない。ただ、そのクラス、そのサークルにいられる理由、そこから排除できない理由が、ひょっとしたらアトリビュートにあるかもしれない。

逆に。
持っているモノが自分を表さない。そういう例だって、いくらでも挙げられる。
悪魔でも聖書を引用することはできる、のであるからして(^o^;)
聖書を持っていれば。聖書を持つことがその人を表しうるか?と問えば、どういう答えが返ってくるだろうか?
そういう風に考えると、アトリビュートという意味は共通の観念が交換しうる、閉じた意味空間、且つ、嘘がない、誠実な(?)意味空間の内側でのみ有効ということになる。
悪魔の持つ聖書は、確かに閉じた論理空間の中でなら、絶大な威力を発揮するに違いない。
が、クリスチャンでない人が聖書を持っていたとして、それが悪魔的か?と問われれば、失笑で返すしかない(^o^;)
僕自身はクリスチャンではない。けれど、聖書ならいろんなバージョンを複数冊、文語版やら、King JAMES版やら、ギリシア語対訳版やら、結構マニアックな版を所有している。これで、僕のいるべき文化的な場を言い当てられるか?と問えば、「そんなの。意味ないし。」くらいの返答がもっとも正しい答えのひとつになると思う。
持っていることは、僕の興味関心を十分に示しているが、僕の文化的な所属をさえ言い当てることはできない。

長く続いた消費社会の最果てにあって、それはフェティシズムの最果てを同時に意味することになるだろうけど、そうした意味のマトリックスが、過剰な市場経済の成れの果てと共に崩壊しつつあるのが現代だと言うことはできるか。
果たして、この成れの果ての意味空間において、アトリビュートの意味は機能するのか?

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