進藤龍也牧師の真面目な方のブログ

元ヤクザの牧師の真面目なブログ
進藤語録、進藤節・・・メッセージや独り言をつづります。

麦の会 発行の和解誌に寄せた記事です(2年前)

2012年02月09日 | 刑務所伝道
麦の会のみなさんへ、

はじめまして。
前科7犯の元極道牧師がすっかり定着してしまった進藤龍也です。
私も刑務所伝道を始めて七年になりますが、当初はもちろん一人で、自分の兄弟分にイエス・キリストを伝え、更正させ、永遠のいのちを得させるために始めたものでしたが、やがて私の兄弟分の姿を見て(刺青を入れて聖書を開き、祈っている姿)文通をしている兄弟分の牧師を紹介してくれという同囚がつぎつぎと現れ、文通の相手が広がって行ったのです。そこで神学校の同窓生の何人かに文通を依頼したのがきっかけで、今も私の他に文通をしてくださっている人が10人ほどいます。そして今現在、名簿に残してはいないので、確かな数字は出ませんが、60〜70人くらいの受刑者と文通をしています。短期刑の人も多いので人数は流動的です。
中経出版「人はかならず、やり直せる」でも、新書「極道牧師の辻説法」(学研パブリッシング)でも書きましたが、人生やり直しの鍵は本気度でしょう。

本気度と言えば、無期囚や死刑囚の本気度には私も感心します。信仰に対する駆け引きがないからでしょうか。早く出たいがために牧師との文通を希望するのではなく、本気で赦されたい、愛されたい、という気持ちが込められています。もちろん短期の人に本気度がないといえば、そうではなく、誰しもがよくなりたいという欲求があります。このままでいいのだろうか、人生を刑務所と社会と行ったり来たりの人生で本当によいのだろうかと考えるでしょう。そこが運命の分かれ道だと思います。そこで全てを投げ打って裸になって、価値観もステイタスも積み上げて来たものも全部を捨てて、一からではなく、ゼロからやり直してみようと思う本気度があるかないかだと思うのです。「極道牧師の辻説法」の中で無期囚からの手紙を引用しておりますが、毎年の面会で彼に言う御言葉があります。「あなたの良い行ないをみて、天の父があがめられるように。」たとえ、社会に出れなかったとしても塀の中で生まれ変わり、その囚人が天の父をあがめるというクリスチャン的生活、平たく言えば、明るくなり、模範囚となって行き、そしてその姿を見た刑務官たちあるいは同囚が神を知るということです。私たちの良い行ないというのはつまり、生けたる真の神を礼拝している事なのだと私は思います。

短期刑の人にとってやり直す鍵は社会に出てからのことでしょう。社会に出た途端に様々な誘惑との戦いがあります。その誘惑に勝つために出所するまで聖書と向き合い、神の言葉を蓄え、信仰を養い、準備運動しなければなりません。私の教会にもたくさんの人が出所して来て、電話をかけてきます。でも実際に教会に来る人はほんのわずか。その中からまたほんのわずかが救われて行くのです。もっと私たちに生活を提供する場所や経済力があれば電話だけではなく、教会にやって来る人はもっと増えて来るでしょう。今でこそ30人ほどの教会に成長していますが、教会に転がり込んで来る人たちがいた時は10人程度であったと思います。流動的に来て自立するか刑務所に逆戻りするかどちらかです。圧倒的に逆戻りが多い。しかしそれは彼らに信仰がなかったと言う事ではありません。私はそう思いたいです。

行く所がないだけであればこんな小さな教会でなくてもよいと思います。ようするに誘惑に負けてしまったのでしょう。選民イスラエルでさえエジプトを脱出してたくさんの奇跡と救いを体験しながらもちょっとした試練でエジプトに帰りたいと嘆く、、、そんな姿は人間の本質なのでしょう。

今現在、教会には一人の青年が、寝泊まりして工事現場に通っていますが、私たちができることは教会で寝泊まりさせてあげることくらいです。もっともっと多くの方にこの働きを知ってもらい、出所者の社会復帰のために生活する場、就職の斡旋などができればと切に思います。一人の犯罪人が社会復帰して犯罪をしなくなれば、犯罪人一人にかかる税金も節約できます。犯罪者の私が言うのだから切実に感じて欲しいです。ほとんどの被疑者は国選弁護人を求めます。そしてこの弁護士料はすべて税金でまかなわれます。ひいて言えば被疑者や服役者にかかる衣食住費、それを管理する刑務官の給料などです。犯罪増加で刑務所の増築がすすむなかで、刑務官の数も増え、さらに税金がこのことに投入されています。つまり日本の犯罪を減らす事が国の税金対策になると真剣に私は考えます。しかし日本の慣習では悪い事をした人については後回しというのが現状です。日本をよくするには、犯罪に手を染めなくてはならなくなったような人たちのこころの入れ替えと、社会復帰する場所と職を提供することではないでしょうか。私はそんなことを真剣に考え、社会にいくらかでも訴えようとしているのです。