進藤龍也牧師の真面目な方のブログ

元ヤクザの牧師の真面目なブログ
進藤語録、進藤節・・・メッセージや独り言をつづります。

5つの目的 26日目

2018年12月31日 | 第二回 5つの目的 熟考

誘惑に卒業はない。

以下に多くの伝道者や牧師達が脱落したか。

責めるのではないが、それでも悔い改めたものを踏んづけてはならない。
サタンはズルくてアンフェアなので弱点を狙ってくる。

だから自分の弱さを知ることも大切で、そのことを克服できるようにも祈ることができる。
誘惑にかられても、拒絶できるように小さなことの拒絶の訓練は有効。

自分に自信がつく。

誘惑に打ち勝った後にもサタンは巧妙に仕掛けてくる。
それは、高ぶりという心。
これも内側にあるものを使って、堕落させようとする。
常に謙遜と、へりくだりを意識することが肝要。


誘惑に勝利し続けた結果を想像してみる。
誠に不動の大木のように信仰の巨人として、そびえ立つことができる。
その木には、木陰ができて、人が集まる。憩うことができる。
強い風を遮り、雨宿りすることが出来る。

御霊の実を、たわわに実らせたキリストの性質の私。

 

13周年記念動画を観てる図


第二回 五つの目的 19日目

2016年03月05日 | 第二回 5つの目的 熟考
202頁 共同体は集まりたい時に集まることの上に集まるのではなく、霊的な健康のためにどうしても集まることが必要であるという確信のもとに建て上げられて行くものです。初代クリスチャンは毎日集まっていました。
交わりを持つためには、時間を投資しなければならないのです。


これに集約される。これが交わりの全てだ。交わりの質を上げるものやはり時間をともに過ごすことなのだ。
収容会も控えている。霊的家族の愛の成長と確認のために是非参加されたし!罪友のみんなは私のいのち。

また、謙遜が必要ということがかかれてありアーメン。
昨日の説教「ウンチの祈り」そのまま。
臭い祈り、臭い態度、、、謙遜は人を和ます。


五つの目的18日目 人生に3は他の人が必要

2016年03月05日 | 第二回 5つの目的 熟考
人生はともに分かち合うべきものとして計画されている。

教会でなされている茶話会つまり交わりと呼ばれているものは教会員同士であれば一週間の健闘を讃えあい傷ついていれば慰め合うものだけれども、それだけでは本当の交わりではない。

というのは、神様が望んでおられる交わりとはウイークデーつまり日常から教会員と会う、電話で話し合ったり祈りあったりできる間柄ということ。
人生に関わり合う。
人生を共有する仲間、霊的家族。
全ての教会員とはできるはずもなく、わずかな人でもいい。そのような友情がたくさんあれば大きく広く機能していく。
腹を割りはなせ、守秘義務が守れ、祈れる無二の同性の親友を教会員同士で作って欲しいと祈り願う。

牧師てある私もそんな仲間はまず妻がいる。また教会にもいるし、地方にも、師匠もいる。多くはないが非常に心強い神からの協力者である。

もしかすると、そのような仲間から裏切られたりするかもしれないがそれを赦すことの中に信仰の成長がある。師匠にも親友にもつまづくようなことは実は何度かあった。しかし、感謝なことに目を向け、自分の足りなさに目を向けて赦しを決断するとどうだろう?今まで以上の関係に成長してきた。

ゆえに赦しのない交わりには成長がない。赦しのない教会にも成長はない。だから人は一人で居るのは良くないのだ。

注意をする時も愛をもって伝えて
サンドイッチ方で褒めて注意して褒める。
聞く方も愛をもって聴くこと。
それでも拒絶され、非難され悪者になるケースもある。だからこそ本当の交わりが必要なのだ。



5つの目的 17日目

2016年02月09日 | 第二回 5つの目的 熟考
エデンの園という完璧な罪のない環境においても神は、人が一人で居るのは良くない、と言われた。

この一文は非常に目が開かれた。
誰かが居なければ愛することは出来ないし、愛されることもない。
神は三位一体だから互いに愛の関係において一体なのだ。そのようになることを神は我々人間に求めておられる。

教会はキリストの体と例えられる。互いがその器官なのだと。その体の一部が切り離されたら、やはり私の小指と同じでなんの役にも立たない。だからこそ離れた兄弟をケアーする必要がある。
そもそもキリストの身代わりが全てであり、その有り難さや、自分がいかに赦された存在であるかを忘れてしまっているのだと私は思う。払っても払いきれないほどの赦しと感謝の恩が私にはキリストにある。
それが私の原動力である。

神学生インターンの時に朝から晩まで教会で奉仕していた。今もそうだけど楽しい!ワクワクする!認められたいとかそんな気持ちは昔からないのは本当に良い教会であった証拠だろう。

教会を愛する教会員を育てなければならない。教会を利用するだけの教会員ではいけない。神への愛の応答を奉仕で応えるそんな教会員を育てなくてはいけない!


山崎順二兄の証 in 罪友教会 2015.12.13

五つの目的 16日目 人生の目的について考える

2016年02月09日 | 第二回 5つの目的 熟考
生きることは愛すること。
愛がなければ価値がない。
神は愛である。

まさに愛こそが人を変える。
愛することを恐れるのは、その愛が自分の愛であり、肉欲の愛であるから裏切られた時に傷つくのである。神の愛で愛することは用意ではないができる。それは普段からの鍛錬であり、デボーションであり礼拝であり、祈りである。いつも神と一体でいることである。

疲れている中で見知らぬ誰かから相談の電話がくる。週平均四人として月16人の12か月、、、
礼拝に繋げるだけではない。その方の救いのためである。それがいつの日か評価される時が来ることをこの章で確認とれて嬉しくなった。



努力をして損はなし!