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心のたねを言の葉として

時代や社会が宮崎勤を作った            関川宗秀

2021-09-07 11:19:43 | 死刑

 

時代や社会が宮崎勤を作った            関川宗秀



 「この国の80年代、時代と社会が宮崎をつくった」と吉岡忍は言っている。

 これは森達也の『相模原に現れた世界の憂鬱な断面』(2020年 講談社現代新書)に出てくる、吉岡の言葉だ。

  宮崎とは、1989年から99年にかけて4人の小さな女の子を殺し、2008年に死刑が執行された宮崎勤のことである。

 宮崎勤だけでなく、神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇、オウム事件の麻原彰晃、相模原事件の植松聖など、いずれの凶悪事件の犯罪者も社会や時代がつくったと吉岡は言う。

 

 『相模原に現れた世界の憂鬱な断面』の「第一章 宮崎、麻原、植松」は、森達也が吉岡忍の言葉を聞く形で書かれている。二人の対話は、宮崎勤ばかりでなく、麻原彰晃、植松聖らの事件に共通する問題点を指摘している。それは、メディアや社会の関心が、加害者ではなく被害者にむかっていること。そしてこれらの悲惨な事件は、結論ありきの精神鑑定書が出され、責任能力があるとされて、死刑が確定するという流れで決着すること。だから、なぜこのような事件が起きたのか、この時代や社会と犯人とのかかわりを考えなくなっているというものだ。

 

 歴史的な事件や悲劇が起きた時、その犯人を捕らえ断罪したとしても、それは真の解決にはならないだろう。事件について、時代や社会とのかかわりを考え、それをいかに防ぐかといった動きがないのであれば、同じような事件はまた起きる可能性はそのまま残っていることになる。





 1995年3月、東京で地下鉄サリン事件が発生した。死者13人、被害者約6300人。この無差別殺人を起こしたのは「オウム真理教」。警察は上九一色村の教団施設「サティアン」に対して強制捜査に踏み切った。その様子は、テレビが生中継で全国に伝えた。

 そして、強制捜査以降、明らかになったサティアンの全貌は世間に強い衝撃を与えた。12まであったサティアンは、信者が居住する無機質で不衛生な無数の小部屋ばかりでなく、サリンや小型銃の製造工場まであった。

 坂本一家殺害事件、松本サリン事件、そして地下鉄サリン事件と牙をむいたオウム真理教だが、なぜこのような狂気が生まれたのか。オウムにたまたま狂人が集まって、このような事件が発生したわけではないだろう。

 

 信者は、電極のついたヘッドギアを装着し、麻原の脳波と同調させ、洗脳が図られていたという。

 一時は1万5千人以上の信者がいたというオウム真理教。東大や京大、阪大など高学歴の信者もいた。

 なぜ、オウム真理教にこのように多くの若者が入信していったのか。オウム真理教の何が、多くの若者を引き付けたのか。オウムの狂気は、まさにこの時代、この日本が生んだと考えるしかないだろう。

 

 異常な発熱があった時、対症療法的に解熱剤をうって発熱が下がったとしても、それは一過性のものだ。さらにまた発熱が続くようであれば、発熱を生み出しているのはどこか、なぜ発熱が続いてしまうのか、その根本的な原因となっている疾患を探り当て治療することが大切だろう。

 

 2018年7月、死刑判決を受けていた13人のオウム真理教の幹部の死刑は決行された。しかし、それでオウムの抱えた闇が消えたわけではない。

 今もこの国には、オウムを生んだ深い闇が大きな黒い口を開けている。その黒い口はますます大きくなっているかもしれない。




 ところで、「犯罪の動機など解明しようとしない、これが欧米の常識だ」と書かれている本に出会う。斎藤貴男による『安心のファシズム』(2004年 岩波新書)である。この本によれば、犯罪の原因などいくら考えても、犯罪はなくならない。では、犯罪を減らすためにはどうしたらいいか。それは「犯罪の機会」を減らすこと。これが犯罪対策の基本となっている。だから、安全な街づくりのために、監視カメラを設置する。このように監視社会がつくられようとしている流れを警告する本だ。

 

 監視カメラを運用する側の人々の近年の発想は、一般の常識や想像を絶している。たとえば法務省の出身で、警視庁「少年非行防止法制に関する研究会」や東京都「治安対策専門家会議」、国税庁「酒類販売業等に関する懇談会」などの委員を務める小宮信夫・立正大学助教授(犯罪社会学)が展開している論理が、ここ数年、警察関係者や保守系議員、地方の有力者らにもて囃されている事実は、広く知られておくべきではないか。

<事件が起こると、マスコミもこぞって犯罪者の動機を解明しようとします。ですが「そんなものは分かるわけがない」というのが欧米の常識なのです。>

<そこで、新しい対策を考え始めたのです。それは、“犯罪の機会”に注目するアプローチです。犯罪の原因があっても犯罪の機会がなければ犯罪は実行されません。機会がなければ犯罪なしです。>

<犯行をするのに都合のいいような状況が犯罪の機会です。犯行現場で他の人に発見されるかもしれない。通報されるかもしれない。盗むのに非常に時間がかかる。高度なテクニックがないと盗めない。こういうことが都合の悪い状況です。この状況があると、犯罪者は犯行を思いとどまるのです。>(『安心な街に』2003年3月号)(『安心のファシズム』p148)



 引用されている『安心な街に』とは、警察庁の外郭団体である財団法人・全国防犯協会連合会の機関紙だそうだ。

 小宮教授の「犯罪の機会をなくす」というアプローチは、監視カメラによる安全なまちづくりへという提言につながっていく。このような監視カメラ導入の議論では、「割れた窓理論」がセオリーとして必ず援用されるという。

 

 “小さなことをおろそかにしない”という方針は、わたしが犯罪に立ち向かうために採用した「壊れた窓」理論の核心をなす。この理論は、人が住まなくなった建物の壊れた窓のように、一見些細な事象が、地域の荒廃というもっと重大な結果に帰結すると考える。無傷の建物なら石を投げない人間でも、すでに窓がひとつ壊れている建物なら、もうひとつ窓を壊すことに抵抗を感じないだろう。さらに、次々と窓を割って大胆になった人間は、周りに違法行為を止める人間がいないと見るや、もっと悪質な犯罪を行なうかもしれない。

 同じ方針が、犯罪だけでなく、管理者が直面する課題すべてにあてはまる。(楡井浩一訳『リーダーシップ』講談社、2003年)

 

 「割れた窓理論」は、軽微な犯罪の予兆段階でも容赦しない。情状酌量の余地も残さない、警察権力の徹底した取締り。「割れた窓理論」はゼロ・トレランス(寛容ゼロ)と呼ばれる戦略思想と表裏一体であると、斎藤貴男は警告している。

 つまり、異物の排除だ。

 部屋に何百本ものビデオテープがあるような気味の悪い男、何だか分からない宗教に入ってしまう人、犯罪を犯してしまった少年も更生の余地など与えず、排除する。それが安全安心な街につながる。

 近年、犯罪増加を理由に、割れ窓理論に基づく治安体制の強化の声はよく聞かれる。

 やたらに見かける「テロ対策実施中」の看板もその一環だろう。

 少年犯罪の厳罰化も、異物排除、ゼロ・トレランスの露われだ。

 

 「理解できないものは排除する。理解したくないものは排除するという雰囲気」、これも吉岡忍の言葉だ。NHKのインタビュー(NHKのホームページでは、平成を考える識者のインタビュー特集(「平成考」が公開されている)で、吉岡は、ゼロ・トレランスの空気が、今、蔓延していると述べている。



 吉岡はさらに、NHKのインタビューで次のように語っていた。

 

オウム事件もそうですね、ずっと今に至るまで、「とにかくもうこんな人間のことは理解する必要ない。とんでもないことやったのだからそいつだけ切り捨ててしまえ、もうこの世の中にいる価値はないこんなやつは」というふうにどんどんなってきた。こういうふうに事件を処理するというのは、僕はやっぱり間違っていると思う。この事件を起こした人間はけしからんと思うし、ひどいことだと思うけれども、だけどこの社会が作ったんですよ、間違いなく。この時代が作ったんですよ、間違いなく。この人を理解しなかったら我々は、我々が生きている時代と社会ってものを理解できないってことなんですよ。

 

(吉岡忍さん「なぜ、彼は人を殺したのか」https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/interview/interview_04.html



 2020東京五輪・パラリンピックは「多様性と調和」を理念としていた。

 不完全な人間である私たちが、自分の中の弱さを抱えながら、宮崎勤や麻原彰晃のことを考え続けることは、多様性のある社会をつくっていくために必要なことだ。



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