部屋の中は暖房を入れているので暖かい。
外の空気は冷たい。
昨日、大事なものを保管している1つの棚を整理した。
1994年に韓国の板門店に行った資料とお土産が箱の中に入っていた。
いつかまた写真にとってネットで使いたいと考えて韓国関係の写真の箱に入れた。
そしてもう1つ、大事な文書も見つけた。
「帰化申請」の用紙だった。「帰化申請」をするのに必要な書類などを準備する文書だった。結構多い綴りと準備する書面に驚いたものだった。
当時は夫の兄弟の何人かは子どもが大学卒業して就職するために「帰化」をしていた。私の家にも「帰化申請」に対する事柄が夫の兄弟から度々電話が入っていた。夫も帰化するつもりだった。
私も帰化するつもりで奈良市内の法務省に「帰化申請」に対する準備書面を貰いに行っている。1985年あたりだと思う。
まだ息子は高校1年だったが大学卒業すれば日本企業に勤めると考えて「帰化申請」をしょうと思っていた。
それが1986年の中国訪問で私の心の中は変化し始めていた。
当時、雑誌記者をしていた。地方紙の関係者と一緒に交流事業で中国北京に5日間の旅に出た。
それまでも1・2度、日本人のふりをして日本の記事を書きたくないというジレンマにぶつかることがあったが中国に訪問して日本に戻ってきてから私の気持ちはさらに日本人のふりをして日本の記事を書きたくないと固まりだしていた。
中国では何も食べられずコカコーラーだけで過ごして日本に戻ってくると栄養失調にかかり病院で点滴をうつはめになった。
しかし1つだけ私の心の変化を変えたものがあった。
北京で見た故宮の建物だった。
中国は韓国の緑と違って朱色の多い丹青だったが建物に塗られた色彩に胸の鼓動は波打った。
そして涙がポロリと出た。
親の故郷の韓国にも丹青を施した建造物がたくさんある。
どうして最初の海外旅行は韓国でなくて中国になったのか。
それが心の中で悔しくも思っていた。
当時の地方紙の報道デスクは「なんでこんなもんええんのか」と聞いた。
私は彼に「私は韓国人だからわかる」と応えていた。
このときはまだこれが「民族のほころび」と気がつかない。長い年月をかけてこれが「民族のほころび」と気がついた。
故宮の建物、色鮮やかに施された色彩に韓国の文化を見るようだった。
体から電流が走るように興奮した。
そして大方1年間、「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」と悩み、息子は高校教師の指導で大学は本名で行くようになった。
私は悶々と悩む自分の出自にどう向き合っていくのか。やっぱり言葉しかないとやっと気がついた。
当時、少しずつだが韓国に関係する著書が出始めていた。もちろんむさぼるように読み出した。ところどころにでてくるハングルは読めない。
飛ばして読んでいた。
このとき李御寧さんの「縮みの文化」の日本語版も出版されてすでにもう読んでいた。
韓国の著書を読みながら思い出した。
父親は中学・高校のころに言っていた。
「言葉は使わなくても覚えておいたほうがええ」
やっと父親の言葉に素直になってみようと思った。
しかしまだ帰化申請をするものと思っていた。
韓国語教室に行きだしてハングルの間から見える韓国の歴史や文化が見えてきた。やっと父親が言っていた「使わなくても覚えておいたほうがええ」という意味がわかってきた。そして在日韓国人の新聞社に転職した。
「帰化申請」から遠ざかっていくが夫はまだ帰化申請を考えていた。
しかし吹っ切れたのは息子が本名で日本の企業に就職したときだった。
それから息子も事情が変わってキャンバス恋愛で日本人女性との結婚で子どもの戸籍のために帰化申請を出した。
沖縄の法務省から息子の帰化申請に対して父親にも母親にも電話がかかってくる。そして親は何故しないのか質問される。すでに夫は定年退職を目前にしていた。
夫は法務省の質問に「なぜいまさら帰化するのですか。もう定年でこれから就職活動することもなく帰化申請をしたところで選挙権があるぐらいで今さらもう帰化する気になりません」と応えていた。
私も同じことを言って「息子は息子の人生。未だにいろんなことで差別されているので息子が考えてすることで息子の帰化に親は反対しません」という言葉に法務省は息子の帰化申請を受け入れて日本国籍にになった。
そんなことを思い出した「帰化申請」の準備書面だった。
このころはまだまだ帰化申請がしにくい時代だった。多くの制約があった。提出する写真、男性は羽織袴、女性は着物をきた写真の提出だった。
これに反発して帰化申請をとりやめた在日韓国人の何人かも見てきた。
また帰化申請時に購入した羽織袴で式典に参加する男性の姿にまわりから顰蹙をかっている光景も見てきた。
帰化申請は代書屋さんに頼むと1人30万円から50万円がかかった。
お金のある人は代書屋さんに頼み自分でできる人は自分で書類をそろえたので1万円と少しでできた。息子も全部自分で文書などそろえたので帰化申請費用は1万円程度ですんだという。
帰化申請をして日本国籍になると外国人登録証明書が抹殺されて日本の住民基本台帳に戸籍が変えられていく過程の書類を沖縄の自宅で息子は親に見せた。
これも自分の生きた証として生涯、大事に保管してもらいたいと親は願っている。
「民族のほころび」と気がついたのは現在の職場に変わって気がついた。
「日本人のふりをして日本の記事をかきたくない」と気がついたのはあれが「民族のほころび」で血がそうさせて先祖の誰かが民族と対面するように仕向けてくれたものとやっと気がついた。
日本で生まれた晋陽鄭氏の本家血筋で父親の子どもの私、第1子だったが女子だった。嫁に出せば鄭の家とはなんのかかわりもないと父親は思っていた。男子誕生を望んだ。やっと男子が誕生したがそれでも第1子の私に対して祖父はたいそう目にかけてくれていた。
私の小学1年の入学式にランドセルを買ってもってくるほどだった。
女子でも第1子が帰化してはいけない。晋陽鄭氏の本家筋の血が廃るとあの世に言った祖父母がずっと心配していたのだろうか。
祖母が亡くなってしばらくすると私は中国に行くことになりここで民族のアイデンテイテイと直面することになった。
これも祖父母がそこに運んだものと今は思っている。
私の力量は微々たるものなのに私は人の出会いで在日韓国人の新聞社に転職して現在の職場になった。これも先祖の祖父母が私の守護神となって見守っていると思うほど多くの人に助けられて在日コリアンの中で取材活動することにやりがいのある仕事に目覚めた。
箱の中にしまっていた帰化申請の準備書面。まだ帰化するつもりで保管していたのだろうか。もうかれこれ20年と少し紙の箱の中に入っていた。何年かに1度箱の中を整理していたのにまた大事に箱の中に入れて残してきたものだ。
今はこれも私の人生だという証で今後大事に保存をしておこうと思う。また時間のあるときにゆっくり「帰化申請」に対する準備書面を読みたいものである。
年の暮れ、1つの棚、大事な物が保管してある箱を整理して私の生きた人生の証に触れてまたブログに書いて残すことにした。
対した人生ではないがそのときそのとき一生懸命に生きてきた証に感慨深いものがある。
外の空気は冷たい。
昨日、大事なものを保管している1つの棚を整理した。
1994年に韓国の板門店に行った資料とお土産が箱の中に入っていた。
いつかまた写真にとってネットで使いたいと考えて韓国関係の写真の箱に入れた。
そしてもう1つ、大事な文書も見つけた。
「帰化申請」の用紙だった。「帰化申請」をするのに必要な書類などを準備する文書だった。結構多い綴りと準備する書面に驚いたものだった。
当時は夫の兄弟の何人かは子どもが大学卒業して就職するために「帰化」をしていた。私の家にも「帰化申請」に対する事柄が夫の兄弟から度々電話が入っていた。夫も帰化するつもりだった。
私も帰化するつもりで奈良市内の法務省に「帰化申請」に対する準備書面を貰いに行っている。1985年あたりだと思う。
まだ息子は高校1年だったが大学卒業すれば日本企業に勤めると考えて「帰化申請」をしょうと思っていた。
それが1986年の中国訪問で私の心の中は変化し始めていた。
当時、雑誌記者をしていた。地方紙の関係者と一緒に交流事業で中国北京に5日間の旅に出た。
それまでも1・2度、日本人のふりをして日本の記事を書きたくないというジレンマにぶつかることがあったが中国に訪問して日本に戻ってきてから私の気持ちはさらに日本人のふりをして日本の記事を書きたくないと固まりだしていた。
中国では何も食べられずコカコーラーだけで過ごして日本に戻ってくると栄養失調にかかり病院で点滴をうつはめになった。
しかし1つだけ私の心の変化を変えたものがあった。
北京で見た故宮の建物だった。
中国は韓国の緑と違って朱色の多い丹青だったが建物に塗られた色彩に胸の鼓動は波打った。
そして涙がポロリと出た。
親の故郷の韓国にも丹青を施した建造物がたくさんある。
どうして最初の海外旅行は韓国でなくて中国になったのか。
それが心の中で悔しくも思っていた。
当時の地方紙の報道デスクは「なんでこんなもんええんのか」と聞いた。
私は彼に「私は韓国人だからわかる」と応えていた。
このときはまだこれが「民族のほころび」と気がつかない。長い年月をかけてこれが「民族のほころび」と気がついた。
故宮の建物、色鮮やかに施された色彩に韓国の文化を見るようだった。
体から電流が走るように興奮した。
そして大方1年間、「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」と悩み、息子は高校教師の指導で大学は本名で行くようになった。
私は悶々と悩む自分の出自にどう向き合っていくのか。やっぱり言葉しかないとやっと気がついた。
当時、少しずつだが韓国に関係する著書が出始めていた。もちろんむさぼるように読み出した。ところどころにでてくるハングルは読めない。
飛ばして読んでいた。
このとき李御寧さんの「縮みの文化」の日本語版も出版されてすでにもう読んでいた。
韓国の著書を読みながら思い出した。
父親は中学・高校のころに言っていた。
「言葉は使わなくても覚えておいたほうがええ」
やっと父親の言葉に素直になってみようと思った。
しかしまだ帰化申請をするものと思っていた。
韓国語教室に行きだしてハングルの間から見える韓国の歴史や文化が見えてきた。やっと父親が言っていた「使わなくても覚えておいたほうがええ」という意味がわかってきた。そして在日韓国人の新聞社に転職した。
「帰化申請」から遠ざかっていくが夫はまだ帰化申請を考えていた。
しかし吹っ切れたのは息子が本名で日本の企業に就職したときだった。
それから息子も事情が変わってキャンバス恋愛で日本人女性との結婚で子どもの戸籍のために帰化申請を出した。
沖縄の法務省から息子の帰化申請に対して父親にも母親にも電話がかかってくる。そして親は何故しないのか質問される。すでに夫は定年退職を目前にしていた。
夫は法務省の質問に「なぜいまさら帰化するのですか。もう定年でこれから就職活動することもなく帰化申請をしたところで選挙権があるぐらいで今さらもう帰化する気になりません」と応えていた。
私も同じことを言って「息子は息子の人生。未だにいろんなことで差別されているので息子が考えてすることで息子の帰化に親は反対しません」という言葉に法務省は息子の帰化申請を受け入れて日本国籍にになった。
そんなことを思い出した「帰化申請」の準備書面だった。
このころはまだまだ帰化申請がしにくい時代だった。多くの制約があった。提出する写真、男性は羽織袴、女性は着物をきた写真の提出だった。
これに反発して帰化申請をとりやめた在日韓国人の何人かも見てきた。
また帰化申請時に購入した羽織袴で式典に参加する男性の姿にまわりから顰蹙をかっている光景も見てきた。
帰化申請は代書屋さんに頼むと1人30万円から50万円がかかった。
お金のある人は代書屋さんに頼み自分でできる人は自分で書類をそろえたので1万円と少しでできた。息子も全部自分で文書などそろえたので帰化申請費用は1万円程度ですんだという。
帰化申請をして日本国籍になると外国人登録証明書が抹殺されて日本の住民基本台帳に戸籍が変えられていく過程の書類を沖縄の自宅で息子は親に見せた。
これも自分の生きた証として生涯、大事に保管してもらいたいと親は願っている。
「民族のほころび」と気がついたのは現在の職場に変わって気がついた。
「日本人のふりをして日本の記事をかきたくない」と気がついたのはあれが「民族のほころび」で血がそうさせて先祖の誰かが民族と対面するように仕向けてくれたものとやっと気がついた。
日本で生まれた晋陽鄭氏の本家血筋で父親の子どもの私、第1子だったが女子だった。嫁に出せば鄭の家とはなんのかかわりもないと父親は思っていた。男子誕生を望んだ。やっと男子が誕生したがそれでも第1子の私に対して祖父はたいそう目にかけてくれていた。
私の小学1年の入学式にランドセルを買ってもってくるほどだった。
女子でも第1子が帰化してはいけない。晋陽鄭氏の本家筋の血が廃るとあの世に言った祖父母がずっと心配していたのだろうか。
祖母が亡くなってしばらくすると私は中国に行くことになりここで民族のアイデンテイテイと直面することになった。
これも祖父母がそこに運んだものと今は思っている。
私の力量は微々たるものなのに私は人の出会いで在日韓国人の新聞社に転職して現在の職場になった。これも先祖の祖父母が私の守護神となって見守っていると思うほど多くの人に助けられて在日コリアンの中で取材活動することにやりがいのある仕事に目覚めた。
箱の中にしまっていた帰化申請の準備書面。まだ帰化するつもりで保管していたのだろうか。もうかれこれ20年と少し紙の箱の中に入っていた。何年かに1度箱の中を整理していたのにまた大事に箱の中に入れて残してきたものだ。
今はこれも私の人生だという証で今後大事に保存をしておこうと思う。また時間のあるときにゆっくり「帰化申請」に対する準備書面を読みたいものである。
年の暮れ、1つの棚、大事な物が保管してある箱を整理して私の生きた人生の証に触れてまたブログに書いて残すことにした。
対した人生ではないがそのときそのとき一生懸命に生きてきた証に感慨深いものがある。
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