風邪気味でこのまま体の休養をしないといけないが気になるところがある。
起きて気になる1つの棚を全部出して捨てる物と捨てない物を整理した。この棚は大切な物を保管しているところである。
思い切ってまた何年ぶりかに整理して捨てた。
整理しているとずっと大切にしていた1994年4月6日に韓国の板門店に訪問した記録とお土産がここに保管してあった。
これは韓国で撮影した写真の箱に入れ替えた。またいつかネットの原稿で使うことになるだろう。
板門店は見学してよかった。
1994年当時、韓国の大統領は次期大統領選にむけて影で選挙運動が行われていた。次期大統領は民主化運動した大物人物の名前があがっていた。
そして日本では盛んに大阪から北朝鮮支持者の団体と民団の団体が1つになって活動が始まっていた。
まず大阪での皮切りは囲碁愛好家の交流事業だった。
画期的だった。
1度は民団大阪本部で両組織の囲碁愛好家が集った。もちろん囲碁が大好きで多くの駐在職員も集った。
ここにはいろんな職業の人たちが集ってきた。
和やかな雰囲気だった。
そして様々な活動の中で「ワンコリア」の活動が行われた。
こんなとき私はいつも心の中でふと思うことがあった。
「惑わされてはいけない」こんな簡単に南北が統一するわけがない。
父親はいつも北に対する様々な事柄に批判をしていた。
民族から逃げていたときには父親の話もいい加減に聞いていたが民族機関の新聞記者になって父親が話していたことを何かのときに思い出すことが多くあった。
父親は統一はそんなに簡単にできるものではなく日本に住んでいる在日朝鮮人の活動は思想活動だとはっきりと言っていた。
在日朝鮮人が経営する金融機関の関係者の見合い話もその都度その都度断った。
日本の高校や大学を出ても外国人差別で就職もうまくできない。
金融機関というだけで就職していく人が多かった。
すぐに辞める人はどんなところか分かって長くは続かない人も多くいたがそれなりに勤務している人もいた。
若いときは北朝鮮の実態について何も知らない私、見合い話は高学歴者も多いのに父親は断った。何回か断る父親に聞いてみた。
「なんであかんの。あの人は高校卒業しているし銀行に勤めているしいいと思うけれど」と言った。父親は静かに言った。
「あの人は銀行というのは表向きの顔や。毎日毎日、金日成の写真の前で金日成を称えることを勉強して思想活動しているだけや。銀行の仕事なんか何もしてへん」と言った。
深いことは分からなかったが父親がいうからそんな物だと思った。
そうした父親の言葉がどこかで脳裏にあった。
民族機関で新聞記者をしていると周りの言っていることが正しいようにそして活動が時代の潮流と思ってしまう。そのまま巻き込まれてしまう。
これではいけない。自分の考えはきちんと持っておかないといけない。
そうなると南北分断軍事境界線、みんながいう38度線に行くしかなかった。
民族分断の根っこの確認だった。
韓国政府関係者の多大なる尽力で板門店を見学した。
現実にある祖国分断、10数センチのコンクリートの突起をまたぐと北朝鮮の領土となる。誰がこんな突起を作ったのか。
またぐといけない。またぐと発砲されるという危険があるといわれると人間の心理はまたぎたくなるものだ。
ここはまたいではいけないと言い聞かせて韓国側からはるかかなたに見える北朝鮮の国を見た。
同じ言葉を話す民族が分断されている。これは韓半島の歴史の中で豊臣秀吉の侵略よりもっと不幸な歴史と思った。
1994年で南北分断して44年、政治の指導者や体制が違うということはなかなか1つになれないだろうと実感した。
仕事の中では「ワンコリア」の現場に入るとそのままワンコリアの記事を書かなければならないが個人としては父親が話していた様々な事柄に付随することが理解できてのみこまれてはいけないと思うようになった。
時代はどんどん変わり2000年に入ると在日朝鮮人の元総連活動者の証言、日本人拉致を証言、やっとここで父親が言っていたことが本当だとわかった。
子育てをしていたころ夫の身内に京都府の北部に親戚があり日本海に子連れで泳ぎにいくことがあった。
3回泳ぎに行って3回とも父親は「日本海に泳ぎにいったらあかん。拉致される」という。1975年前後のことでまだまだ総連系が活発に活動している時だった。まさかと思ったが父親は「北朝鮮が拉致するから絶対に泳ぎにいったらあかん」と言った。
翌年から泳ぎに行くことはなかったがまだ父親の話は続いた。
親戚の結婚式に参列すると総連活動者の結婚式には「あれは明日工作船にのるだけや。北朝鮮に行くのは工作船にのることや」とまた自宅に戻ると話し親戚でも決して余計な話はしないことと注意されていた。
今、考えるとなぜ知っていたのかわからない。
1度は拉致のことを聞いたが「日本の新聞で知った」と言ってとぼけて何も語らなかった。
1994年から韓国も北朝鮮の事情は変わった。変わらないのは偏狭な北朝鮮の指導者の犯罪的なことが様々に浮き彫りにされた。
2002年の拉致被害者が日本に帰国して北朝鮮の犯罪的行為が日本中に知らせることになった。
しかし彼らにすれば「これも革命」というかもしれないが一般市民を拉致することは革命でなくて犯罪である。
この裏側を知っている多くの人は黙秘を続けている。
時代の流れで思う。
板門店に行ってよかった。
ワンコリアにまどわされそうになる日本社会だがけっしてそんな簡単に統一をしないと板門店で確認した。
1994年から14年の月日がたったが決して南北関係は良好になっていない。太陽政策というのもあったがどれほどの支援が韓国からいったにもかかわらず統一に向けて何も進展していない。
しかし統一を願っているのは私も同じである。
どうすれば出来るのか。もう難題としかいいようがない。
12月29日、年末の29日が暮れていく。
棚を整理して板門店のお土産を見つけた。これはやっぱり整理してよかった。
来年は南北に何か起こるのだろうか。
どう出て行くのか。
米国では金正日の健在またはその逆を考えて4つの対策を考えていると朝鮮日報の記事に掲載されていた。
来年は何かか起きるのだろうか。
韓半島の無事に平和的解決を祈るしかない。一般の私にはそれしかできない。
起きて気になる1つの棚を全部出して捨てる物と捨てない物を整理した。この棚は大切な物を保管しているところである。
思い切ってまた何年ぶりかに整理して捨てた。
整理しているとずっと大切にしていた1994年4月6日に韓国の板門店に訪問した記録とお土産がここに保管してあった。
これは韓国で撮影した写真の箱に入れ替えた。またいつかネットの原稿で使うことになるだろう。
板門店は見学してよかった。
1994年当時、韓国の大統領は次期大統領選にむけて影で選挙運動が行われていた。次期大統領は民主化運動した大物人物の名前があがっていた。
そして日本では盛んに大阪から北朝鮮支持者の団体と民団の団体が1つになって活動が始まっていた。
まず大阪での皮切りは囲碁愛好家の交流事業だった。
画期的だった。
1度は民団大阪本部で両組織の囲碁愛好家が集った。もちろん囲碁が大好きで多くの駐在職員も集った。
ここにはいろんな職業の人たちが集ってきた。
和やかな雰囲気だった。
そして様々な活動の中で「ワンコリア」の活動が行われた。
こんなとき私はいつも心の中でふと思うことがあった。
「惑わされてはいけない」こんな簡単に南北が統一するわけがない。
父親はいつも北に対する様々な事柄に批判をしていた。
民族から逃げていたときには父親の話もいい加減に聞いていたが民族機関の新聞記者になって父親が話していたことを何かのときに思い出すことが多くあった。
父親は統一はそんなに簡単にできるものではなく日本に住んでいる在日朝鮮人の活動は思想活動だとはっきりと言っていた。
在日朝鮮人が経営する金融機関の関係者の見合い話もその都度その都度断った。
日本の高校や大学を出ても外国人差別で就職もうまくできない。
金融機関というだけで就職していく人が多かった。
すぐに辞める人はどんなところか分かって長くは続かない人も多くいたがそれなりに勤務している人もいた。
若いときは北朝鮮の実態について何も知らない私、見合い話は高学歴者も多いのに父親は断った。何回か断る父親に聞いてみた。
「なんであかんの。あの人は高校卒業しているし銀行に勤めているしいいと思うけれど」と言った。父親は静かに言った。
「あの人は銀行というのは表向きの顔や。毎日毎日、金日成の写真の前で金日成を称えることを勉強して思想活動しているだけや。銀行の仕事なんか何もしてへん」と言った。
深いことは分からなかったが父親がいうからそんな物だと思った。
そうした父親の言葉がどこかで脳裏にあった。
民族機関で新聞記者をしていると周りの言っていることが正しいようにそして活動が時代の潮流と思ってしまう。そのまま巻き込まれてしまう。
これではいけない。自分の考えはきちんと持っておかないといけない。
そうなると南北分断軍事境界線、みんながいう38度線に行くしかなかった。
民族分断の根っこの確認だった。
韓国政府関係者の多大なる尽力で板門店を見学した。
現実にある祖国分断、10数センチのコンクリートの突起をまたぐと北朝鮮の領土となる。誰がこんな突起を作ったのか。
またぐといけない。またぐと発砲されるという危険があるといわれると人間の心理はまたぎたくなるものだ。
ここはまたいではいけないと言い聞かせて韓国側からはるかかなたに見える北朝鮮の国を見た。
同じ言葉を話す民族が分断されている。これは韓半島の歴史の中で豊臣秀吉の侵略よりもっと不幸な歴史と思った。
1994年で南北分断して44年、政治の指導者や体制が違うということはなかなか1つになれないだろうと実感した。
仕事の中では「ワンコリア」の現場に入るとそのままワンコリアの記事を書かなければならないが個人としては父親が話していた様々な事柄に付随することが理解できてのみこまれてはいけないと思うようになった。
時代はどんどん変わり2000年に入ると在日朝鮮人の元総連活動者の証言、日本人拉致を証言、やっとここで父親が言っていたことが本当だとわかった。
子育てをしていたころ夫の身内に京都府の北部に親戚があり日本海に子連れで泳ぎにいくことがあった。
3回泳ぎに行って3回とも父親は「日本海に泳ぎにいったらあかん。拉致される」という。1975年前後のことでまだまだ総連系が活発に活動している時だった。まさかと思ったが父親は「北朝鮮が拉致するから絶対に泳ぎにいったらあかん」と言った。
翌年から泳ぎに行くことはなかったがまだ父親の話は続いた。
親戚の結婚式に参列すると総連活動者の結婚式には「あれは明日工作船にのるだけや。北朝鮮に行くのは工作船にのることや」とまた自宅に戻ると話し親戚でも決して余計な話はしないことと注意されていた。
今、考えるとなぜ知っていたのかわからない。
1度は拉致のことを聞いたが「日本の新聞で知った」と言ってとぼけて何も語らなかった。
1994年から韓国も北朝鮮の事情は変わった。変わらないのは偏狭な北朝鮮の指導者の犯罪的なことが様々に浮き彫りにされた。
2002年の拉致被害者が日本に帰国して北朝鮮の犯罪的行為が日本中に知らせることになった。
しかし彼らにすれば「これも革命」というかもしれないが一般市民を拉致することは革命でなくて犯罪である。
この裏側を知っている多くの人は黙秘を続けている。
時代の流れで思う。
板門店に行ってよかった。
ワンコリアにまどわされそうになる日本社会だがけっしてそんな簡単に統一をしないと板門店で確認した。
1994年から14年の月日がたったが決して南北関係は良好になっていない。太陽政策というのもあったがどれほどの支援が韓国からいったにもかかわらず統一に向けて何も進展していない。
しかし統一を願っているのは私も同じである。
どうすれば出来るのか。もう難題としかいいようがない。
12月29日、年末の29日が暮れていく。
棚を整理して板門店のお土産を見つけた。これはやっぱり整理してよかった。
来年は南北に何か起こるのだろうか。
どう出て行くのか。
米国では金正日の健在またはその逆を考えて4つの対策を考えていると朝鮮日報の記事に掲載されていた。
来年は何かか起きるのだろうか。
韓半島の無事に平和的解決を祈るしかない。一般の私にはそれしかできない。
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