「建物探訪」と「大改造」である。
自分が住んでいるわけでもないのに人の家の間取りが好きである。雑誌でも広告でも間取りが書いてあると見ている。
自分はそんな間取りを書く設計の技術は持ち合わせていないのに人の家の間取りを見るのが好きである。
これを参考にするほど我が家は広くないしまたリフオームする財政もない。そして大改造する気もないのに見ている。
夫から「人の家を見てお前はアホか」と言われているが私は人の家を見て空想している。丸い土管のような形、これをさらもっと大きくしてこれを下から横に5つ並べる。2段目は4つ。3段目は3つ、4段目は2つ、1番上は1つにする。そしてエレベーターは丸いものを縦にすればエレベーターができるとかそんな造れない家づくりを考えている。こんな話を夫にするとまた「お前はアホカ」と言われる。どうやら子どものころの土管が置いてあったあの光景が浮かんでくる。懐かしいのだろうか。土管の中に入った記憶である。これを住宅用の土管を作って部屋を造っていく。この土管を造る工場がないと家なんて建てられない。皆に笑われそうだ。
土管の横にはおよそペンペン草の雑草が生えていた。そして大きな野原が広がっていた。その横にはまだ舗装されていない赤土の見える幅1メートルほどの道があった。秋になるとまわりは田んぼで彼岸花が咲き始めて秋の訪れを実感した。
けれどこんな風景はもう日本ではみられなくなった。
なにかも清潔になった。町はコンパクトになり高層ビルになってなにかもここに押し込めた。だからマンション生活も息苦しくなったのか若者たちの言動に目にあまるものがある。
たまに電車の窓から見る景色にこれに似た風景は目にするがもう土管というものは見当たらなくなった。
1950年代はいたるところにこんな土管があった。あれは下水道工事が盛んに行われていた時代だったのだろうか。そんな景色を見て育った私は無性にそんな風景に出会いたいと思うときがある。
何かも便利になったのになぜ住む居住空間はこんな窮屈になったのだろうか。ふと考えさせられる。
意味もないのにテレビの番組、よその家の間取りを見て楽しんでいる。そしてテレビを見終えるとその間取りはすっかりと忘れている。覚えているものは何1つない。どうしてなのだろう。
自分が住んでいるわけでもないのに人の家の間取りが好きである。雑誌でも広告でも間取りが書いてあると見ている。
自分はそんな間取りを書く設計の技術は持ち合わせていないのに人の家の間取りを見るのが好きである。
これを参考にするほど我が家は広くないしまたリフオームする財政もない。そして大改造する気もないのに見ている。
夫から「人の家を見てお前はアホか」と言われているが私は人の家を見て空想している。丸い土管のような形、これをさらもっと大きくしてこれを下から横に5つ並べる。2段目は4つ。3段目は3つ、4段目は2つ、1番上は1つにする。そしてエレベーターは丸いものを縦にすればエレベーターができるとかそんな造れない家づくりを考えている。こんな話を夫にするとまた「お前はアホカ」と言われる。どうやら子どものころの土管が置いてあったあの光景が浮かんでくる。懐かしいのだろうか。土管の中に入った記憶である。これを住宅用の土管を作って部屋を造っていく。この土管を造る工場がないと家なんて建てられない。皆に笑われそうだ。
土管の横にはおよそペンペン草の雑草が生えていた。そして大きな野原が広がっていた。その横にはまだ舗装されていない赤土の見える幅1メートルほどの道があった。秋になるとまわりは田んぼで彼岸花が咲き始めて秋の訪れを実感した。
けれどこんな風景はもう日本ではみられなくなった。
なにかも清潔になった。町はコンパクトになり高層ビルになってなにかもここに押し込めた。だからマンション生活も息苦しくなったのか若者たちの言動に目にあまるものがある。
たまに電車の窓から見る景色にこれに似た風景は目にするがもう土管というものは見当たらなくなった。
1950年代はいたるところにこんな土管があった。あれは下水道工事が盛んに行われていた時代だったのだろうか。そんな景色を見て育った私は無性にそんな風景に出会いたいと思うときがある。
何かも便利になったのになぜ住む居住空間はこんな窮屈になったのだろうか。ふと考えさせられる。
意味もないのにテレビの番組、よその家の間取りを見て楽しんでいる。そしてテレビを見終えるとその間取りはすっかりと忘れている。覚えているものは何1つない。どうしてなのだろう。
でもまぁ、札束くれたからヨシとするかwww http://omnc.net/ce/444