鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

昨日の夜7時半ごろ、リビングの蛍光灯の電気がきれた。

2007-01-31 08:49:00 | 直言!
暗い。なんともいえない暗い雰囲気である。今更どうすることもできない。
今夜はこれで我慢しようとそのままにしていた。
夫が帰ってきて電気の暗さに少し驚いた。
そして「暗いのが嫌やな。部屋の電気をつけたら」というので部屋の電気を皆点けると「ほらちょっと明るくなったと」というが私はそうあんまり変わらないように思った。
私は仕事部屋に置いてある蛍光灯を持ってきてリビングのテーブルに置くと少しだけ明るくなった。
そしてそんな暗いところで夕食をした。
昨日は何のおかずだったのだろうか。昨日は考えるのが面倒くさかったな。
菜の花はバターで炒めて薄口醤油と砂糖で味付けした。
夫が暮に安売りの餃子を50個買ってきたので半分食べて半分は冷凍しておいた。それを少し出して朝から解凍してあったのでそれを焼いた。
焼いた油がもったいないのでその油で私の好きな厚揚げを半分に切ってステーキ風に焼いた。きゅうりと長いもをは千切りした。これはドレッシングをかけて食べる。後はかぶらの千枚漬けの保存食、そして保存食のきゅうりのインスタント韓国キムチ、ちりめんじゃこを出して食べた。

夫に「明日何しょう」と言ったら冷蔵庫に鶏肉が入っているのであれを切ってコロコロステーキ風にして」と言う。あいも変わらず肉が好きである。
私はたらの切り身を白菜の上にのせてバターとれレモンの輪切りを入れて塩、胡椒、薄口醤油を少し入れてレンジ蒸しをしょうかと思ったりしている。菜の花を下に敷いてもよかったが昨日私が食べたいのでバター炒めをした。
夫は「美味しい、美味しい」と食べていた。

さて電気、今日夫が買ってくるのでもう明るくなるだろう。
暗い電灯のしたで夫は言った。
「昔こんな暗い電気の明かりだった。それで生活していたのに」と言っていた。そうなんです。昔、私の子どもの頃は3畳の食事をする部屋や台所は30か40Wの電球だった。6畳や8畳の部屋になるともう少しWの大きい電球をつけた。
2マタのソケットになったときはうれしかった。紐で小さい豆球に変えることができた。今は便利になって少し暗いとゆうつうになる。
昔、夫が少しの間、京都から三重県に引越しをした親の家に行くと風呂場と脱衣場の仕切りの間に電灯がついていて1つの電球で灯りとりをしていた。

母親が高齢になって上の兄が引き取ることになった。その田舎の家は近所の人に売却をした。家の前は畑でケトウの花が一杯さいていた。とうもろこしもいっぱい植えていた。あれは韓国の暮らしをそのままだった。1世の暮らしは日本にきても民族の暮らしをしていたのかと今さながらに1世の強さを思う。
本来は私が田舎に帰ることになっていたが神経の病気になって私は夫の母親と一緒に暮せないと判断して私の我儘で奈良に留まった。
夫は田舎に帰りたかったようだったが私は奈良にいてよかったと思っている。
私が親の面倒を見る度量がないことは私が知っていた。
神さんは私に神経の大病という苦しい試練を与えたが奈良で暮らすことができたことに感謝している。
夫はどう思っているのかわからない。

暗い電灯に私の若かったころを思い出した。
電気が暗いと気分まで落ち込んでしまう。

話は変わるが今の中国はネオンなどが輝き明るい中国になっている。
私が雑誌記者時代、地方紙のデスクと一緒に合唱団の随行した1986年の北京は真っ暗闇だった。昼間はあふれるほどの自転車の行列、途切れることなく走る。横断歩道が渡れないぐらいだった。燕京飯店に宿泊していたが夜、ホテルの窓から町の中を見るとまったく電灯の明かりもなく真っ暗闇だった。
こんな生活を子どもの頃しているのにそんなことをすっかり忘れていて中国の暗闇にまだまだ文明開化をしていないことを体験していた。
それが今や、北京の町も明るくなり経済発展が進んでいる。
また昔の暗闇の中国を思い出した。

とにかく電気を買って来て明るい部屋にしなければならない。
そういえば息子が中学生から高校生の頃に使っていた電気ストーブを私が使っていたが今朝壊れてしまった。もう1つファンヒーターがあるがこれは電気代がものすごく高くつくので小型の電気ストーブを買わなければならない。
なんかまた物入りになりそうだ。

暖房を入れていても足元に電気ストーブを置くと温かいので仕事がし易い。また購入しなければならない。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日はやっと午前中休養がで... | トップ | 今の国会のように思えて私の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

直言!」カテゴリの最新記事