明日は仕事の原稿があって忙しいので朝、少し時間があって「電車の中--」を書いた。昨日に書いてあったものを見直してセットアップをした。
そしてもう1本「電車の中--」を作った。簡単に書いたので早くできた。
それが写真を加工してマイピクチャーに入れてあるのをそのままにして使えばいいのにまたセットアップ用に保存すると写真の保存がややこしくなった。
そしたら最初にあげた記事の写真にも同じ写真になっている。
写真だけ入れなおして再構築をしたら今度は文書も新たなにしなおしである。
うっかりと番号をかえていなかった。
セットアップの数字が逆になった。
これはあかん。見た目も悪い。また数字を直しての再構築になった。
先にあげたほうが後になって後にあげたほうが先になった。
しかたがない。
急いでしているとどこかでおかしなことになっている。
青くなったり赤くなったりしていた。
8時半になったら外出の支度をしょうと思ったが9時にすることにした。
あ。忙しい。
明日は仕事の原稿と月曜日の連載の作成、1本仕事の原稿があるが記事にならないような原稿で筆が進まない。もっとまたしっかり把握してからもっと他にも取材してからにしょう。すすまない原稿をもっていてもしかたがない。
気が重いだけである。
編集局と話しあって何かの形でまた取材をしなおさなければならない。
何年に1度かはこんなことがある。
どうしても記事にしたいと思っていても取材している本来の目的が見えてこないと書きようがない。
ちがう形を考えよう。
1人だけでは記事にならない。何人か集まる時に訪問してそれから記事に起こそう。今ではできない。
ここまで考えていると気持が少し楽くなってきた。
長いこと記者をして経験を積んでも何年か1度にこんなことになることもある。
こんな時まだまだ自分の未熟さを痛感、まだまだ勉強しないとあかんと気持を引き締めている。
今日は晴れている。
気温も低くなって爽やかである。
洗濯を干しにベランダにでると気持のいい空気である。
これなら外を歩いても気持がいい。
空を見ると遠くに雲が見えるが目の前の空は真っ青である。
真っ青な空を見ると小学校の運動会で校長が話していた言葉1つだけ覚えている。「雲1つない澄みわたった空、恵まれた天気の中の運動会です」
秋になると「雲1つない空、澄みわたった空」を見ては小学校の運動会の時の時を思い出す。
運動神経が鈍くていつもいつもリレーはビリだった。
障害物競走はたまに2等や3等になった。
だから運動会は大嫌いだった。
あんまり小学校の思い出はいいことがない。
中学になると体育祭はフォークダンスの練習から始まった。
戦後、新制中学校に取り入れられたフォークダンス、たぶん私たちが中学に通うときに初めて取り入れられた種目だった。
初めて男子と手を繋ぐのがフォークダンスだった。
「男子生徒と手を繋ぐのが嫌だ」と駄々をこねて繋ぐふりをしている人もいた。その意味が私はわからなかった。ずいぶん私は奥手だった。
高校になるとそんなことは何もいわなくなってフォークダンスはまた楽しかった。片思いの男性が前にくると胸がドキドキしたが何も言えなかった。
こんなことを考えていると私はずっと奥手で純情だったのだにと思う。
高校時代の同級生がこんな私しかしらない。
仕事の中は男性がほとんど、そんな中で仕事しているとは思っていないだろう。
これも仕事をしているうちに慣れていく。
専業主婦の時はまだまだ人前にでるのが恥ずかしかった。
PTAの役員をしていても人前で話すことが苦手だったのにしなければならなかった。それからペンクループを作って人前で話すことは慣れてきた。
しかしこうした活動から遠のいて裏方の記者生活をするうちに人前で話すことができなくなった。
人前ではなしているとPTAの役員時代と同じ声が震えている。
そんなことを体験しているうち私は裏方が向いていると分かってきた。
これも年を重ねてきて自分の器が分かってくるとできるものとできないものと区別がつくようになった。
しかしがむしゃらに生きたPTA役員時代そしてペングループで活動していたがむしゃらに生きた時代がなつかしい。あの時代があるから今の私があると思っている。
PTA時代の女友達は知っている。
私が人前で話すことが苦手なことを知っている。
話していて体が震えていたことを知っている。
今を知る人は想像できないだろう。
しかし幼少時、どこにいるのかわからないぐらいにおとなしかった子どものころに培った性格は大人になってもずっと残っている。
その分、書くことで自己表現をしてきたのだろうと私は思っている。
だから体育も苦手、歌も苦手、話すことも苦手、苦手な部分を書くことで補っているのが私である。
そしてもう1本「電車の中--」を作った。簡単に書いたので早くできた。
それが写真を加工してマイピクチャーに入れてあるのをそのままにして使えばいいのにまたセットアップ用に保存すると写真の保存がややこしくなった。
そしたら最初にあげた記事の写真にも同じ写真になっている。
写真だけ入れなおして再構築をしたら今度は文書も新たなにしなおしである。
うっかりと番号をかえていなかった。
セットアップの数字が逆になった。
これはあかん。見た目も悪い。また数字を直しての再構築になった。
先にあげたほうが後になって後にあげたほうが先になった。
しかたがない。
急いでしているとどこかでおかしなことになっている。
青くなったり赤くなったりしていた。
8時半になったら外出の支度をしょうと思ったが9時にすることにした。
あ。忙しい。
明日は仕事の原稿と月曜日の連載の作成、1本仕事の原稿があるが記事にならないような原稿で筆が進まない。もっとまたしっかり把握してからもっと他にも取材してからにしょう。すすまない原稿をもっていてもしかたがない。
気が重いだけである。
編集局と話しあって何かの形でまた取材をしなおさなければならない。
何年に1度かはこんなことがある。
どうしても記事にしたいと思っていても取材している本来の目的が見えてこないと書きようがない。
ちがう形を考えよう。
1人だけでは記事にならない。何人か集まる時に訪問してそれから記事に起こそう。今ではできない。
ここまで考えていると気持が少し楽くなってきた。
長いこと記者をして経験を積んでも何年か1度にこんなことになることもある。
こんな時まだまだ自分の未熟さを痛感、まだまだ勉強しないとあかんと気持を引き締めている。
今日は晴れている。
気温も低くなって爽やかである。
洗濯を干しにベランダにでると気持のいい空気である。
これなら外を歩いても気持がいい。
空を見ると遠くに雲が見えるが目の前の空は真っ青である。
真っ青な空を見ると小学校の運動会で校長が話していた言葉1つだけ覚えている。「雲1つない澄みわたった空、恵まれた天気の中の運動会です」
秋になると「雲1つない空、澄みわたった空」を見ては小学校の運動会の時の時を思い出す。
運動神経が鈍くていつもいつもリレーはビリだった。
障害物競走はたまに2等や3等になった。
だから運動会は大嫌いだった。
あんまり小学校の思い出はいいことがない。
中学になると体育祭はフォークダンスの練習から始まった。
戦後、新制中学校に取り入れられたフォークダンス、たぶん私たちが中学に通うときに初めて取り入れられた種目だった。
初めて男子と手を繋ぐのがフォークダンスだった。
「男子生徒と手を繋ぐのが嫌だ」と駄々をこねて繋ぐふりをしている人もいた。その意味が私はわからなかった。ずいぶん私は奥手だった。
高校になるとそんなことは何もいわなくなってフォークダンスはまた楽しかった。片思いの男性が前にくると胸がドキドキしたが何も言えなかった。
こんなことを考えていると私はずっと奥手で純情だったのだにと思う。
高校時代の同級生がこんな私しかしらない。
仕事の中は男性がほとんど、そんな中で仕事しているとは思っていないだろう。
これも仕事をしているうちに慣れていく。
専業主婦の時はまだまだ人前にでるのが恥ずかしかった。
PTAの役員をしていても人前で話すことが苦手だったのにしなければならなかった。それからペンクループを作って人前で話すことは慣れてきた。
しかしこうした活動から遠のいて裏方の記者生活をするうちに人前で話すことができなくなった。
人前ではなしているとPTAの役員時代と同じ声が震えている。
そんなことを体験しているうち私は裏方が向いていると分かってきた。
これも年を重ねてきて自分の器が分かってくるとできるものとできないものと区別がつくようになった。
しかしがむしゃらに生きたPTA役員時代そしてペングループで活動していたがむしゃらに生きた時代がなつかしい。あの時代があるから今の私があると思っている。
PTA時代の女友達は知っている。
私が人前で話すことが苦手なことを知っている。
話していて体が震えていたことを知っている。
今を知る人は想像できないだろう。
しかし幼少時、どこにいるのかわからないぐらいにおとなしかった子どものころに培った性格は大人になってもずっと残っている。
その分、書くことで自己表現をしてきたのだろうと私は思っている。
だから体育も苦手、歌も苦手、話すことも苦手、苦手な部分を書くことで補っているのが私である。
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