コール・ウェルカム

活動予定をお知らせします

三浦環 その3

2020年08月03日 | お知らせ
音楽家として活動を始めた環さんでしたが、日本に戻ってきていた藤井軍医との関係性に世間の無責任な風がビュービューと吹き付けました。人妻としての務めを果たしていないのではないか、と言い立てるものがあり、軍医は自分のために音楽を捨てるように言いつけますが、環さんは拒否。結果、二人は離婚することになりました。

ところが、憎み合っての離婚ではなかったため、二人は人目を忍んで密かに話し合いの機会を設けます。その様子を見ていた人が、ゴシップ記事を作成、それも藤井軍医のことを三浦政太郎と取り違えるというトンマな記事で環さんを脅したというのです。

藤井軍医はすでに新しい縁談がまとまっており、ゴシップは勘弁という状況、そして三浦政太郎さんは環さんの崇拝者でしたから、誤解は誤解のままでOK!と納得し、正式に結婚することになりました。ただ、やはり世間の風が前にもましてビュービュー吹き付けることになりそうでしたので、結婚式を終えてから政太郎さんはその後の留学を見据えてお金をつくるためにシンガポールのゴム園で働くことになりました。

一方環さんは日本に残って新しいオペラ楽団をつくるというプロジェクトに参加しますが、しつこくつきまとうゴシップ記者に嫌気がさして、政太郎さんがいるシンガポールに逃げ出します。時は1914年、ふたたび相まみえた二人は、環さんの父が持たせてくれたお金を頼りに、そこからドイツに向かう船に乗ったのでした。

その船中で、二人は第一次世界大戦の開戦を知ります。そして到着したドイツの日本大使館で、「赤十字で日本の歌でも歌わせてもらおう」と考えていた環さんに

(以下引用)
大使館の人達は私の顔を眺めていうのだ。
「飛んでもない、三浦さん、それどころのさわぎじゃないんです。今夜にも伯林の日本人は皆退去するように、本国から命令が来ているのです。」
「え? ではとうとう日本も。」
「そうですよ。もう一刻もぐずぐずしていられない。直ぐに帰って旅の支度をして下さい。」
着のみ着のまま、落人の如く、英国へ向ったのであった。
あの夜の旅の有様を私は終生忘れることは出来ないであろう。日本の留学生は二百人あまり、一行の中(うち)には前田侯爵なども御一緒だった。汽車の一等二等はすべてフランスの国境へ向う兵士達で占領されて、私達は暗い三等車の片隅に慄(ふる)えていなければなかった。
出来るだけ日本人であることを気付かれないために、私達はなるべく口を聞き合わないようにして固まりあっていた。
(引用終わり)

という状況になってしまったのです。

からくもロンドンに身を落ち着けることができた二人は、政太郎がロンドン医科大学の研究生に、環さんは演奏の機会を求めて努力を重ねます。当時かの地での御大であった指揮者、サー・ヘンリー・ウッドに一度自分の歌を聴いてほしいと何度か手紙を出し、ついにサーのご自宅で演奏させてもらえることになりました。

この時歌ったのが、「リゴレット」の中の「Caro nome」。たいへんな難曲です。ピアニストはどうしたんだろう・・・という疑問は残りますが、とにもかくにも、

(以下引用)
「マダム・ミウラ。貴女の声は実に美しい。貴女はもう此上(このうえ)何も勉強する必要はないではありませんか。」
私は誰にも習ったのではない。日本で勉強したそのままなのだという、と、サー・ヘンリー・ウッドは感嘆してもう一度私の手を握り乍らいうのだった。
「マダム・ミウラ、それだけ御歌いになれれば、貴女は貴女自身のものをちゃんと持っておいでになるんですよ。私が何を御教えすることがありましょう。で、一つ私に御願いがあるんですが、貴女は聞いてくれませんか。」
(引用終わり)

と、大成功を収めたのでした。この時の「お願い」というのが、ロンドンのアルバートホールで開催される赤十字の慈善音楽会での演奏で、ついに環さんは幸運の女神の前髪をつかんだのでした! 
(つづく)


アメリカデビュー(このあと)前の環さん。シカゴの写真館で撮影
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三浦環 その2 | トップ | 10周年記念コンサート~春に... »
最新の画像もっと見る

お知らせ」カテゴリの最新記事