みかんの花咲く丘。6/8拍子のリズムに乗って、手遊びしながら歌いましたね。自然と体が揺れる楽しい歌です。音とりもあと少し! 通しで歌うのが楽しみです。
(歌碑です。宇佐美峠にあるそうです。右側の小さな四角の中には、楽譜が彫られています。)
さて、この曲は、終戦後ようやく1年が経った昭和26年8月24日、ラジオ放送「空の劇場」で童謡歌手川田正子さんが歌うために作られました。この放送は日本初の「ラジオ二元放送」だったとのことで、東京愛宕のNHKと、静岡県伊東市の伊東西国民学校(現伊東市立西小学校)を結んだ意欲的な取組みでした。
が・・・、実は作曲を依頼された開沼実は放送前日になっても曲想が思い浮かばず、それどころか作詞も依頼していなかったという大ピンチ状態で、川田正子宅に雪隠詰めになっていました。そこへたまたま川田を取材に訪れたのが作詞家の加藤省吾です(静岡県出身)。窮状を見かねたのかあるいは海沼が頼んだのか、その場で詞が作られたといいます。
翌日行くのは静岡だ、それならみかんだな、でもひばりの「リンゴの唄」の二番煎じととられると閉口だ、じゃあ花にするか八月で花は終わってるが。というバタバタな状態でなんとか歌詞が完成し(所要時間30分)、その詞をもって海沼が東京から東海道線に乗車。ちょうど国府津あたりで前奏が思い浮かび、そのまま作曲を続けて宇佐美駅で曲が完成したのだとか。
湘南電車(東海道線)のカラーリング、緑とオレンジはお茶とみかんをイメージしたものらしいので、車内作曲もちょうど良かったのかも。
3/17追記:1946年当時、東海道本線に「湘南電車」は走っていませんでした。東京~沼津間の電化は完了していましたが、走行していた電車は短距離を想定したもので、東海道本線全線を走破していたわけではないそうです。つまり、SLだったんでしょうか。オレンジ+グリーンの湘南列車運用開始は昭和25年1月30日だそうです。詳しくは
http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2010-01-30
↑ ↑ など、鉄の達人の皆さまのブログなどをご覧ください。とんだガセネタで失礼しました。
昭和25年に導入された80系電車。「湘南電車」として親しまれた。
そして、できたての曲はその晩川田に口伝えで教えられ、翌日歌詞が書かれたカンニングペーパーをもって川田正子嬢が歌ったのだそうです。
疾走感のある制作風景とはうらはらに、とてもゆったりとした曲想、3番でじんわりくる歌詞は心に沁みますね。
ただ・・・やっぱり余裕を持った生活が大切なのでは(笑)
海沼実さんは「音羽ゆりかご会」を結成され、同会は現在も音羽の護国寺で活動を続けています。
(歌碑です。宇佐美峠にあるそうです。右側の小さな四角の中には、楽譜が彫られています。)
さて、この曲は、終戦後ようやく1年が経った昭和26年8月24日、ラジオ放送「空の劇場」で童謡歌手川田正子さんが歌うために作られました。この放送は日本初の「ラジオ二元放送」だったとのことで、東京愛宕のNHKと、静岡県伊東市の伊東西国民学校(現伊東市立西小学校)を結んだ意欲的な取組みでした。
が・・・、実は作曲を依頼された開沼実は放送前日になっても曲想が思い浮かばず、それどころか作詞も依頼していなかったという大ピンチ状態で、川田正子宅に雪隠詰めになっていました。そこへたまたま川田を取材に訪れたのが作詞家の加藤省吾です(静岡県出身)。窮状を見かねたのかあるいは海沼が頼んだのか、その場で詞が作られたといいます。
翌日行くのは静岡だ、それならみかんだな、でもひばりの「リンゴの唄」の二番煎じととられると閉口だ、じゃあ花にするか八月で花は終わってるが。というバタバタな状態でなんとか歌詞が完成し(所要時間30分)、その詞をもって海沼が東京から東海道線に乗車。ちょうど国府津あたりで前奏が思い浮かび、そのまま作曲を続けて宇佐美駅で曲が完成したのだとか。
湘南電車(東海道線)のカラーリング、緑とオレンジはお茶とみかんをイメージしたものらしいので、車内作曲もちょうど良かったのかも。
3/17追記:1946年当時、東海道本線に「湘南電車」は走っていませんでした。東京~沼津間の電化は完了していましたが、走行していた電車は短距離を想定したもので、東海道本線全線を走破していたわけではないそうです。つまり、SLだったんでしょうか。オレンジ+グリーンの湘南列車運用開始は昭和25年1月30日だそうです。詳しくは
http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2010-01-30
↑ ↑ など、鉄の達人の皆さまのブログなどをご覧ください。とんだガセネタで失礼しました。
昭和25年に導入された80系電車。「湘南電車」として親しまれた。
そして、できたての曲はその晩川田に口伝えで教えられ、翌日歌詞が書かれたカンニングペーパーをもって川田正子嬢が歌ったのだそうです。
疾走感のある制作風景とはうらはらに、とてもゆったりとした曲想、3番でじんわりくる歌詞は心に沁みますね。
ただ・・・やっぱり余裕を持った生活が大切なのでは(笑)
海沼実さんは「音羽ゆりかご会」を結成され、同会は現在も音羽の護国寺で活動を続けています。