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ぞうさん@「まどさん」

2017年02月07日 | その他
まど・みちおさん作詞、團伊玖磨さん作曲の「ぞうさん」。誰もが知っていて、そして誰もが好きな歌ではないでしょうか。

「さっちゃん」の作詞者として有名な阪田寛夫さんは、まどさんとの長年の交流を通じてそのお人柄に惹かれるようになり、「まどさん」という評伝風の読み物を残していらっしゃいます。(学者ではいらっしゃらないので論文ではなく、したがってご本全体を通して結論は読者に委ねられています。)


(ちくま文庫)

この中に、「ぞうさん」に触れた箇所がありますので、少しご紹介します。

阪田さんは、ご自身の雑誌連載で以下のように述べられます。

「まどは昭和21年にシンガポールから引き揚げており、生活が楽ではなかった。長男の7歳の誕生日に汽車の玩具がほしいと言われたまどは、物価が高いので買い物をあきらめ、長男の手を引いて上野動物園へ行った・・・(中略)・・・猛獣類は戦争中に射殺されてそれきり補充していない。象もいない。・・・(中略)・・・そして二人とも、目に見えない象をそこに見た。・・・(中略)・・・悲しみを持った心にだけ見えたもの、それが「ぞうさん」だ。

(昭和53年『月刊自動車労連』)


戦禍の痕跡が残る中、おもちゃをかってやれない悲しみを抱えながら長男と訪れた動物園には象はいない、しかしそこに二人は象の姿を見た。それを見せたのは戦後の諸状況に裏打ちされた悲しみであり、それが「見えないものが見える」という浄福に転化したのだ、という趣旨と拝読しました。

阪田さんは東京新聞に掲載された「東京のうた」という記事に心動かされ、上記のお原稿を書かれたのです。ところが、2年後の1980年、改めて自身で質問できる機会をとらえようと一生懸命だった阪田さんに、まどさんはとつぜん以下のように答えます。

■以下省略しながら引用

「この日、いきなりまどさんは「『東京のうた』にかかれたのはフィクションです」と言った。・・・(中略)・・・その記事の中の動物園の挿話がフィクションだと、まどさんは言いきったのだ・・・(中略)・・・「私は象を書くために動物園へ見に行くようなことはしません」

以下は、まどさんの談話のメモだ。
「童謡はどんな受け取り方をされてもいいのだが、その歌が受け取ってもらいたがっているようにうけとってほしい。たぶんこういう風にうけとってもらいたがってる、というのはあります。詩人の吉野弘さんの解釈が、それに一番近かった。吉野さんは「お鼻が長いのね」を、悪口として言っているように解釈されています。私のはもっと積極的で、ゾウがそれを「わるくちと受け取るのが当然、という考えです。もし世界にゾウがたったひとりでいて、お前は片輪だと言われたらしょげたでしょう。でも、一番すきなかあさんも長いのよ、と誇りを持って言えるのは、ゾウがゾウとして生かされていることがすばらしいと思っているから。」
・・・(中略)・・・
このように自分が自分に生まれてすばらしい、ということをテーマにしている詩が、自分の作品には多いとまどさんは言った。


つまり、阪田さんが心動かされて原稿を書くに至った東京新聞の記事の中のエピソードはフィクション、阪田さんが戦争との関連で感じ取った「悲しみ」というのは立脚点が失われたことで見当違い、まどさんが詩に向かう精神は、自分とは何かという個の深淵に立つ哲学的なものであった、と判断されたということなのでしょうか。

前述の通り阪田さんは結論めいたことは記されておらず、論点が次に移っていきますので断言は難しいです。ただ、本作全体を通して、阪田さんの目をとおしたまどさんの姿、まどさんの心が写し取られており、印象が深い本です。ぜひご一読ください。









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