コール・ウェルカム

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山羽→山葉→日楽→ヤマハ

2016年06月24日 | その他
演奏会後でご紹介できる話題もありませんので、ヤマハのお話の続きを・・・。

ヤマハの創業者、山葉寅楠(やまはとらくす)さんは、1851年、和歌山(当時は紀州藩)で天文係の家に武士として生まれました。

天文係というと、現在のイメージでは星の研究をする人なんだろう程度の認識ですが、明治以前の天文学というのは星の運行を観測して暦を作成する最先端の科学でした。岡田准一主演の「天地明察」という映画に描かれている、高橋至時、間富重などをイメージしていただけばよろしいかと思いますが、ヨーロッパの測定機械を入手調整、複製したり、測量をしたり、という理系の学問一般を修めるとともに、作成修理を実際におこなうという技術者でした。(日本地図をつくった伊能忠敬は、高橋至時のお弟子です。天文係の万能ぶりがお分かりいただけますか?)寅楠さんは三男ではありましたが、御三家の天文係の嫡男ですから、武士としての鍛錬のほかに理系男子として家業の基礎をみっちり仕込まれたものと思います。

ところが時代は幕末ということもあり、血気盛んであった寅楠さんは家名に泥をぬることをしでかしてしまい、勘当されてしまします。理系ボーイとして基礎力があったのと、武士として剣術にたけていた寅楠さんは根性があり、いくらかの修行をしたのちに機械一般の「渡り職人」として生活を始めます。母方が医師の家系でしたので、医療器具なども器用に修理したそうです。

そして一旗あげるために東京に出た寅楠さんではありましたが、「渡り職人」(親方を持たないフリーの職人。信用されなかった)であったためうまくいかず、仕方がなく諦めて故郷に戻る際「ついでに浜松によって病院で機械を修理してくれ」と知り合いに頼まれます。そして、そこの病院の院長と親交を結ぶことになり、さらにその縁で「小学校にオルガンというものがあるが、音がでなくなってしまったから見てくれ」と頼まれます。それが寅楠さんと西洋楽器との出会いでした。

故障の原因はリードにホコリがたまり、それが原因で鍵盤につながるスプリングに不具合が起きていたのだそうです。寅楠さんは、許可を得てオルガンを分解し、そっくりそのまま複製しました。そして、できあがった楽器をもって東京の偉い先生のところを訪ね、評価を頼みました。その当時はまだ鉄路が国府津までしか来ていなかったため、浜松から国府津まではオルガンを天秤棒で担ぎ、「歩き」で東京に向かったのでした。ということは、箱根の山をオルガンをもって越えたのですね。



こちらは浜松市のHPの写真です。箱根越えwithオルガンon footのレリーフです。
まことにお疲れ様です・・・・・。

オルガン第一号は肝心の「西洋音階」が反映されておらず、使い物にならなかったそうですが、これが第一歩で「世界のヤマハ」が生まれるわけです。

以上、「日本のピアノ100年」「浜松市HP」などの情報です。


↑寅楠さん。浜松市HPより。

ちなみに、山葉家はもともと山羽家だったらしく、ヤマバと読んでいたらしい、山葉にしたのは羽の下に寅がいるのはよくないから変えろと寅楠さんのお祖父さんがいったかららしい、ヤマハと呼ぶようになったのは明治30年頃、社名を日本楽器に変えたころらしい、という研究があります。(大野木吉兵衛浜松短期大学教授)

人間に歴史あり、会社にも歴史ありですね!

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