旧城下町に初の古墳 川越城跡発掘調査で円墳発見
2019年4月27日・東京新聞
川越市教育委員会は、同市大手町の川越城跡発掘調査で、古墳時代後期(6世紀末~7世紀)の円墳(幅約23メートル)が見つかったと発表した。石室からは鉄製の直刀(片刃)や柄頭(つかがしら)、首飾りにしたとみられるガラス玉、鉄鏃(てつぞく)(やじり)などが出土した。川越城跡や旧城下町一帯での古墳の発見は初めて。市教委は「この地域の有力者が葬られた可能性が高い」とみている。
古墳が見つかったのは、川越城西大手門跡にある市役所から南に約百七十メートル、小江戸の象徴「時の鐘」から東に約二百メートルの高齢者施設建設予定地。川越城の南西の堀跡のすぐ外側に当たる。墳丘は後世に削られており、石室の上部も残っていなかった。
古墳の周囲には上から見て「C」字形の周溝(幅二・三~二・九メートル)が掘られていた。石室は全長約五メートル、最大幅一・七メートル。床面だけが残っており、半地下式の横穴式石室という。床面には厚さ十センチほどの石が敷かれていた。被葬者が複数の可能性もあるという。
石室で見つかった直刀は先端部分が失われていて、残った部分の長さは約六十センチ。刀の近くから金銅製の柄頭や鉄製のつばも見つかった。柄頭の特徴から、製作年代は六世紀末から七世紀初めとみられ、石室に副葬されるまでの時間を考慮すると、古墳は七世紀中頃までに築造されたと考えられる。
同種の柄頭の出土は県内で三例目という。ガラス玉は濃い紫などの色付きで穴が開けられており、首飾りとみられる。金銅製の耳環(じかん)四個も出土した
一方、今回の発掘調査では、中世の川越城(当時は河越城)の堀跡も見つかった。
河越城は一四五七年に太田道真・道灌(どうかん)親子が築城したとされる。江戸時代に五代目川越藩主で「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱が大改修を行った。発掘された堀跡は中世のものだが、元々あった堀をさらに拡張した跡があるという。
市教委は六月十五日午後一時半から、市立博物館視聴覚ホールで、今回の発掘調査などを説明する遺跡発表会を開く。
2019年4月27日・東京新聞
川越市教育委員会は、同市大手町の川越城跡発掘調査で、古墳時代後期(6世紀末~7世紀)の円墳(幅約23メートル)が見つかったと発表した。石室からは鉄製の直刀(片刃)や柄頭(つかがしら)、首飾りにしたとみられるガラス玉、鉄鏃(てつぞく)(やじり)などが出土した。川越城跡や旧城下町一帯での古墳の発見は初めて。市教委は「この地域の有力者が葬られた可能性が高い」とみている。
古墳が見つかったのは、川越城西大手門跡にある市役所から南に約百七十メートル、小江戸の象徴「時の鐘」から東に約二百メートルの高齢者施設建設予定地。川越城の南西の堀跡のすぐ外側に当たる。墳丘は後世に削られており、石室の上部も残っていなかった。
古墳の周囲には上から見て「C」字形の周溝(幅二・三~二・九メートル)が掘られていた。石室は全長約五メートル、最大幅一・七メートル。床面だけが残っており、半地下式の横穴式石室という。床面には厚さ十センチほどの石が敷かれていた。被葬者が複数の可能性もあるという。
石室で見つかった直刀は先端部分が失われていて、残った部分の長さは約六十センチ。刀の近くから金銅製の柄頭や鉄製のつばも見つかった。柄頭の特徴から、製作年代は六世紀末から七世紀初めとみられ、石室に副葬されるまでの時間を考慮すると、古墳は七世紀中頃までに築造されたと考えられる。
同種の柄頭の出土は県内で三例目という。ガラス玉は濃い紫などの色付きで穴が開けられており、首飾りとみられる。金銅製の耳環(じかん)四個も出土した
一方、今回の発掘調査では、中世の川越城(当時は河越城)の堀跡も見つかった。
河越城は一四五七年に太田道真・道灌(どうかん)親子が築城したとされる。江戸時代に五代目川越藩主で「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱が大改修を行った。発掘された堀跡は中世のものだが、元々あった堀をさらに拡張した跡があるという。
市教委は六月十五日午後一時半から、市立博物館視聴覚ホールで、今回の発掘調査などを説明する遺跡発表会を開く。