色無(いろなき)花火―東郷茂徳の娘が語る「昭和」の記憶
東郷 いせ【著】
六興出版 (1991/07/25 出版)
内容(「BOOK」データベースより)
「物心ついた時から国際社会の中で、常に外交の第一線の人々と交友を持ち続けてきた著者が、戦後時の外相として「A級戦犯」に問われ獄中死した父のこと、父、夫とともに世界を奔走した半世紀を超える年月の思い出を語る。
外交官の娘、外交官の妻としてのそれらの暮らしは仕事でもあった…。」
夏のおわり
いせ二歳で海外へ
しのびよる軍靴の足音
スケートと「二・二六」
撞球室の決断
いせの社交界デビュー
皇帝のナイフと最後の握手
友人が“敵”になる日
いせの結婚
東郷家の「東京栽判」
外交官たちの戦後
もうひとつの“故国”への旅
マダム東郷の“動物外交”
若き命の笑顔
世界の中で、日本と生きる
19450110 一声二顔三物腰 ~ 軽井沢の双生児 ~
東郷いせ『色無花火』六興出版 からの引用が多数ある
東郷家 (朴)
朴寿勝━━東郷茂徳
┣━━━━いせ ┏東郷茂彦
エヂ ┣━━┫
東郷文彦 ┗東郷和彦
(本城)
何が凄いって、ドイツ人建築家との間に一男四女を設けて死別したドイツ女性と結婚しようというのが、凄い。
前夫との間に設けた5人の子供たちを寄宿制学校に預けて、日本人外交官との生活に突入した夫人(著者の母堂)も、凄い。
著者は、(双子のうち)記者になった方の子息の不祥事(前日の「スケベニンゲン」が指している件)以前に逝去されたのだっけ?
1997年7月逝去ということなので、初回はそのずっと前か…。
もしかして、1997年以降の連続事件は母堂(著者)を喪ってからかな...
出産時の双子は小さく、小さいほうの赤ちゃんはあきらめるように言われたのだが、いせ女史は「絶対に生かしてやる」と猛然とハッスルして無事に育てた由。
どっちがその小さい方なのか、本書を読むだけでは不明なのだが、まあ、たぶん…。
出来の悪い方が、心配をたくさんつぎ込んだだけに可愛い…というようなこともあったのかもしれないよね。
外交官の娘から、外交官の妻へ、さらに、外交官の母へ。ついでに「スケベニンゲン」の母にも?
生をつぐこと『世界思想:特集<生と永遠>』(2003年春、 30号)原 田 達
「母いせは、東郷茂徳とドイツ人だった妻エディとの間の一人娘として生まれ、茂徳が第二次世界大戦勃発のころの駐ドイツ大使、ソ連大使を歴任するころから常に茂徳の側におり、日本が戦争に入っていく様と戦争を終わらせていく様を目の当たりにしてきた。
終戦後は、父とともに極東裁判における茂徳弁護のためにできるだけのことをした。戦後父が外務省で仕事をしていく中で、特にカルカッタ、ニューヨーク、南ベトナム、アメリカと四つの公館長を務めた際には、英語・ドイツ語を母国語並みに使えた能力を生かしながら、現地社会とのコミュニケーションの拡大に大きな貢献をしてきた。」
なにせ、両親の会話はドイツ語だったそうで。
山王ホテル地下のスケートリンクでスケートを習っており、「今日はだめ」、「行きたーい」などのやり取りを2.26事件当日にされたとか、父君が陸軍の渡辺教育総監の自宅を訪問したばかりだったとか。
さりげなく時代の重要局面を経験されたエリート外交官の息女。
モスクワでは、「いせを社交に出しましょう」とのご両親の判断で15歳にして(外交団内の)社交界デビュー。
単なるお嬢さんではなく、他国の若手外交官とガンガン議論したりなど。
シューレンブルグ・駐モスクワドイツ大使には大いに可愛がってもらい、よくお使いにも、また、遊びにドイツ大使館に赴く。
日本大使からドイツ大使に正式な伝達事項というと何かと手続きが大変だったりするので、お嬢さんにひょいと行かせるなど、フル活用。
元外相 東郷茂徳記念館 | 日置市観光協会
ゴーストライターさんにも記名で謝意を表明。
流石。
福士節子さん、ここにもご登場。
国際的にご活躍された女性の一代記聞き書きに定評?
<東郷家シリーズ>
~2016/12追記~
今週、このエントリに訪問者が多いと思ったら、これね!
NHKスペシャル | ドラマ 東京裁判
「東郷茂徳の証言を傍聴するエディといせ」が登場するのね。
東郷 いせ【著】
六興出版 (1991/07/25 出版)
内容(「BOOK」データベースより)
「物心ついた時から国際社会の中で、常に外交の第一線の人々と交友を持ち続けてきた著者が、戦後時の外相として「A級戦犯」に問われ獄中死した父のこと、父、夫とともに世界を奔走した半世紀を超える年月の思い出を語る。
外交官の娘、外交官の妻としてのそれらの暮らしは仕事でもあった…。」
夏のおわり
いせ二歳で海外へ
しのびよる軍靴の足音
スケートと「二・二六」
撞球室の決断
いせの社交界デビュー
皇帝のナイフと最後の握手
友人が“敵”になる日
いせの結婚
東郷家の「東京栽判」
外交官たちの戦後
もうひとつの“故国”への旅
マダム東郷の“動物外交”
若き命の笑顔
世界の中で、日本と生きる
19450110 一声二顔三物腰 ~ 軽井沢の双生児 ~
東郷いせ『色無花火』六興出版 からの引用が多数ある
東郷家 (朴)
朴寿勝━━東郷茂徳
┣━━━━いせ ┏東郷茂彦
エヂ ┣━━┫
東郷文彦 ┗東郷和彦
(本城)
何が凄いって、ドイツ人建築家との間に一男四女を設けて死別したドイツ女性と結婚しようというのが、凄い。
前夫との間に設けた5人の子供たちを寄宿制学校に預けて、日本人外交官との生活に突入した夫人(著者の母堂)も、凄い。
著者は、(双子のうち)記者になった方の子息の不祥事(前日の「スケベニンゲン」が指している件)以前に逝去されたのだっけ?
1997年7月逝去ということなので、初回はそのずっと前か…。
もしかして、1997年以降の連続事件は母堂(著者)を喪ってからかな...
出産時の双子は小さく、小さいほうの赤ちゃんはあきらめるように言われたのだが、いせ女史は「絶対に生かしてやる」と猛然とハッスルして無事に育てた由。
どっちがその小さい方なのか、本書を読むだけでは不明なのだが、まあ、たぶん…。
出来の悪い方が、心配をたくさんつぎ込んだだけに可愛い…というようなこともあったのかもしれないよね。
外交官の娘から、外交官の妻へ、さらに、外交官の母へ。ついでに「スケベニンゲン」の母にも?
生をつぐこと『世界思想:特集<生と永遠>』(2003年春、 30号)原 田 達
「母いせは、東郷茂徳とドイツ人だった妻エディとの間の一人娘として生まれ、茂徳が第二次世界大戦勃発のころの駐ドイツ大使、ソ連大使を歴任するころから常に茂徳の側におり、日本が戦争に入っていく様と戦争を終わらせていく様を目の当たりにしてきた。
終戦後は、父とともに極東裁判における茂徳弁護のためにできるだけのことをした。戦後父が外務省で仕事をしていく中で、特にカルカッタ、ニューヨーク、南ベトナム、アメリカと四つの公館長を務めた際には、英語・ドイツ語を母国語並みに使えた能力を生かしながら、現地社会とのコミュニケーションの拡大に大きな貢献をしてきた。」
なにせ、両親の会話はドイツ語だったそうで。
山王ホテル地下のスケートリンクでスケートを習っており、「今日はだめ」、「行きたーい」などのやり取りを2.26事件当日にされたとか、父君が陸軍の渡辺教育総監の自宅を訪問したばかりだったとか。
さりげなく時代の重要局面を経験されたエリート外交官の息女。
モスクワでは、「いせを社交に出しましょう」とのご両親の判断で15歳にして(外交団内の)社交界デビュー。
単なるお嬢さんではなく、他国の若手外交官とガンガン議論したりなど。
シューレンブルグ・駐モスクワドイツ大使には大いに可愛がってもらい、よくお使いにも、また、遊びにドイツ大使館に赴く。
日本大使からドイツ大使に正式な伝達事項というと何かと手続きが大変だったりするので、お嬢さんにひょいと行かせるなど、フル活用。
元外相 東郷茂徳記念館 | 日置市観光協会
ゴーストライターさんにも記名で謝意を表明。
流石。
福士節子さん、ここにもご登場。
国際的にご活躍された女性の一代記聞き書きに定評?
<東郷家シリーズ>
~2016/12追記~
今週、このエントリに訪問者が多いと思ったら、これね!
NHKスペシャル | ドラマ 東京裁判
「東郷茂徳の証言を傍聴するエディといせ」が登場するのね。