なにゆえ、聖書には、定まった日を記さずに、「はじめに神は天地を造られた」とあるのであるか
一六、わたしの神よ、わたしはあなたの聖書に、「はじめに神は天地を造られた。しかし地はかい見えず、形なく、闇が深淵の面にあった」と、しかもあなたがどの日にそれを造られたかを述べずに言われるのを聞くとき、さしあたってわたしはつぎのように考えるのである。すなわちさしあたって、かの天を「天の天」と、すなわち知性的な天と考えるのであるが、そこにおいては、認識は同時にすべてを知るのであり、「部分的に」ではなく、「おぼろに」ではなく、「鏡をもって」ではなく、全体的に、あきらかに、「顔と顔とを合せて知る」のであり、そしてあるときにはこのものを、また他のときにはあのものをというように知るのではなく、上に述べたように、すべてを時間の転変なしに知るのである。
またわたしは、「見えず形のない地」を、あるときにはこのもの、また他のときにはあのものということが起こるのがつねである時間の転変のけっしてないものと考えるのである。形熊のないところには、このものとかあのものとかいうものもないのである。わたしは、これら二つのもの、すなわちまず第一に形成されたものとまったく形のないものとを、前者を天、ただし「天の天」と、後者を地、ただし「見えず形のない地」と考えるのである。わたしはさしあたって、これら二つのものを、あなたの聖書が日を述べずに、「神ははじめに天地を造られた」といっているものと考えるのである。そしてじっさい、それがどのような地のことをいうのであるかは、そのすぐつぎに述べられている。そして二日目に「空」を造って「天」と名付けられたと記されていることは、さきに日をあげずに述べられていたものがどのような天であるかをわたしたちに暗示するものである。
聖アウグスティヌス
一六、わたしの神よ、わたしはあなたの聖書に、「はじめに神は天地を造られた。しかし地はかい見えず、形なく、闇が深淵の面にあった」と、しかもあなたがどの日にそれを造られたかを述べずに言われるのを聞くとき、さしあたってわたしはつぎのように考えるのである。すなわちさしあたって、かの天を「天の天」と、すなわち知性的な天と考えるのであるが、そこにおいては、認識は同時にすべてを知るのであり、「部分的に」ではなく、「おぼろに」ではなく、「鏡をもって」ではなく、全体的に、あきらかに、「顔と顔とを合せて知る」のであり、そしてあるときにはこのものを、また他のときにはあのものをというように知るのではなく、上に述べたように、すべてを時間の転変なしに知るのである。
またわたしは、「見えず形のない地」を、あるときにはこのもの、また他のときにはあのものということが起こるのがつねである時間の転変のけっしてないものと考えるのである。形熊のないところには、このものとかあのものとかいうものもないのである。わたしは、これら二つのもの、すなわちまず第一に形成されたものとまったく形のないものとを、前者を天、ただし「天の天」と、後者を地、ただし「見えず形のない地」と考えるのである。わたしはさしあたって、これら二つのものを、あなたの聖書が日を述べずに、「神ははじめに天地を造られた」といっているものと考えるのである。そしてじっさい、それがどのような地のことをいうのであるかは、そのすぐつぎに述べられている。そして二日目に「空」を造って「天」と名付けられたと記されていることは、さきに日をあげずに述べられていたものがどのような天であるかをわたしたちに暗示するものである。
聖アウグスティヌス
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