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プロテスタントとイギリス(聖公会) 異教会のこと:3 

2019-08-01 00:07:14 | プロテスタント
フランツ・フィンゲル神父「異教会のこと」『汝磐なり』山形天主公教会、1926年

3、プロテスタントとイギリス(聖公会)

 プロテスタント起源の時代には、以前ドイツと同じくカトリック信者であった英国のアングロサクソン民族は、ドイツ民族が約半分しかプロテスタントに属しなかったのに反して、後日ほとんど全部プロテスタントの天下になりました。

 プロテスタントというのは、カトリックと同じように教理と組織との方面において一致を堅く守る宗教上の団体という意味ではありません。特に現代のプロテスタントは、むしろ何百宗派に分かれて来ているのであります。この不一致こそは、この宗派が、キリストの教えたもうた教えから離れてきたこと明らかな証拠であります。

 イギリスがカトリックから分離して異教の国になったのは、主にルーテル時代の国王ヘンリー8世の結婚問題、もっとはっきり言えば、離婚問題の結果でありました。プロテスタントがドイツでだんだん出来始めたときに、ヘンリー8世は、まず、大いに反対し、ルーテルの運動に対抗し、カトリックを擁護するために特別の書物を著すほどの熱心を見せましたが、しばらくたつと彼は、不幸にして肉欲のワナにかかり、すでに5人の子どもを産んだ妻との結婚が無効であるよう、また、他の婦人と結婚してもよいという宣言を教皇から得ようと。大いに努力するようになったのであります。

 教皇は大変困りましたが、国王といえども他の婦人と結婚することは、明らかに婚姻の神聖を保護する神の定めとカトリックの教理に背きますから、教皇も許可を与えることはできませんでした。ヘンリー8世は、つまり、自らの情欲に克つことができないで、むしろ、自らカトリック教会から分離したのみでなく、恐ろしい暴力を加えて、その国民の良心の自由に大いに干渉して、国民をカトリック教会から分離させたので、当時イギリスは英雄的な殉教者をたくさん出しました。当時の首相トーマス・モア(注釈:カトリック教会で列聖済みの聖人)でさえも、ヘンリー8世の迫害を受けて立派に殉教しました。

 最初はただの「分離の教会」であったイギリスのキリスト教は、ヘンリー8世の息子の時代に、本当の「異教会」になりましたが、イギリスでは、近年再びカトリック教会に改宗する運動が割合に進んで、少なくとも個人としてカトリックに改宗するイギリス人の数は、ますます多くなってきています。



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