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聖人を尊敬し、これに助けを求めること『公教と新教との教理上の主なる差異』

2022-08-28 03:17:52 | プロテスタント
『公教と新教との教理上の主なる差異』ヤコブ・リンデン著 荻原晃訳 東京公教青年会、1921年

4、聖人を尊敬し、これに助けを求めること

【公教(カトリック)】
 聖人を尊敬し、これに助けを求めることは、よいことで、かつ、有益なことである。

 新教徒は、繰り返し繰りかえし常に、われわれ公教徒は聖人を拝むと主張する。これは、軽薄なる誹謗である。我らは神のみを拝み、聖人を神の忠実なるしもべ、また、友人として尊敬するのみである、ということは、どの正統派カトリックの信者の子どもでも知っているし、また、どのカテキズム(公教要理)の中にも書いてある。

【新教(プロテスタント)】
 聖人を尊敬し、聖人に助けを求めることは、不合理であり、かつ、無益なことである。


【反駁】

1、戦争、芸術、学問に功労のある人を尊敬することは、よいことであると誰でも思っている。そうすれば、道徳及び聖きことについてすぐれている人々を尊敬するのは、どうして正しくないのであろうか。

2、聖人を尊敬するときに、我々は恵みをもって、彼等をあのように尊いものにしてくださった、神、御自身を尊敬するのである。どうしてこれが不合理であって、かつ、神の御意にかなわないのであろうか。

3、聖書は、聖人を尊敬することをすすめる。「国々の民は賢徳(アブラハム、モーゼ、ジョシュア、ダヴィド)を言い広めよ。(中略)教会はその栄誉を謳えよ」(集会の書 44-15)

4、最も古代から、キリスト教会においては、聖人を尊敬し、その代願を求めたので、キリスト教の初代の様々な遺物は、その明らかな証拠を示すものである。

5、聖人はどこにでもいるのではないから、我らの祈りを聞く事ができないというのは、取るに足らないことである。
聖人は神によって、また、神の思し召しによって、我らの祈りを知ることは難しくない。天使もどこにでもいるものではないけれども、「改心する一人の罪人の為には、神の使等の前に喜びがあるであろう」(ルカ15の10)と救い主が仰せられた。もしも、天使らがそのことについて何も知らないならば、どうしてそのことを喜ぶことができようか。

6、聖人の代願を求めることは必要であって、かつ、神の思し召しにかなうものであることは、たえず神が、聖人に助けを求めることに対して、明らかなる奇蹟を行い給うを見てもわかる。
 ルーテルでさえ、背教してから2年目に、
「わたしは、聖人に対する代願については、聖人を敬いかつ聖人に助けを求めるべきものであることを、すべてのキリスト教徒と共に言い、かつ堅くこれを信じる。なぜならば、今日なお神が、明らかに、聖人の体と御墓に聖人等の名をもって奇蹟を行い給うたことを、誰も否定することができないからである。」





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