聖ヨハネ・バプティスタ・ヴィアンネー司祭証聖者 St. Joannes Baptista Vianney C. 記念日 8月 4日
聖書の「天主は諸聖人のうちに奇蹟を行い給う」という聖言はどの聖人聖女の生涯に就いても言われるであろうが、特別ヨハネ・ヴィアンネーの一生に当てはまるように思われる。
彼は1786年5月8日フランスのリオンに程近いダルヂリー村に生まれた。両親は農を業とし、別に財産もなかったが、勤勉で敬虔な人々であった。父は貧しい者、わけても貧しい憐れみをかけることが好きで、かつてその宿した旅人の中には聖ベネディクト・ラブルもいたのである。
ヨハネはこういう信心深い父母の第4子であった。しかし両親の教えを聴き、その善行に倣うことにかけては兄弟姉妹の誰にも負けなかった。彼は幼い頃からもう暇さえあれば祈祷に耽っていた。その5歳の時フランス大革命が勃発するや、彼の父母は他の篤信な人々同様非常に心を痛めたが、わけても司祭が少なくなってミサ聖祭も稀にしか行われず御聖体拝領も思うに任せぬのを深く悲しんだのである。その中にヨハネは11歳を迎えて初告解をし、また2年を経て初めて御聖体を拝領した。彼は早くから司祭になる志望を持っていた。しかし何分にも家が貧しく、学資が続かぬことを知っているので、親にそれを申し出る勇気もなく、子羊の番やその他農家の子の為すべき仕事の中に日々を送ったのである。
彼はどんな仕事を与えられても喜んで力の限り働いた。けれども司祭になりたいという望みは日増しに強くなるばかりであった。で、とうとう彼は17歳の時思い切って両親に自分の念願を打ち明けた。父母はそれを聞くと非常に喜んだ。ただ息子を町へ勉強に出すのは経済が許さない。それでヨハネはなお2年の歳月を従前通りの生活をして過ごしたが、その時天主の御摂理がエキュリイのバレイという司祭が現れ、己も貧しいながら彼の世話をしてくれることになった。かくて彼が師の許に引き取られたのは1805年のことであった。
バレイ師は自分でヨハネに必要な学課を教えた。しかしこの聖人の如き司祭がその熱心な弟子に最も力をこめて教えたのは天主を愛することと償いの為苦行をすることであった。ヨハネは一生懸命勉強しても、学問はあまり出来る方ではなかった。彼はしばらくの後ヴェリエールの小神学校に送られたが、そこでも学業の成績は決してよくなかった。理解する頭はあるが記憶が悪いのである。教師達は彼を成業の見込みのない者として退学させようとも思ったが、信仰厚く品行も方正で、その方では学友の模範とするに足りたから、ようやく在学を許したのであった。けれどもその後ヨハネは不撓不屈の勉学によって、神学部に入学を許され、ついに晴れの叙階式を受けることも出来た。
司祭になると彼はすぐにエキュリイなる恩人バレイ師の許に帰り、その仕事を助けることになった。バレイ師はその頃もうかなりの老齢で病気がちであったが、それでも厳しい苦行の生活を送っていた。ヨハネは何事も師と共に為し、すべてに篤信の師を範と仰いだし、バレイ師もなお何かと彼を教え導いた。しかしこの両聖人の楽しい共同生活は永くは続かなかった。というのはヨハネの帰着後僅か二、三ヶ月にしてバレイ師は帰らぬ旅に赴いたからである。
それからヨハネ・ヴィアンネーは司教の命を受けてアルスの主任司祭に赴任した。アルスは小さな村で、住民は全部公教徒であるにも拘わらず、冷淡でなかなか信者の義務も守らなかった。教会へ来る者は甚だ少なく、多くは主日にも平気で労働し、快楽ばかりを追い求めていた。若い司祭はしかし天主を信頼して少しも失望しなかった。やがて彼の親切、彼の慈愛、彼の立派な行いはすべての人々の心に深い感動を与えた。彼等は最初彼の聖徳に驚嘆し、次いで彼の戒めを聴き容れるようになり、最後にいずれも熱心な信者と更正したのであった。
その改心の聖寵を天主から求める為、ヨハネ師はどれほど一心に祈り、多くの苦行を献げ、個人的な活動をしたことであろう。その峻厳な償いの生活振りは、証人がなければ到底信じられぬ位である。彼は絶えず大斉を守り、馬鈴薯を常食とした。堅い寝床に着の身着のままの司祭服一枚、その他の物はことごとく聖祭の用に供するか貧民に施してしまった。。そういう彼の聖徳の聞こえは、間もなく近在近郷に響き渡り、果てはフランス全国に雷の如く轟いた。
それと共に風を望んで彼の許を訪れる人も急に激増した。彼に告白せんと願う信者は遠方からも押し寄せた。その中には信仰を失い、しかも心の不安に耐えかね、慰めに飢えている者もあれば、長い間告白をせずに捨ておいた者や、大罪に耽っている者もあったが、一人としてこの聖司祭に逢って満足を得ず喜悦を見いださぬ人はなかった。ヨハネ・ヴィアンネーはしばしば天主聖霊の不思議な御光にその智慧を照らされて、人々が彼に言おうと思うこと、告げようとして能わぬことなどを明らかに見抜いた。その為世の彼に対する渇仰はいよいよ加わるばかりで、彼は毎日告解を聴かねばならなかった。それは時に16時間から17時間にも及び、彼に聴罪を願う者は一頃年に平均二万人に上ったという。彼の教会は冬は甚だ寒く夏は極めて暑かった。それでも告白者の群れはひしひしと詰めかけ、ヴィアンネーの告白台にひざまずく為にはその日の朝から晩までは愚か、翌日まで順番を待つのも更に厭わなかった。
ヨハネ・ヴィアンネーはそういう多人数の告解を聴く激務に携わりながらも、相変わらず厳しい苦行生活を怠らなかった。その頃また一方では悪魔が彼の心を乱し不安ならしめることが数年続いた。その上他の試練も彼の上に加えられた。それは根も葉もない悪評を立てられて非難の手紙を幾通か受け取ったことである。しかし彼は従来通りすべての人を愛する態度を決して変えなかった。彼は日毎率直にして有効な説教を試み、忠実に自分の義務を果たした。人々は彼の生活や活動振りに驚嘆し天主の御助けがなければ出来ぬことを認めた。かくて不信なる者の改心はいちじるしく、彼は嘲った者も彼の謦咳に接してはたちまち信仰を得るのであった。
さてヨハネ・ヴィアンネーは不屈の活動と苦行の生活を送ること41年、1859年の7月29日、17時間の告白を聴いて聖堂から出てくると、「私はもう駄目だ!」と言った。それは真実であった。かれの体力は最早全く尽きていたのである。5日の後その帰天の時は来た。彼は涙ながらに御聖体を拝領すると、信者達に掩祝を与え、静かに目を閉じた。が司教が傍に来られると彼はもう一度目を開いた。そして二、三時間の後ついに永眠した。
彼への崇敬はその死後直ちに始まった。教皇ピオ10世は彼を福者の位に、教皇ピオ11世は彼を聖人の位に、それぞれ進めてその名に永遠の栄えあらしめ給うた。
教訓
聖ヨハネ・ヴィアンネーはその謙遜と天主への信頼によって大事を為し遂げた。特別の大事業を成すべき使命を受ける人は少ないが、力の及ぶ限りわが救霊の為に働く使命は万人いずれも之を受けているのである。我等もアルスの聖司祭の如く謙遜にして天主への信頼を失わぬならば、等しく聖人になり得るのであろう。
御聖体ほど偉大なものはひとつもない。
この世のすべての善行をあわせても熱烈な御聖体拝領にくらべれば、
ちりの小さなつぶをひじょうに大きなやまにくらべるのと同じである。
人間がおこなうことのできるすべてのよいおこないを
ぜんぶひとつにあわせてもミサ聖祭のと同じ値打ちにならない、
なぜなら前者は人間のおこないであって
後者は神のみわざだからである。
聖書の「天主は諸聖人のうちに奇蹟を行い給う」という聖言はどの聖人聖女の生涯に就いても言われるであろうが、特別ヨハネ・ヴィアンネーの一生に当てはまるように思われる。
彼は1786年5月8日フランスのリオンに程近いダルヂリー村に生まれた。両親は農を業とし、別に財産もなかったが、勤勉で敬虔な人々であった。父は貧しい者、わけても貧しい憐れみをかけることが好きで、かつてその宿した旅人の中には聖ベネディクト・ラブルもいたのである。
ヨハネはこういう信心深い父母の第4子であった。しかし両親の教えを聴き、その善行に倣うことにかけては兄弟姉妹の誰にも負けなかった。彼は幼い頃からもう暇さえあれば祈祷に耽っていた。その5歳の時フランス大革命が勃発するや、彼の父母は他の篤信な人々同様非常に心を痛めたが、わけても司祭が少なくなってミサ聖祭も稀にしか行われず御聖体拝領も思うに任せぬのを深く悲しんだのである。その中にヨハネは11歳を迎えて初告解をし、また2年を経て初めて御聖体を拝領した。彼は早くから司祭になる志望を持っていた。しかし何分にも家が貧しく、学資が続かぬことを知っているので、親にそれを申し出る勇気もなく、子羊の番やその他農家の子の為すべき仕事の中に日々を送ったのである。
彼はどんな仕事を与えられても喜んで力の限り働いた。けれども司祭になりたいという望みは日増しに強くなるばかりであった。で、とうとう彼は17歳の時思い切って両親に自分の念願を打ち明けた。父母はそれを聞くと非常に喜んだ。ただ息子を町へ勉強に出すのは経済が許さない。それでヨハネはなお2年の歳月を従前通りの生活をして過ごしたが、その時天主の御摂理がエキュリイのバレイという司祭が現れ、己も貧しいながら彼の世話をしてくれることになった。かくて彼が師の許に引き取られたのは1805年のことであった。
バレイ師は自分でヨハネに必要な学課を教えた。しかしこの聖人の如き司祭がその熱心な弟子に最も力をこめて教えたのは天主を愛することと償いの為苦行をすることであった。ヨハネは一生懸命勉強しても、学問はあまり出来る方ではなかった。彼はしばらくの後ヴェリエールの小神学校に送られたが、そこでも学業の成績は決してよくなかった。理解する頭はあるが記憶が悪いのである。教師達は彼を成業の見込みのない者として退学させようとも思ったが、信仰厚く品行も方正で、その方では学友の模範とするに足りたから、ようやく在学を許したのであった。けれどもその後ヨハネは不撓不屈の勉学によって、神学部に入学を許され、ついに晴れの叙階式を受けることも出来た。
司祭になると彼はすぐにエキュリイなる恩人バレイ師の許に帰り、その仕事を助けることになった。バレイ師はその頃もうかなりの老齢で病気がちであったが、それでも厳しい苦行の生活を送っていた。ヨハネは何事も師と共に為し、すべてに篤信の師を範と仰いだし、バレイ師もなお何かと彼を教え導いた。しかしこの両聖人の楽しい共同生活は永くは続かなかった。というのはヨハネの帰着後僅か二、三ヶ月にしてバレイ師は帰らぬ旅に赴いたからである。
それからヨハネ・ヴィアンネーは司教の命を受けてアルスの主任司祭に赴任した。アルスは小さな村で、住民は全部公教徒であるにも拘わらず、冷淡でなかなか信者の義務も守らなかった。教会へ来る者は甚だ少なく、多くは主日にも平気で労働し、快楽ばかりを追い求めていた。若い司祭はしかし天主を信頼して少しも失望しなかった。やがて彼の親切、彼の慈愛、彼の立派な行いはすべての人々の心に深い感動を与えた。彼等は最初彼の聖徳に驚嘆し、次いで彼の戒めを聴き容れるようになり、最後にいずれも熱心な信者と更正したのであった。
その改心の聖寵を天主から求める為、ヨハネ師はどれほど一心に祈り、多くの苦行を献げ、個人的な活動をしたことであろう。その峻厳な償いの生活振りは、証人がなければ到底信じられぬ位である。彼は絶えず大斉を守り、馬鈴薯を常食とした。堅い寝床に着の身着のままの司祭服一枚、その他の物はことごとく聖祭の用に供するか貧民に施してしまった。。そういう彼の聖徳の聞こえは、間もなく近在近郷に響き渡り、果てはフランス全国に雷の如く轟いた。
それと共に風を望んで彼の許を訪れる人も急に激増した。彼に告白せんと願う信者は遠方からも押し寄せた。その中には信仰を失い、しかも心の不安に耐えかね、慰めに飢えている者もあれば、長い間告白をせずに捨ておいた者や、大罪に耽っている者もあったが、一人としてこの聖司祭に逢って満足を得ず喜悦を見いださぬ人はなかった。ヨハネ・ヴィアンネーはしばしば天主聖霊の不思議な御光にその智慧を照らされて、人々が彼に言おうと思うこと、告げようとして能わぬことなどを明らかに見抜いた。その為世の彼に対する渇仰はいよいよ加わるばかりで、彼は毎日告解を聴かねばならなかった。それは時に16時間から17時間にも及び、彼に聴罪を願う者は一頃年に平均二万人に上ったという。彼の教会は冬は甚だ寒く夏は極めて暑かった。それでも告白者の群れはひしひしと詰めかけ、ヴィアンネーの告白台にひざまずく為にはその日の朝から晩までは愚か、翌日まで順番を待つのも更に厭わなかった。
ヨハネ・ヴィアンネーはそういう多人数の告解を聴く激務に携わりながらも、相変わらず厳しい苦行生活を怠らなかった。その頃また一方では悪魔が彼の心を乱し不安ならしめることが数年続いた。その上他の試練も彼の上に加えられた。それは根も葉もない悪評を立てられて非難の手紙を幾通か受け取ったことである。しかし彼は従来通りすべての人を愛する態度を決して変えなかった。彼は日毎率直にして有効な説教を試み、忠実に自分の義務を果たした。人々は彼の生活や活動振りに驚嘆し天主の御助けがなければ出来ぬことを認めた。かくて不信なる者の改心はいちじるしく、彼は嘲った者も彼の謦咳に接してはたちまち信仰を得るのであった。
さてヨハネ・ヴィアンネーは不屈の活動と苦行の生活を送ること41年、1859年の7月29日、17時間の告白を聴いて聖堂から出てくると、「私はもう駄目だ!」と言った。それは真実であった。かれの体力は最早全く尽きていたのである。5日の後その帰天の時は来た。彼は涙ながらに御聖体を拝領すると、信者達に掩祝を与え、静かに目を閉じた。が司教が傍に来られると彼はもう一度目を開いた。そして二、三時間の後ついに永眠した。
彼への崇敬はその死後直ちに始まった。教皇ピオ10世は彼を福者の位に、教皇ピオ11世は彼を聖人の位に、それぞれ進めてその名に永遠の栄えあらしめ給うた。
教訓
聖ヨハネ・ヴィアンネーはその謙遜と天主への信頼によって大事を為し遂げた。特別の大事業を成すべき使命を受ける人は少ないが、力の及ぶ限りわが救霊の為に働く使命は万人いずれも之を受けているのである。我等もアルスの聖司祭の如く謙遜にして天主への信頼を失わぬならば、等しく聖人になり得るのであろう。
御聖体ほど偉大なものはひとつもない。
この世のすべての善行をあわせても熱烈な御聖体拝領にくらべれば、
ちりの小さなつぶをひじょうに大きなやまにくらべるのと同じである。
人間がおこなうことのできるすべてのよいおこないを
ぜんぶひとつにあわせてもミサ聖祭のと同じ値打ちにならない、
なぜなら前者は人間のおこないであって
後者は神のみわざだからである。