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人を罰するタイミング  聖ヨハネ・ボスコ(ドンボスコ)

2017-04-09 03:59:51 | 格言・みことば
罰をどうみるか なおすための良い時を選ぶこと 聖ヨハネ・ボスコ(ドンボスコ)

 「全てに時がある」と聖書は言っている。私も言う。罰の必要が生じた場合、効き目があるためにどんな時がもっとも適切かを懸命に考える必要がある。心の病いは、少なくとも体の病気と同じくらいの慎重さを必要とする。適切でない時の治療や適切でない処置ほど危険なものはない。賢い人は違反者が治療を受けいれる状態である良い時期を待つ。この時期を知るためには、愛情にともなう経験で行くしかない。

 先ず自分を完全に支配出来る時まで待つことである。感情やいきどおりにかられて罰を与えるとしたら、それは大変なことになる。

 ソクラテスが、ある奴隷に言った名言が思い出される。「もし、今私が怒っていなければ、私はお前を打つだろう」と。生徒は、先生の顔や声の様子から先生が感情のためか、それとも義務のために燃えているかがよくわかる。罰の効果を失わせるにはこれで十分である。埋に合わな-なら先生は何も言う権利がないことを生徒はよく知っている。

 第二に生徒が間違った時、即座に罰しないことである。その時、生徒はまだ自分の非を認める気になれず、自分の感情に克つ事も出来ないし、また、罰の重大さも判断できなくて、かえって感情的な反発のためさらにもっと重大な過ちに走る危険があるからである。やはり反省する時間を与える必要があるのである。罰が役立つには、生徒が我にかえって悪かったことを悟り、罰が正しくかつ必要であることを自分でわかるようにならなければならない。

 聖パウロが回心する前、「まだキリスト信者に対して怒りと迫害の気持に満ちていた」時に、主が彼に対してとられた態度は、いつも私を考えさせる。そのやり方の中には、抵抗する生徒に対して私たちがとるべき態度の手本が示されているという気がする。心のやさしいイエズスは、すぐパウロを倒したのではない。やはり倒したのは、長い旅の途中だった。彼が自分のやろうとすることについて考えることが出来るようになった時、しかも彼をそそのかしていた人たちから離れていた時である。ダマスカス市の前で主は、彼に自分の威厳と権威を示して、強く、やさしくパウロの心を照らして、その間違いを悟らせたのである。これで彼の気持が変わり、迫害者から異邦人の使徒、選ばれた者となった。すべてのサレジオ会員は、主のこの手本に見習ってほしい。懸命に忍耐を持って愛情深く神のみ名によって生徒を正すための良い時を待ってほしい。


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