『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル神父編
◆2-3、誤謬をまき散らす隠れた存在
とはいえ、わたしたちは、わたしたちの生活と、歴史全体にかかわりをもつ悪魔のこの世界について、たくさんのことを知っている。
そもそも悪魔は、人類最初の罪の原因であった、なぜなら、一番目の罪、いわゆる原罪とよばれている罪に、人をそのずるがしこいいざないでひきずり込むのに成功したからだ(創世の書3章、知恵の書1・24)。
こうしてアダムが罪を落ちてからは、悪魔は、ある程度まで人間の上に支配権をえるようになった。それにしても、わたしたちを救いうるものが、すなわち、この悪魔の支配権からわたしたちを救うことのできるものが、たったひとつだけある。それは、キリストのあがないだ。そしてこの救いの歴史は、いまもなお続いている。では、洗礼式における抜魔式を思い出そう。また、攻撃と圧迫のあの「くらやみの力」(ルカ22・53。コロサイ1・13)について述べる聖書や典礼の多い箇所も。
敵ナンバー・ワン、最大級のいざない者、これが悪魔の正体である。聖書を信じるわたしたちは、このくら闇に包まれた圧迫者がほんとうに存在することも、悪賢いうらぎりをはたらいていることも、また、かれが人間の歴史に禍いをまき散らす、かくれた敵であることも知っている。
ここであの福音書の意味ぶかいたとえばなし、よい麦と毒麦の話を思い出してみよう。この話の中にキリストは、人間生活にたえずあらわれてくる不合理をまとめて、簡単にこう説明される、「敵がしたことだ」(マタイ13・28)と。
あくまキリストがおおせられるとおり、「悪魔は、はじめから、人殺しで、うそをつくもの」(ヨハネ8、44-45)、人間道徳のバランスをこわそうと企むものなのである。
悪魔のやり方は、じつにずる賢い。悪意にみちた魅力、五感、想像、邪欲、あるいは、ユートピアにみちた屁理屈、不純な社交、あらゆるものを通じて。巧みにわたしたちの活躍の中にしのびこんでくる。それは、わたしたちに、さまざまな迷いを起させるためである。
これは、見た目には、肉体的、あるいは心理的なわたしたちの傾向に適していて、本能の深淵なあこがれをみたすかのようにさえみえるが、ひとたびこれにひっかかると、大へんな損害をこうむってしまうのである。
悪魔の存在と、個人、団体、社会をとわず、およぼされるその大きな影響はカトリック教理の目立ったテーマで、これは、再度研究される必要があるのに、今日では、それがなおざりにされている。
しかもある人々は、この研究を、心理分折学、心理医学、あるいは降神術(ある国では、これが不幸にも実行されている)などのたぐいで、とりかえようとするのである。
悪魔の研究に真剣にとりくむなんてばかばかしい、それはあの古くさいマニめいしん教のやきなおしか、でなけれは、空想や迷心じゃないか、こんなことで恐ろしきようふい迷いにふたたびおちこむなんてごめんだと、かれらは変な恐怖心をもつのである。
こうして、現代人は、偏見のない強い精神のもち主、積極主義者をきどりながら、一方では、架空で無意味な魔法術じみた、あるいは風俗きわまる話しを信じこむことがよくある。
さらに不幸なことに、かれらは、洗礼をうけ、いく度となく聖体を拝領して聖霊の神殿となった自分の霊魂を、五感の邪欲的な経験にゆだね、あるいは、麻薬の害に、誤謬のイデオロギー的流行にまかせてしまうのである。
それはちょうど、割れ目のようなもので、悪魔はこの割れ目を通って、らくらくと人の頭の中にすべりこんでは迷いにひきずりこんでしまう。
もちろん、すべての罪が悪魔の直接的ないざないとはかぎらない(聖トマス・アクィナス「神学大全」1・104・31参照)。とはいえ、いつも、ある程度までの精神的努力によって自分自身を警戒しない人は(マタイ12・45。エフェゾ6・11)、聖パウロがいっているように(テサロニケ後2・3-12)「罪悪の奥義」である悪魔のなすがままに身をまかせて救いを危くするのである。
悪魔を包んでいるくらやみが、わたしたちの教えをぼかしてはいるが、わたしたちは、悪魔のその多種多様な存在をはっきりと知っている。
それで、次の質問をしたいという、わたしたちの好奇心は、正当なものである。その質問は、
1、悪魔がほんとうに働いているという明らかなしるしがあるだろうか?
2、では、それはど、ゆだんのならない危険をさけるには、どうすればよいだろうかということである。
よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。
◆2-3、誤謬をまき散らす隠れた存在
とはいえ、わたしたちは、わたしたちの生活と、歴史全体にかかわりをもつ悪魔のこの世界について、たくさんのことを知っている。
そもそも悪魔は、人類最初の罪の原因であった、なぜなら、一番目の罪、いわゆる原罪とよばれている罪に、人をそのずるがしこいいざないでひきずり込むのに成功したからだ(創世の書3章、知恵の書1・24)。
こうしてアダムが罪を落ちてからは、悪魔は、ある程度まで人間の上に支配権をえるようになった。それにしても、わたしたちを救いうるものが、すなわち、この悪魔の支配権からわたしたちを救うことのできるものが、たったひとつだけある。それは、キリストのあがないだ。そしてこの救いの歴史は、いまもなお続いている。では、洗礼式における抜魔式を思い出そう。また、攻撃と圧迫のあの「くらやみの力」(ルカ22・53。コロサイ1・13)について述べる聖書や典礼の多い箇所も。
敵ナンバー・ワン、最大級のいざない者、これが悪魔の正体である。聖書を信じるわたしたちは、このくら闇に包まれた圧迫者がほんとうに存在することも、悪賢いうらぎりをはたらいていることも、また、かれが人間の歴史に禍いをまき散らす、かくれた敵であることも知っている。
ここであの福音書の意味ぶかいたとえばなし、よい麦と毒麦の話を思い出してみよう。この話の中にキリストは、人間生活にたえずあらわれてくる不合理をまとめて、簡単にこう説明される、「敵がしたことだ」(マタイ13・28)と。
あくまキリストがおおせられるとおり、「悪魔は、はじめから、人殺しで、うそをつくもの」(ヨハネ8、44-45)、人間道徳のバランスをこわそうと企むものなのである。
悪魔のやり方は、じつにずる賢い。悪意にみちた魅力、五感、想像、邪欲、あるいは、ユートピアにみちた屁理屈、不純な社交、あらゆるものを通じて。巧みにわたしたちの活躍の中にしのびこんでくる。それは、わたしたちに、さまざまな迷いを起させるためである。
これは、見た目には、肉体的、あるいは心理的なわたしたちの傾向に適していて、本能の深淵なあこがれをみたすかのようにさえみえるが、ひとたびこれにひっかかると、大へんな損害をこうむってしまうのである。
悪魔の存在と、個人、団体、社会をとわず、およぼされるその大きな影響はカトリック教理の目立ったテーマで、これは、再度研究される必要があるのに、今日では、それがなおざりにされている。
しかもある人々は、この研究を、心理分折学、心理医学、あるいは降神術(ある国では、これが不幸にも実行されている)などのたぐいで、とりかえようとするのである。
悪魔の研究に真剣にとりくむなんてばかばかしい、それはあの古くさいマニめいしん教のやきなおしか、でなけれは、空想や迷心じゃないか、こんなことで恐ろしきようふい迷いにふたたびおちこむなんてごめんだと、かれらは変な恐怖心をもつのである。
こうして、現代人は、偏見のない強い精神のもち主、積極主義者をきどりながら、一方では、架空で無意味な魔法術じみた、あるいは風俗きわまる話しを信じこむことがよくある。
さらに不幸なことに、かれらは、洗礼をうけ、いく度となく聖体を拝領して聖霊の神殿となった自分の霊魂を、五感の邪欲的な経験にゆだね、あるいは、麻薬の害に、誤謬のイデオロギー的流行にまかせてしまうのである。
それはちょうど、割れ目のようなもので、悪魔はこの割れ目を通って、らくらくと人の頭の中にすべりこんでは迷いにひきずりこんでしまう。
もちろん、すべての罪が悪魔の直接的ないざないとはかぎらない(聖トマス・アクィナス「神学大全」1・104・31参照)。とはいえ、いつも、ある程度までの精神的努力によって自分自身を警戒しない人は(マタイ12・45。エフェゾ6・11)、聖パウロがいっているように(テサロニケ後2・3-12)「罪悪の奥義」である悪魔のなすがままに身をまかせて救いを危くするのである。
悪魔を包んでいるくらやみが、わたしたちの教えをぼかしてはいるが、わたしたちは、悪魔のその多種多様な存在をはっきりと知っている。
それで、次の質問をしたいという、わたしたちの好奇心は、正当なものである。その質問は、
1、悪魔がほんとうに働いているという明らかなしるしがあるだろうか?
2、では、それはど、ゆだんのならない危険をさけるには、どうすればよいだろうかということである。
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