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3-8-4 民間の巫の歌

2018-09-06 01:37:08 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

8 楚辞の世界

4 民間の巫の歌

 「九歌」の九編は、『楚辞』のなかでも、もっともかわった部分である。
 それは「離騒」などの諸編のように、王にうとんぜられた悲憤や、北に南にさまよいあるく嘆きをうたったものではない。
 むしろ神々をうたい、たたえたもので、調子もほかのものとちがって、あかるい。
 楚の国の南、沅水(げんすい)や湘水のほとりには、鬼神をまつる古い習俗がのこっていた。
 その地方にかくれていたとき、屈原はしばしば村々の祭社や歌舞をみたが、その歌詞が俗悪なので、この「九歌」の曲をつくった、といわれている。
 その形式は、あきらかに巫歌(みか)、すなわち巫(みこ)によるかぐら歌である。
 巫がひとり、もしくは数人で神前にうたいつつ舞う。そうした素朴な歌劇とみられるものである。
東皇太一(とうこうたいいち=星の名、天上の至尊神)

よき日 よき辱(とき) つつしんで いざ東皇をたのしめまつる。
長剣の玉(ぎょく)の鐔(つば)をおさえてゆけば、 音(ね)もうるわしく佩玉(おびたま)は鳴る。

瑤(たま)のむしろに 玉(ぎょく)のおさえ うつくしい花たばをささげ、
おそなえの蕙(けい)と肉には蘭を敷き、 肉桂(にっけい)の酒、山椒の飲みものをすすめまつる。

枹(ばち)をあげて太鼓をうち  (原文が一句うしなわれたか?)
拍子(ひょうし)ゆるやかに しずかに歌い  管絃(かんげん)つらねて さかんに唱う。

神がかった巫(みこ)は美しい衣(きぬ)きて舞い、 花の香は たかく堂にみちて、
一楽(がく)のしらべは しげく入りみだれ  神はよろこび 楽しみたまう。
湘君(しょうくん=湘水の神)

湘君が ためらって来ないのは、 はて、だれか中洲(なかす)にひきとめるのやら。

みめよき巫(みこ)を着かざらせて、 神むかえの桂(かつら)の舟をのりだそう。
沅(げん)と湘とをして波なからしめたまえ、 江水をして しずかに流れしめたまえ。゛

かの君を望めど いまだ来まさず、 ふえを吹いて だれをか思おう。

飛竜にひかせて北へむかい、  わが道を洞庭(どうてい)の湖(うみ)にとり、
薜(へい)茘(れい:注)をふなばたにかけ 慧(けい)をむすび  蓀(そん)の橈(かい)に 蘭の旌(はた)、
(注:マサキノカツラ、ほかも香草)
涔陽(しんよう)の遠きをのぞんで、  大江(たいこう)をよこぎり 霊気をあげる。

霊気をあげても とどかぬゆえ、 巫(みこ)も気づかって私のために ためいきをつく。
さめざめと涙ながして  かげながら君をおもい、胸をいためる。

桂の橈(かい)に 蘭のふなばた  氷をくだけば 雪とちり 積む、
さながら薜茘(へいれい)を水中にさがし  芙蓉(はちす)の花を こずえに求めるようなものだ。
心があわねば媒(なこうど)もむだ骨おり  ちぎりが浅いときれやすい

浅瀬は さらさらと流れ        飛竜は ひらひらと飛ぶ、
まじわり厚がらねば うらみは長く   ちぎりに信(まこと)なく ひまがないと君はいう

朝(あした) 江のほとりを馳(は)せ   夕(ゆうべ) 北のなぎさにとどまれば、

鳥は屋(いえ)の上にとまり        水は堂の下をめぐる。
わが玦(けつ:注)を江中にすて わが佩(おびもの)を灃浦(れいほ)にすてて、
  (注:佩玉の一種、一ヶ所が欠けているもの)
芳(かお)る洲(す)に杜若(かきつばた)をとり   いざ 湘君の侍女におくろう、
時はふたたび得られない    しばしさまよいのびのびと過ごそう。

 この歌は、男の巫(みこ=主祭)と女の巫(助祭)との連舞(つれまい)で、ふたりが合唱するものであろう。
 祭礼のときの劇の歌とおもわれる。
 まつる者と、神とのあいだを、男女の恋愛によってあらわした表現があり、巫(みこ)と巫との問答もみえている。
 屈原が、こころのなかの憂憤をのべた「離騒」などの絶唱にしても、このような民間のリズムを取りいれ、それをさらに文学にまで高めた、とみられるのである。


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