ご無沙汰です。
本日、岐阜県若者サポートステーションのキャラバン事業で、
岐阜県の養老というところに講演に行ってまいりました。
ひとしきり、私というかICDSの考えるニート状態脱却の為の支援について
1時間強、話をさせていただきました。
最後の質疑応答で、不登校・引きこもり支援団体の方が一言。
「脱ニートとかニート脱却とか、『脱』という言葉をつけられていることに
大いに疑問を感じる。ひきこもりに対しても同様の言葉を使われるが、
その状態にならざるを得ない事情がある。
その状態になることが親の育て方の問題であるような言い方も問題だ。
援に関わっているのであれば、そのような言葉は使ってほしくない!」
と糾弾を受けました。
講演中、親の育て方が悪いという「決めつけ」は全くした覚えはないのですが、
私の中では、正直それも一因であると思っています。
このブログをお読みの方に。
私の持論は敢えて書きません。
このブログをお読みの方は、このご指摘に対してどのようなご意見をお持ちか、
ぜひとも知りたいものです。
コメント書き込み、お待ちしております。
本日、岐阜県若者サポートステーションのキャラバン事業で、
岐阜県の養老というところに講演に行ってまいりました。
ひとしきり、私というかICDSの考えるニート状態脱却の為の支援について
1時間強、話をさせていただきました。
最後の質疑応答で、不登校・引きこもり支援団体の方が一言。
「脱ニートとかニート脱却とか、『脱』という言葉をつけられていることに
大いに疑問を感じる。ひきこもりに対しても同様の言葉を使われるが、
その状態にならざるを得ない事情がある。
その状態になることが親の育て方の問題であるような言い方も問題だ。
援に関わっているのであれば、そのような言葉は使ってほしくない!」
と糾弾を受けました。
講演中、親の育て方が悪いという「決めつけ」は全くした覚えはないのですが、
私の中では、正直それも一因であると思っています。
このブログをお読みの方に。
私の持論は敢えて書きません。
このブログをお読みの方は、このご指摘に対してどのようなご意見をお持ちか、
ぜひとも知りたいものです。
コメント書き込み、お待ちしております。
その支援団体は、直リンすぎるという意味なのでしょうね。「原因解決をへて脱ニート」が理想でしょうが、期間も予算も限られています。スローガンとしては、今のままで良いと思います。
同様の悩みをかかえた人が集まり、規則正しい生活をし、塾がきっかけを与える、これで精一杯でしょう。
長期にわたるのはおり込みずみ、アフターケアも用意してるのですから。
精神論的なイカガワシイ施設が多い中にあって、学習指導者・JOB指導者が作った塾、私は随分助かりました。息子もきっかけに感謝しています。塾から約3年いまだ事情とは闘争中です。
家族療法カウンセリング「淀屋橋心理療法センター
http://www.yodoyabashift.com/hikikomori/
↑専門医は少ないし、見つかったとしても、カウンセラーと併用なので費用もかかります。
診療所はフリースペース(≠自立塾)を必要とし、フリースペースは診療所を必要としてます。ハロワ的な指導、パソコンの指導も必要です。
私は過去、神奈川に在る施設のスタッフに心を傷つけられました。その方は、ご自分の名声を追うばかり、当事者の心をないがしろにしていることに気づいてはいません。
貴方は、なんとなく、そういう方ではない気がします。
その方が脱にこだわったことは、話の内容の中でもっと他に原因があったのかもしれないし、その人個人の捕らえ方価値観かもしれないしわかりませんね。
人前でお話するというのは、本当に難しいことだと思います。
こういう時は、極端な状況を考えてみると本質に近づくのではないかと思っています。
もし、学齢期の子ども全員がひきこもったとしたら。
もし、世の中の大人全員がニート状態になったとしたら。
社会は大混乱ではないでしょうか。
だれも支援する余裕などない状態です。
逆の場合はどうでしょう。
もし、学齢期の子ども全員がひきこもっていないとしたら。
もし、世の中の大人に一人もにーとがいないとしたら。
実際にはそんな世の中は存在しないと思いますが、
それは一つの理想形ではないかと思います。
働きながらも苦しんでいる人もいる。
「こんな人間になったのはお前のせいだ!」と親に向かって叫んでいる人もいる。
生命を授かり、生きている限り、生きることは自然の摂理であると思います。
そしてその生命を守れるのは、最終的には自分自身ではないかと思います。
一時的にひきこもることは、自分の命を守る為に必要な時もあります。それ自体を否定する気は全くありません。
今回の発言をされた方は「一歩前に進む、一歩踏み出すなどの表現にすべきだ。」とおっしゃいました。
さて、一歩を踏み出すということは、今の状態ではいけないという意味とどれほどの違いがあるのか。
今の状態でいいという人の生命を維持する支援するのであれば「脱」は不要ですが、私が接してきたニートと呼ばれる若者はおしなべて「このままでいいとは思っていない。」と言います。
私のスタンスは「今、支えられた分、いつか、支えていこう。」です。
そういう循環であれば、段階ごとに支援の質が違って当たり前。「脱」を欲求として持っている若者は確実に存在している。だから「脱」を支援する。
万人を救えるほど、神のような存在ではありません。
今回のひきこもり支援団体の方にできて私にできないこともあるし、その逆もあるでしょう。
それでいいですよね。
だから、「脱」は今後も使い続けます。
ニート、引きこもり、うつなど、メンタルに関連する問題には、様々な要因があると思いますので、「親に責任があるという言い方は云々」と糾弾するのは違うと思います。
曲がりなりにも「人を支援する」団体の方であれば、相手(講演者)の話を意図をくんで、必ずしも相手を否定するような発言はしないで欲しかったです。