チャリポタ DAITAI WEEKLY

健康の為はじめた自転車が高じて、街や郊外を探訪するようになると、普段は見えていなかった景色が見えてきた。

桶狭間古戦場(1)

2008年01月16日 | Weblog
***修理が完了しました。goo事務局のみなさま、ありがとうございました***


新年の走り初めは、愛知県でポタリングです。久しぶりの史跡散策です。
まだお正月の気分です。 m(__)m

NHKの大河ドラマ「風林火山」も終了しましたが、ドラマの最終回?にドラマの本筋ではないけれどもエピローグ的に語られていた武田信玄と織田信長の戦い、「桶狭間の合戦」に因む史跡をいくつか訪ねることにしました。


愛知県(特に名古屋近辺)は、”車が無いと何処にも行けない”と言われるほどで、静岡と比べて車の量が非常に多い。自転車で走るには十分注意しなければなりません。



=散策コース=

「桶狭間の合戦」前後に係わりのあった場所、大高城、丸根砦、田楽坪(古戦場1)、長福寺、義元塚(古戦場2)、高徳院、沓掛城などを回る。

城址や砦跡、古戦場など多くの場所は、今はもうすっかり住宅地の中だ。そうなれば自転車で回るのが一番。

最初に、大高城址と丸根砦址を訪ねる。両史跡とも住宅に囲まれてあった。急勾配を必死にペダルを漕いで上る。現在は城址公園として整備されていた。城は空堀が回らされた典型的な山城である。

合戦の当時、大高城は2.5kmほど北東にある鳴海城(根古屋城)と共に、今川軍の最前線基地であった。織田軍に囲まれ、孤立していたこの大高城に、松平元康(後の徳川家康)が沓掛城(今日最後の予定地)から敵の目を掻い潜り「兵糧入れ」を行ったと言われている。

次に目と鼻の先にある丸根砦に行く。住宅の路地をくねくねと走る。車では通り過ぎてしまいそうだ。
丸根砦は鳴海城と大高城のルートを分断するように、合戦の前年(1559年)に直ぐ向かいの鷲津砦と共に信長が築いたものだ。
結局桶狭間合戦の時、丸根砦は松平元康(家康)に、そして鷲津砦は朝比奈泰能(一般には泰能とされているが、現在は息子の朝比奈泰朝という説が有力)によって落とされる。

砦は城より規模、兵力も小さい。信長はなぜ大高城の目の前(700m程)に丸根砦を築いたのか、さらには400mほど横に鷲巣砦を・・・

当時の今川の勢力(兵力)から見れば、合戦になればひとたまりもないと思うのだが信長はあえて(と言いたい気持ち)築いたのには、何か奇策でも考えていたのか?(今川義元の軍勢に勝てると思える奇策でも・・)その為の愚策とも思われる行動は、とても「尾張のうつけもの」の行動とは思えないのだ。
・・と、深読みしてしまった。



今日は行くことが出来なかったが、鳴海城(別名=根古屋城)も桶狭間の合戦を語るには欠かせない史跡だ。

合戦当時の城主は岡部丹波守元信だった。鳴海城はまさに今川軍の西の最前線!。
目障りな今川軍を牽制すべく、信長はここにも丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いて鳴海城を包囲したという。(いったい幾つ砦を造るつもりだったのか)

合戦は織田軍の勝利に終わり、大将今川義元は討死、松井宗信はじめ多くの武将を失い、今川方は敗退。松平元康(家康)も大高城を捨てて岡崎城へ引く。

ところが鳴海城の岡部元信だけは一歩も引かなかった。(去年のブログ、青龍山本覚寺の項でも書いたが)孤軍奮闘し、鳴海城だけは落ちなかった為、信長は元信の主君、義元公の首と引き換えに鳴海城を明け渡すことを交渉する。

駿河への帰路、元信は「このまま帰るのは面白くない」と言ったかどうか知らないが、(勲功の無きを潔しとしない為か)帰りがけの駄賃!とばかり、刈谷城を襲撃しこれを焼き払う。
のち、武田軍の駿河侵攻により降伏、武田に仕える。武田は実力のある元信を遠江の高天神城城主に任命する。その後、勢力を伸ばした徳川と武田の争いが続き、高天神城は徳川軍の攻撃を受け、元信は壮絶な最後を遂げる。





 史跡散策ルート(今川軍の侵攻ルートでは無く、私のポタリングルートです。あしからず)

 左から=大高城(今川軍)、 丸根砦(織田軍)
     上にいって鷲津砦(織田軍)、 さらに上が鳴海城(今川軍)


     =後半(2)に続く=