カントールは自らの対角線論法に矛盾した進展を許してしまったのですがな・・。
自然数論においてωを自然数の最終数のように扱う論理は矛盾しておるのですがな。ωとはカントールが対角線論法において仮定してみた「自然数によって実数を数え切った数」に他ならないのですわな。そもそも数ではなく概念ですから、基本的にω=ω+1=・・=and so on.ということに他なりませんし、しかし、まあ、対角線論法の責任取りと言おうか、研究対象としては止むを得なかった存在かもシレマセンわな、そうですのや。それでも彼の信条である「数学は矛盾しなければ自由」に反しておることは確かなように思われます。
今を生きる研究者ともども「矛盾的な数学」とか言っておられますw
ま、カントールが正しかった、数えられるからと言って矛盾した概念を扱ったモノは数学とは言えない、彼はクロネッカーを恨み足らなかった、とは言えると思いますのや、そうですがな。でー、ひとつ対角線論法をおさらいしてみましょーかね、どんなだったかなー。まず「実数は自然数と1対1対応が付く」と仮定するのですわな、で、そこから矛盾を導く、そして背理法で過程を否定させて「見よ、実数集合は自然数集合より真に大である」とやるわけです。そこでは対角線論法によって反例を造るわけですが、それを非可附番数ωとすると超現順序数のアイデアとなるワケですがな。
ま、それは違うだろうとお叱りを受けるのは覚悟の上ですのやw
概念が矛盾的であろうと形式主義の立場から内部矛盾が導かれなければ良いとする数学、その始まりのよーな象徴のよーな数がωですがな。私はカントールが「ωゆえに精神病院へ送られた人」であることを疑っておりませんし、自分としても深入りすることは避けたいと思っておる次第ですのや。対角線論法によって捏造される立場のωですが、ひとつの数ゆえに可算無限ですし、カントールが発案したよーにひとつずつ増やしていくこともデキます。それゆえに超現順序数列はすべて可算無限ですのや、そうですがな。
で、私には秘密がございます・・。
象徴でよければ実数濃度は容易に得ることがデキまして、それは2^ωで表わすことがデキると存じまして、しかし、超現順序数には無い数ですのや、それは。で、超現順序数列には少なくとも見かけ上はそれよりも大きなω^ωが存在デキますので、実数は本当は可算集合であると信じておりますのや。ω^ωを超えて存在していく超現順序数列に2^ωが無いのは不思議なことでして、だから対角線論法が成立してしまうのだと思っておる次第ですがな。このことは「基礎的過ぎる知能の敗北」であると考えておりますのや、そうですがな。
あれやこれやで超現順序数の話は終焉するでしょ?
素粒子論はそうはいかないでしょ、ユニバーサルフロンティア理論がありますのや、そうですがなw
自然数論においてωを自然数の最終数のように扱う論理は矛盾しておるのですがな。ωとはカントールが対角線論法において仮定してみた「自然数によって実数を数え切った数」に他ならないのですわな。そもそも数ではなく概念ですから、基本的にω=ω+1=・・=and so on.ということに他なりませんし、しかし、まあ、対角線論法の責任取りと言おうか、研究対象としては止むを得なかった存在かもシレマセンわな、そうですのや。それでも彼の信条である「数学は矛盾しなければ自由」に反しておることは確かなように思われます。
今を生きる研究者ともども「矛盾的な数学」とか言っておられますw
ま、カントールが正しかった、数えられるからと言って矛盾した概念を扱ったモノは数学とは言えない、彼はクロネッカーを恨み足らなかった、とは言えると思いますのや、そうですがな。でー、ひとつ対角線論法をおさらいしてみましょーかね、どんなだったかなー。まず「実数は自然数と1対1対応が付く」と仮定するのですわな、で、そこから矛盾を導く、そして背理法で過程を否定させて「見よ、実数集合は自然数集合より真に大である」とやるわけです。そこでは対角線論法によって反例を造るわけですが、それを非可附番数ωとすると超現順序数のアイデアとなるワケですがな。
ま、それは違うだろうとお叱りを受けるのは覚悟の上ですのやw
概念が矛盾的であろうと形式主義の立場から内部矛盾が導かれなければ良いとする数学、その始まりのよーな象徴のよーな数がωですがな。私はカントールが「ωゆえに精神病院へ送られた人」であることを疑っておりませんし、自分としても深入りすることは避けたいと思っておる次第ですのや。対角線論法によって捏造される立場のωですが、ひとつの数ゆえに可算無限ですし、カントールが発案したよーにひとつずつ増やしていくこともデキます。それゆえに超現順序数列はすべて可算無限ですのや、そうですがな。
で、私には秘密がございます・・。
象徴でよければ実数濃度は容易に得ることがデキまして、それは2^ωで表わすことがデキると存じまして、しかし、超現順序数には無い数ですのや、それは。で、超現順序数列には少なくとも見かけ上はそれよりも大きなω^ωが存在デキますので、実数は本当は可算集合であると信じておりますのや。ω^ωを超えて存在していく超現順序数列に2^ωが無いのは不思議なことでして、だから対角線論法が成立してしまうのだと思っておる次第ですがな。このことは「基礎的過ぎる知能の敗北」であると考えておりますのや、そうですがな。
あれやこれやで超現順序数の話は終焉するでしょ?
素粒子論はそうはいかないでしょ、ユニバーサルフロンティア理論がありますのや、そうですがなw