ぶたのあな

安定の愚痴率

愚痴袋の緒はきれっぱなし

2011年09月29日 20時27分16秒 | ダメ人間観察記
ダダ漏れ。

モラルハラスメントの特徴読んでたら
加害者の特徴が職BBAにあてはまりすぎてわろた。
今の私の状況もあてはまりすぎてわろた。

今日は職場に貼ってあるメンタル相談窓口のポスター見て、
どういう順序で説明したらいいのかなーとか
最初の一言目は何言ったらいいのかなーとか
考えながら一日やりすごしました。

誰かに相談しても、
また「でもあなたにも原因はあるから」って
責め立てられそうなので誰にも言いたくありません。
もうこれ以上責められたらあとはない精神状態にいるので、
繰り返し批判されたりとか、
もうわかっていることを改めて言われるのは
無理なんだとわかりました。

「きちんと受け止めていない」
っていうけれど、じゃあたとえば
性的虐待を受けた女の人に、
「薄着をしていたあなたにも男性を誘う原因があった。
 そのことをきちんと受け止めて反省すべきよ」
って、言うのだろうか?

いずれはね、いうかもしれないけれど、
それはすぐじゃなくてもいいよね。
そしてもしかしたら、一生言わなくてもいいかもしれないよね。
だからその時期を待ってほしいんですが。ひとまず。

職場はね、流れていってしまうから、
間違いはすぐ正したいという気持ちはわかるのだけれども、
いろんな正し方があるじゃないですか。

で、ほかの人には同じ不満でも
「もー、それじゃダメじゃないですかぁ(肩チョン)」
で済ませることを、
私に言う時だけ私のこれまで体育会系に所属しなかったことや、
あいさつが上手にできなかったこと、
一年目に知らなくて失敗した数々のことなどを
逐一持ち出して叱責しなくてもいいじゃないですか。
そこまで言われて「私が間違ってました、すいません」っていうことは、
もはや「生まれてきてすみません」って謝れと言われているのと
同じ意味にとれるんですが。
つまり今までの私の生き方すべてが間違いで無意味だったってことでしょ?

確かに私は社会性ないし、
上手にコミュニケーションとれる方でないし、
今の仕事向いてないことは自分でもよく感じるけれども、
「私は正義感が強いから、あなたに言う」
ってつまり、自分は何も間違ってない前提じゃないですか。
あなたが正義で、私が悪じゃないですか。
一方的に悪者にされて責め立てられてさぁ、
それ「我慢しろ、教えてもらったあとは笑顔で礼を言え」ってさぁ、
ひどくない?

でね、お好きなのはね、そのあとに
「私の若いころはみんなそうだった。
 誰に聞いても若いころはみんな家に帰ってから泣いてたって言ってる」
ってつなげるの。

それさぁ、嫌だったんじゃないの?
それが楽しかったの?

嫌だったなら、その悪習をわざわざ受け継ぐ必要は
どこにあるのでしょうか?

あとね、「今の若い人は何するかわからないから、言わない」
って黙秘するのも好き。
それってつまり、私のことを「何するかわからないイマドキの若者」
だと思ってるってことでしょ?
もう少し語気を強めて言えば、
私のことをはじめから「犯罪を起こしそうな奴」
って思ってるってことでしょ?

それ言われてさぁ、私が何言えるの?
「すみません」とは言ってみるけどさぁ、
私が謝ることなのか?それは?
「犯罪起こしそうな人間ですみません(笑)」て、
厨二コピペじゃねえんだからさ、
そんなこと言って気持ちがいいはずないじゃないですか。

なんだかんだと「あなたへの愛情」とか「職場への心配り」
みたいな理由を振りかざすけれども、
言ってることをつなげていくと、全部それは
「自分が悪く言われないため」が隠れていることが
よくわかるよ、発言聞いていると。

だって最終的には私とは関係ない人間だし、
職場だって移動していくんだから、
こだわったってしょうがないわけ。
自分の母校でもなし、自分が校長で責任負わされるでもなし。
それをそこまで体面に固執するって、
要するに悪いレッテルが自分にまで及ぶのを
何よりも恐れてるからじゃないんですか?
私にはそうとしか見えないんですが。

私にも悪い面はもちろんあるよ。
でも言い訳させてもらえれば、完全なる甘えだとも自覚するけれども、
まだ私は正面から批判されて、泣かずに過ごせる自信はないよ。
努力はするけど、努力で涙はひっこまないよ。
これがわかってもらえないんだけど、
努力でひっこめられる涙も確かにあるんだけれども、
自分でもわけわからずドワァと出てきて
止まらなくなる種類の涙というのがあって、
それは絶対自分では止められない。

多分、感情爆発した人じゃないとわからないとは思うんだけれども、
悔しいから泣いてるとか、悲しいから泣いてるとかじゃなくて、
ただ止まらなくなっちゃう時があって、
それはもうね、甘えって言われようが何言われようが、
止まらないんです。
「泣くな」って言われるともっとドワァするんです。

ちょうどそのときでっかい地震がきたら止まったりするんかね。
じゃあ今度から私が泣いた時は包丁もって追いかけてみてください、
びっくりして止まるかも。

支えがなくてね、批判を真正面からぶつけられると、
その勢いで崖の下まで落っこちちゃう時があるんです、たやすく。
愛情っていうクッションが敷いてある人は、
ある程度我慢して崖にぎりぎり踏みとどまることが
できるかもしれないんだけれども、
そのクッションがほとんど敷かれていないので。

だから自分と同じくらいのクッション想像して
ぶつかられると、それはもうたやすく転落して
複雑骨折くらいしちゃうんです。

暮らし方も違えば、これまで受けてきた教育もまったく違うから。
なにに耐性が高いかっていうのは、
同じバランスにはならないんだと思うんです。

それで、あなたは感情を表に出して
表情変えたり声色使うのが得意かもしれないけれど、
私は笑ったりすまなそうな顔するのが
ものすごくエネルギーがいるし、
もともとの顔のつくりがぶすっとしているので
平常時でも偉そうに見える仕様なんです。

それでもがんばってしたがって
仕事引き受けて一生懸命好かれようと
私なりの努力はしたんだけどなあ…。
そういう所はまったく見てもらえていなくて、
ただ私の失敗したところとか、
よくない所しか目に入れてもらえないんだなあと思うと、
それはね、
それはそれは悲しいです。

がんばってみたけど。
それは認めてもらえなかった。

なんか、方法が違ったのかな。
私のやってきたことは、誰に対しても
なんの意味ももたなかったのかな。

そんなことはないと信じたいけど、
彼女の「職場のみんなあなたに言いたいことはたくさんある」
っていう言葉が、
彼女の得意の方便だって頭では思っても、
不安を残します。

なんだかなあ。
私がこんなにどこにいっても嫌われる人間だとは、
思っていなかったもので。

うぬぼれだったんだなあ。

今まで、私を好きになってくれて、一緒にいてくれた人は、
とてもとても貴重な人だったんだなあって、思いました。

一生嫌われていく人生だと思うと、
生きるのはつらいよ。

ゆっくり死に向かっているとはいえ、
敵意だけ向けられて生きていくのは。

うまく生きられないなあ


生きるのって、つらいなあ。

また出たーなんでもできる幻想ー!

2011年09月27日 19時36分54秒 | 暗闇・電波思考
もーなんかー
確かに私はあんまり困った顔とかしませんけどぉー
困ってるときは困ってるしー
ひどいこと言われれば悲しいしー
できないことだってたくさんあって、
今できていることだって、
何の努力もなくひょいひょいできるようになったわけじゃありません。

「芸は身をほろぼす」って言われたけど、
なんか最近ほんとに身に沁みますー。

ちょこまかといろんな芸はありますよ、ええ。
少しおうたが歌えるとか、
少しピアノが弾けるとか、
少し絵がかけるとか、
少し文がかけるとか、
少し気転がきくとか、
少しおどけるのが上手とか、
少し勉強ができるとか。

ほんとちょこまかあります。
どれとしてパッとしない程度の、
まじ山月記の李陵的なね、臆病な自尊心くらの芸はある。
否定しない。

でもだからって、決してヒョイヒョイ人生わたってきたわけ
ないじゃないですか。

むしろ、こういう特技をお持ちの方はもれなく
生きるのは難しいからこういう特技をお持ちなのであって。

「なんでもすぐできちゃう人なんだ」
とかね、
「苦労したり挫折したことないでしょ」って
すげーよく言われるし、
言われなくても思われるし、
それで勝手に嫌われてたりするんですけど。

今現在あなた達にそうやって無用に嫌われてる時点で
大きな挫折なんすけどー!っていうね。

勉強できても、絵が多少描けても、なんにもなんねってのは、
私が超よく知ってんですが、
なんかこう、そのあたりよく理解されてないっすよね。

なんか、「勉強できればすべてが安泰」みたいな幻想、ありません?

その幻想の体現者みたいに、あの、少し能力を発揮すると
思われるわけですが、
実際の部分、よく見てー!
あんた私が人生楽しそうに見えるかー!?
なにも悩みなさそうに見えるかー!?
じゃあ一年目あんなに泣いたりしなくて済んだんじゃないのー!?

あのね、私が演技うまかったり、文書くの苦じゃなかったり、
漢字かけたり、おうた歌えたりするのは、
あんたがたがスポーツやらなんやらで汗かいたり
恋や友情で涙を流している間に、
ひたすら本読んで勉強して一人カラオケして、
そうやって同じように時間費やしたから上達しただけであって、
最初から当然のように備え付けられた能力なわけではないよ。
そんなの当たり前じゃないですか。

だから私はわかってるよ、
私がこんなに人付き合いできないのは、
みなさまがそれを学んでいる間もずーっと文法とか数学やってたからであって、
みなさまがそれを私より上手なのもやっぱり、
部活なりサークルなりでたくさん練習したからでしょう。

それと同じなのに。
なぜかわかってもらえない。

まあね、半歩くらい譲ってね、
勝手に嫌われるのはしょうがねーからええやって思うけども、
私をすべての高学歴リア充の代表として
敵視するのはやめていただけます?

私に「何の苦労もなくなんでもできたクソ野郎」という
幻想を抱くのは勝手なんですけれども、
その幻想(妄想)もとにやってもいないことを
勝手に想像して「どうせこういう考え方なんでしょ!」って
怒ってくるの、やめていただけます?

何回言えばあなたにわかるの?
「優秀だからわからないでしょうけど」っていうの、
やめてって言ったよね?
あなた私の話やっぱり何も聞いてなかったでしょ?

なんか体育会系には、勉強で生きてきた人間の言葉は
何も伝わらないんですか?
そんな偏見さえもってしまいそうなほどの
伝わらないっぷり。

私があなたがたの「わからない」らしいのと同じくらい、
あなたがたも私を理解せずに暴言吐かれまくっているわけですが、
それが「優秀だからわからないでしょうけど」に凝縮されているわけですが、
それ、同じ言葉であなたに聞いてさしあげればいいの?

今日あなたが私に聞いたように、
「言われた方はどういう気持ちになると思う?」って?

で、私は「わかりました。」って言った部分もね、
何回も「どういう気持ちになると思う?」って、
お前だんだんそれ言いたいだけやないの、って思ったのも許されるくらい
しつこく同じ言葉繰り返したよ。

そんなもんわかるっつってんの。
嫌な気持ちになるんでしょ。
だから言わない方がいいって、それだけの話でしょ。
で、それに対して謝る必要もないあなたに
「すみませんでした」まで言って、「今度から気を付けます」っつってんだから、
その話はそこで終わりでしょ。
で、次の話をしているのに
「そんなに怒らなくてもいいじゃない」?
いや、え?
なに?
私を怒らせようとしてるのはあなたでしょ?

大体ね、もう出ちゃった言葉ひっこめられないでしょ。
それぐじぐじ何回も穿り返して言って、面白い?
あなた自分がやってることわかってる?
正義のつもりでやってるけど、
単なる私の精神いじめだからね?

「わかった」っつって、もう次は言わないっつってんでしょ。
で、もっかい私が失言したんだったらわかるよ。
してねえし、気を付けるつってから2秒後なわけ。
結果は何も出てねえわけ。
だからそこはもうしばらく信じるしかないでしょ。
信じる時間すらないとかね、じゃあますますいう意味ないわけ。
変わってほしいと思って言うとかね、
あなたのためにとかおっしゃるならね、
少し信じて待てない?それもできない?

それはもうね、言動の数々から
私のためなんぞ思っていらっしゃらないことは
多分あなたよりもよく存じておりますけれども、
おためごかしであったって「あなたを思って」なんて
言葉を使うなら、あなたもそれなりの行動してくださらない?

そうやって行動が伴わずにワァワァ大騒ぎするだけ、
しかも自分が機嫌悪い時だけ、
みたいなムラがあるからね、
単なるわがままにしか見えないわけ。
その一貫性のなさが、あなたの説教が完全なる
自分のイライラのやつあたりだということを証明しているわけ。

その機嫌の良しあしに言うことが左右されるところと、
男と女で同じ行動しても対処が180度違うところと、
「○○さんも同じこと言ってた」と人の威力借りないと
30年下にも文句ひとつ言えないところと、
自分の半世紀前の「常識」を当然のように現代で押し付けてくるところと、
1対1で話せばいいことをいちいち人に広めて集団の圧力使わないと
話せないことと、
言われた方がそのあとどういう気持ちになって、
予定に支障をきたすなど考えてくれないところが
本当に尊敬に値しない。

何よりも一番虫唾が走るのは、
てめぇで戦争しかけておきながら
反撃すると「こんなこと言われちゃったー」って
すぐさま被害者の玉座に鎮座ましますところです。

戦争しかけんならそれなりの覚悟もってこいよ。
反撃されてすぐ引っ込めるような文句なら
最初からいうんじゃねえ。
自分の筋に照らし合わせて間違ってると思ったなら、
そうそう尻尾巻いて逃げるわけがない。
そうじゃないってことは、その程度の、
つまり他人の感情に左右される程度の、
てめぇで処理すべき自分の感情の揺らぎだってこと。

他人の感情の掃き溜めをね、
なんで私が人身御供になって受け止めてやらなきゃいけないわけ?

いいよ?何かしら私にもたらしてくれる人はね、
いくらだって吐きだしてもらっていい。
むしろ、私の人生に輝きを与えてくれる人なら、
苦しんでほしくないから、吐きだしてもらえない方がつらい。

でもお前は私にとってなんの価値もないし、
何ももたらしていないからね?

都合悪くなると仕事押し付けてやらせて、
その時だけ猫なで声で頭さげりゃ自分は立派に
礼儀守ったと思ってらっしゃるけれど、
気持ちがないなら頭なんか下げてもらわなくていいから。
頭下げる気持ちがあったら絶対頼まないような仕事を、
快く引き受けたのは、あんたに気持ちがあったからじゃない。
あんたに使われて頭下げに来た人を助けるためだ。

案の定ね、得意の猫なで声で「あとでお礼に行かせます」っつってね。
いいよ。
そいつは何も礼いう必要はない。
いつも仕事で応えてくれてるし、私にリプライしてくれているから、
そいつを助けるのは何もマイナスじゃないから。

お礼言って土下座すんのはお前だけだよ。
そんなことしたってその傲慢な気持ちは変わらないことは
わかりきってて無駄だから、しなくていいけどね。

とりあえずね、これだけ仕事で助けてやってる相手に、
自分の感情で怒りをぶつけて不愉快にさせ、
ただ自分に同情してくれるってだけで
何も仕事していない人を絶対の味方だと思って
徒党を組んで私を敵にするってね、
どういう思考回路をしているのか本当に疑うね。

でも、いいですよ。
せいぜいそうやってくっついてやってらっしゃれば。
私は仕事をするだけ。
事実を見れば、おのずと結果はわかるから。

あなたの言うとおりになんでもやって差し上げる。
「命令された」という事実がある限り、
明るみに出せば糾弾されるのはそちらなのでね。

小さな共同体の中で被害者の玉座を自分の専用シートにして
ふんぞり帰っていらっしゃい。
そんな玉座は、共同体の外ではなんの意味ももたないのだから。

多くの人に憎悪を向けられたまま、
毎日たくさんの人の心を傷つけて、お生きなさい。
あなたの生きること自体を、そのすべてを私は軽蔑する。



ぷりぷり怒ってしまった。くだらない。
くだらない生き物のためにエネルギーを消費するのが
一番くだらないよ。


私がお客さんと仲よくしてたり、
他の職員に褒められたりした後に
ガンガンに奴の機嫌が下がって呼び出しくらうことが
多い気がするのは考えすぎですかね?

自分のやり方を手本にしろ、みたいな発言がお好きですけれど、
大概そういう人のやり方って参考にならないよね。
いろいろ見た方がいいよ、系を言う人のほうが、
めっちゃ参考になる率が高い。

長年やってきたことは認めるけれど、
こんなド田舎の小さな地域をぐるぐる回ってきた人に
グローバルスタンダードは主張されたくないわ。

彼女に贈る言葉は
「井の中の蛙 大海を知らず」。

小さい世界で、それがすべてだと思って生きてきた人の
おどろおどろしさを体感する毎日です。
まじ、すごいからね!


かかとあれが治らない

2011年09月24日 22時06分41秒 | ダメ人間観察記
はいこんばんわー、ただ生きてるだけの人ですぅ。

この間いたいけな中学生に
「人はなんのために生きるのか?」ってアンケートとったら、
「生きるため」「生まれたから」みたいな
哲人ー!な回答で溢れかえったため、
私がぐじゅぐじゅ言ってるのは
恵まれた世代の傲慢なのかもって思いました。

ついでにここ最近の私の気鬱も
自分で自分のテンションあげられないっつー
しょうもない理由であって、
なんか激しい感情の上下がない平坦な毎日に
疲れ切ってますぅ、みたいな
かまってアピールだったけど、
それも傲慢なんじゃろなっておもいました まる。

幸せなんだろうけど、
ずっと幸せラインで飛んでるから、
あー幸せ、って改めて感じられなくなってるんだよね。
幸福の馴化というか。
同じ刺激には馴れちゃうという生物共通の特徴で。

ちなみにエロマンガによくある
「バイブ入れたまま日常生活」みたいなのも、
馴化で余裕でいける感じになるそうです。
そらまタンポンとか入れて平然としてる女子が
一定数いることを考えればな。
言われてみれば当たり前のことなのにね。
エロを前にするとそういうごく正常な考察にさえ
考えが及ばなくなるんだから、
エロの力ってプラスにもマイナスにも莫大だことがわかりますね。

あれ…こんなこと言うために編集画面開いたんじゃないんだけどな…。

なにが言いたかったのかは得意の五里霧中です。
人は私を頭よい子というので、
私も自分を「頭よい子!!」と奮い立たせて
なんとか空っぽの愛情BOXをティッシュみたいな自己愛で埋めて
生き延びてきましたが、
今日ふと車の中で考えちゃったのよね。

私数学は高校入ってから80点代いったの2回だけなのよね。
実力テストに至っては、無勉強でいったら余裕の29点で、
勉強していっても70点は超えたことなかった。
私の記憶が正しければ、なかった。

選択で3年までとってた生物も、
全く勉強しなくなった後半は60点越えれば御の字だったし、
社会は苦手だった。
どんなに勉強しても、70~80点台が関の山で、
そうそう高得点は出してなかったのよねん。
日本史選択だったけど、特別日本史が好きなわけじゃなかった。実は。
好きな部分だけは嫌にマニアックに覚えているんだけれど、
興味ないところは本気出して興味なくて、
特に文化面のこの時代どういう作品があったとか、
あと輸入輸出のどういう商品が流通してたかみたいなところが、
全くもって興味なかった。
ほんで、点数のびねった。今から振り返ると、普通ぐらいの成績だったと思う。

で、じゃあ私は何が得意なのよと考えてみたら、
英語と国語で優等生の面目を保ってきた気がしたんだけれども、
それすら今やろうとすると、
中学生の英単語すら危ういくらいで、
全然身になってなくてですね、私の学力は。

あ。私ガチモンの詰め込み学習の産廃だ。

と気づいた瞬間の愕然とした気持ちですよ。

今ね、国語の文法もまともにわからない自分がいてね、
大学までいって、総代になって鼻高々してたけど、
じゃあ私が何持ってるかっていったら、何も持ってないのよね。

これはもう何回も言っていることだけれども、
大学の成績は「ちゃんと出席していたで賞」に過ぎないから。
要するに「人生の楽しむべき時間を不意にして机にかじりついていたで賞」だから。
さしたる意味はないと思いました。
むしろ、人並み外れて言われたことしかできないロボット君ということを
思い知らされただけのように、今となっては感じます。

これだからまともに人にも挨拶できなくて、
どこの集落でもつまはじきものにされる割に
仕事だけ次から次へ投げ込まれる、
便利ロボット君みたいになるのもうなずけます。

自分でもそれが心地いいと思っているところ、あるんだろうね。
だからロボット君が「誰も遊んでくれないし、僕と一緒にいてくれない!」って
嘆くのは当たり前っつーか、
はやく自分がロボットだと気づけよベイビーってなもんだったわけです。
ロボット君といるより、人間は人間の友達と一緒にいるのが楽しいです。
いくら計算はやくても、絵が上手でも、仕事できても、
能力は友達を維持する力にはなりません。

社会に出てはじめて、ロボット君は
人間がみんなお勉強してきたものを
何も勉強してこなかったことに気づくのでした…ちゃんちゃん。

なんか勉強してこなかったんだな、ってのは、最近感じるようになった。
当たり前みたいにみんな恋愛して、結婚の話ちらほら出て、
それになんの抵抗もなく受け入れているのに、
こうまで「いかんともしがたい!」って意地はってるのは、私ぐらいで。
なんでこんなに頑固なんすかね?とは自分でも思うところです。

未だに「恋愛沙汰に巻き込まれない俺カッコいい」という中二な部分が、
全くないとは言い切れない。
実際恋は盲目状態になってワァワァやって周りに迷惑かけまくる人などを見ると、
ああはなるまい…とは思ってしまうわけで。
要するにプライドが高いんですね。
カッコ悪いとこ他人に見せたくないんですね。
でも恋愛は恥ずかしいこと見せ合う競技みたいなこと、
どの恋愛教本みても書いてありました。
ウヒャーと思いました。

思えば昔から、漫画描くにしろ小説書くにしろ、
仲よくなった後のイチャイチャ部分はいっくらでも思いつくんだけど、
仲よくなる経過の、あれやこれやの駆け引きとか、
切ないすれ違いとか、そういう過程はまったく書くの苦手だったんです。
それはつまり私自身もその過程はうまく処理できない
からなんじゃないかと思ったんです。

実際ほら、ばーか事件の時も、
さもないことをまるで世界の終りのように、
処理落ち起こして発狂しかかったくらいなので。

恋愛に関しては、私のOSはwin95からアップデートされてない
状態なんだと思います。
まず起動に15分くらいかかるから。
15分かかってやっと画面ついたら、
ウイルススキャンとか勝手にはじめて、
安全確認されるまで2時間ぐらい待たせるから。
ほとんどの人はその2時間でいなくなってしまうんですね。
ただでさえwin95ってだけで誰も見向きもしないのに。

新型モデルってのを、そとみだけでもアピールしてみないと、
まず人は来ませんね。
未だに分厚いブラウン管ボディさらしても。
懐古厨みたいなアレレな人しか寄ってこないのも、道理ですわよ。

このところどこ行っても可愛い人が目についてですね。
ワー腕細いなぁとかかわいいなぁとか思うだに、
もうこんなのいたら隣にうすぼんやりとたってる豚みたいなおばさんは、
まさに路傍の石。池の中の食用ガエル。自然界のトムソンガゼル。
「まあそこにいるよね」って認識はされても、
だから何というわけですよ。
そら池に蓮の花がさいてればね、見る人は目をとめて
「あらきれい」とか「家に持って帰りたい」とか思うわけですが、
池にカエルがいんのはな。そらあな。
命を営みますよね、そりゃあカエルも生きてるもんね。
っていう認識なんだとすごく思います。

土俵にもあがってない感が半端ない。
で、まあ私の認識による土俵にあがっている人々
(自分が恋愛範囲に入れられる範囲の人ともいう)から
カエル扱いなので、よっしゃステルス状態ー!つって、
呑気にゲコゲコやってっと、
たまにカエルマニアの変態さんにつかまったりしてですね、
ギョギョギョーッ!?っつってさらに泥の奥深くに
逃げ込みたくなるんです。
つうか既にだいぶ沼の奥底まで潜ってる状態なんだと思う、今。
むしろ見つけるな、みたいになっているので。
だからやたらに女子扱いに敵意向けたりすんのな。

でも悲しいことに、
世の中の男性には、「女扱いしない生物種女」は
どう扱っていいのかわからず、とりあえずなかったことにする、
みたいな種族が一定数いてですね。
あの、まったく問題なくそこらのおっさん扱いしてくれればいいものを、
女扱い拒否すると即・敵とみなして来たりするもので。
それがもー、まー、やりづらいやりづらい。
えてして上記のような人は自称女好きとかね、
自称女の子の気持ちがわかるみたいな人なんすけど、
残念ながら女の大多数は女じゃないっつうか、
あなたがわかったつもりの女の子は
女の間でも偶像ですっていうか。
そのへんの誤解をとけずに、いまだに悩んでいます、秋。

で、とりあえず私も無用に敵意向けられるのもめんどくさいので、
余裕があれば女のふりしたり、
なければ敵として相手の望むように悪役してあげたり
するわけですが、
あんまり精神がタフではないのでね、
長く戦うのとか向かないのね。
そんで別にこっちは敵意ないしさー。

勘違いされやすいのは、
攻撃されない限り私は反撃しないのだけれど、
たまに攻撃してきた人に反撃している場面を見ただけで、
私を好戦的アマゾネス軍団のボスみたいに見る人が多くて。

用もない人に攻撃したりしませんよ。
ただヘテロセクシズム信仰にどっぷりつかってたり、
ホモソーシャルからくるミソジニーを
常識として押し付けてくるっていうのが
私に対する攻撃にあたるから、
敵がやや多いというだけで。

それだって、押し付けてこなければ反撃しませんよ。
勝手に生きて繁殖していてくれればいいので。

「見えない敵と戦っている」っていうけどさー、
それも一理あるわけで、
見える敵と戦っているならそらもうすぐ終わるわけですよ、戦争は。
でも見えない敵と確かに戦っているからさ。
「見えない」から「存在しない」わけでもないわけですよ。
つまり、見えないものと戦っているからって、
それが無駄だと笑うような人とはね、私血を見ずにいられないからね。

むしろ見えるものにしか気が回らない生き方のほうが
むなしいと思いませんか?
人間の可視領域がどれだけ狭いかっていうのを知覚していないほうが?

無知なほうが幸せっていうこともあるけどね。
広く見えるということは、それだけ行き届かない部分も見えるということで。
つまり神経質な人のほうが疲れやすいっつうことです。
気が利く人のほうが、飲み会では気づかれするっつうことです。

そういう意味では、無知で気が利かないDQNほど
世界は平和なのよな。
見える世界の、恋人が浮気したとかしないとかで、
自分の世界が始まるか終わるか決められるんだから。

物事は、あまりマクロに考えすぎると収拾つかなくなるからね。
ミクロな世界で、枠組みを作って、
その外側は意識的に遮断するようにしていないと、
入ってくる情報が膨大すぎてぶっ壊れちゃうよね。
よっぽどハイスペックじゃないとね。


で、最初の方の話に戻るけど、
私はそんなにハイスペックじゃなかったんですよ。
思い返してみると。
むしろやや頭弱いほうなんじゃないかと最近思うの。
何も覚えていられないし、
尋常でないくらいいい加減なの、なにもかもが。

だから自分に入ってくる情報量すら制限できなくて、
こんなにピィピィ言ってるのかもしれない。

開かないバルブよりは、
開くバルブがいいと思って開いたけれど、
閉じられなくて蛇口吹っ飛ぶくらいなら、
開けずにいた方が幸せだったのかもしれないね。

感覚遮断された三日間がすごく欲しいんです、だから。
バルブ自分で閉じられなくて。

また今日がおわるね

2011年09月24日 15時36分47秒 | テレビとか
ちょっと今日ー、終わるのはやくねー?
つか、休みの日が終わるの、はやくねー?

三連休は既にして出勤により1.5連休(それ連休言わない)
にされているというのに、
まともな消費行動すらとれず、
いたずらに食物を脂肪に変換してウンコを作るという作業で
毎日を過ごすわたくしですこんにちは。

今日はやや心が落ち着いていたので
人と遊びに行きたいなど考えたのですが
誰を誘えば楽しく過ごせるのか
私に人を誘う元気があるのか
など逡巡しながらときメモGS2をやりながら
たろちんのエストポリス動画に爆笑していたら
今日という日も一歩も外に出ることなく
無事終わりにしてしまおうと時間さまはしていらっしゃる。

「なんか楽しく過ごしたい」とは思うけれど、
自分がなにすれば楽しいのかはよくわからないし、
ちょっと体を動かせば疲れちゃうし、
かといって動かずにいるとすぐ尻とか腰とか痛くなるしで、
もう生きるのが苦行といった様態を呈してまいりました。

絵を描いてもうまくかけない自分にイライラするだけで、
即時楽しいという感覚を得られる行動コマンドがないわけですね。
「楽しい」という感情もストレスになる、って大昔
なにかのテレビ番組で見てほおー、と思った記憶があるのですが、
まさしく、
疲れることなく楽しめるものなんぞ世の中にはござらんし、
最近では肉体の衰えと共に
得られる「楽しい」よりもそれに伴う避けがたいストレス値が
常に上回っていて、
なにをしようと「はあ疲れた」という感想ぐらいしかわかない私には
それは友達からの誘いがこないのも自明の理ってなもんで、
そもそも私に友達はほんとにいたのか。
など根源的な疑問にまで立ち戻るくらいには暇です。
たろちん動画はやっぱりくそ面白いのでよいです。

服を着るともれなくきついので
服着るのがもう嫌いだし、
外に出ればもれなく痛い目に合うので外に出るのが嫌いだし、
人と話せばもれなく悲しくなるので会話するのも嫌いです。
ここんとこはな。

脳がうまく回らなくて、
人が何を言っているのか
まず第一に聞き取れないし、聞き取れても理解にものすごく時間がかかって、
さらにその理解に対する発言をする前に、
会話の可能タイミングは過ぎてしまって、
「無視した」みたいになって終わってしまうんです。

特に若い世代の子はやっぱり早いよね、
いろんなタイミングが。はやい。
3秒答えがなければ「無視した」って傷ついて見せる傲慢さは、
でも本当に傷ついているし、3秒置きの返答がないと怖いくらい
沈黙に慣れていないんだろう。

3秒なんかね、「え?」つって聞き返す間に終わるからね。

時間なげえなあ、とは私もよく感じるけれど、
でもそのタイミング逃すと
もう次いくのにすんごいエネルギーがいるよね、今の世の中ってね。
情報の流れがはやいっつーか、
いろんなものがはやいよね。すごくはやい。

音楽聞いていないといられないデジタル世代の人は、
音のない田舎の山寺で修行したりするのに
魅力感じないのかな。

もう疲れちゃうんだが。このおばさんは。
ちょっと都会に行くだけで人の多さに疲れちゃうし、
音がいっぱい鳴ってるのにもすぐ疲れてしまう。
何も音がしない、なんの気配もないところで
3日ぐらいボーッとしてたいと思う。
どこ行っても人間の気配がすることに疲れるんでしょうな。


誰にも会わない家、誰にも呼ばれない時間、
誰にもばれない秘密の空間。
そういうのが超ほしいんですね私はね。

暇と焦燥感がどうしようもなくキモチワルイ物体として
私の中に渦巻いて、喉まで詰まっている。
私がこんなに休日うんざりするのは、
休めていない自分を知っているからだと思う。
ずっと気にしてる。
休みになっても、考えるのはあと何時間休みが残っているかとか、
月曜日までにやらなきゃいけない仕事とか。
今を生きられないからこんなに喉が詰まるんだと思います。
「次なにしよっかな」って考えられないから。
「やらなくちゃ」に全部埋もれる一日だから
こんなに苦しいんだろう。
楽しいことしててもストレス値が大きいんだろうね。

とりあえず今日私は無理やり履いた短パンがきつくて
イライラしてます。
ゆるゆるゴムスカートになるか。

デンデラ 感想

2011年09月18日 21時15分46秒 | テレビとか
デンデラ見てきましたー。
最後のカユの「どっちが勝ちだ?」が、
見終わった後はすんごいもやっとして、
なんか消化不良な感じだったんですが、
帰りの車中で母に「どんな映画だった?」と言われて
説明してたらなんとなく自分なりの解釈が見えてきた。

最後に雌熊は、雄を読んで、
カユに「また子供を産むのか」と言っていた。
だから、雌熊は新世代の象徴。

それに対して、デンデラに集まる婆たちは、
自ら「クモの巣が張ってる」と自嘲するように、
出産能力をなくした女だけの集団。

もともとは、若い世代=出産能力のある、男女のある世界
から、出産能力を失くしたとして捨てられた
女だけの集団が、
若い世代に復讐しようとしていた時に、
デンデラを襲った雌熊。

「歳をとるのは罪か。年寄りは罪なのか。」と言っていた
長老のメイ。

この作品がただ単に老人対若者を描いているなら、
デンデラは老人の村でよかった。
でもメイは男をデンデラに迎えなかった。

それは、自分(出産能力をなくした女)を排斥したのが、
「男」が作り出したシステムだと考えていたから。
年老いて山に捨てられ、同じ立場にたったかに見えても、
自分を山に捨てるシステムの担い手であった男は、
デンデラには迎えなかったのではないかと思う。

「女」としての機能をなくすと、ゴミのように捨てられること。
それは逆に言えば、カユたちのもといた村では、
「女」はただ「女」であることのみが存在理由のように見える。
だからこの作品を、男の構築する社会=言語に支配されたシステム社会
から排除された社会的弱者を、
クローズアップでとらえた作品として見ることもできると思う。

捨てられた婆は、社会の求める能力を失ってしまった社会的弱者の姿と重なる。
けれどもその「社会」自体が疑わしいものとして、
メイの言葉はゆさぶりをかける。

もといた村という「社会」の常識
「お山で死ねば極楽浄土にいける」という信仰に縛られていたカユに、
まず「社会」を間違いだとするメイがぶつかる。
メイの復讐は、自分を排斥した社会を壊すこと。
でもこれは、自分が十分に社会を憎むことを生きる糧としていることで、
逆にメイのもといた社会への強い執着を浮き彫りにする。

それに対して、自分たちがデンデラという新しい社会を
見事に作り出し、平和を維持することが
一番の復讐になるというマサリ。
でもこのマサリの案は、デンデラが常に「死にゆく社会」だということを
自覚している。
デンデラに来るものは、みな出産能力はもたないから、
デンデラを維持するということは、
「捨てられる婆」を生み出すシステムをそのまま容認することにもなる。

自らを排斥した「社会」に立ち向かうか、
弱者としてコミュニティを作ることで息をひそめて
システムのもとに命を全うすることを選ぶのか。

この二つの信念は、両方とも
熊・雪崩という自然災害によって否定される。
2人に共通していたのは、共に命の最後の瞬間まで
少女のように信念を曲げず、デンデラという組織の
継続を願い、貫きとおしたこと。

熊を前にして、あるいは雪崩を前にして、
メイやマサリに従ってきただけの婆たちは、
恐怖をあらわにするものが大半だった。
勿論メイやマサリも怯えはあったけれども、
最後の瞬間は二人とも両手を広げ、決然と相手を睨みつけるポーズだった。
背中を見せて殺されたのは、逃げ出したものだけだ。
メイも、マサリも、個人として殺されたのではなく、
「デンデラ」を背負うものとして死んだ。

自然に対してメイの正義は破れ、
子供の復讐にやってきた熊にマサリの正義は破れたけれども、
デンデラは存続した。

社会的弱者の婆だけで作ったデンデラが、
やはり自然の摂理(雪崩、ひいては老衰の象徴?)や
新世代の掟(熊、老婆の生を自らの生によって脅かすもの)に
完膚なきまでに叩き潰されてしまいました、悲劇、という終わり方
だったら、わかりやすかっただろうけれど、
現実を映せなかったと思う。

老衰しようと、社会(多数派)からの糾弾に合おうと、
デンデラは衰退しながら、生き延びてしまっていた。
放心したような、最後の生き残りの数人の老婆の顔。
社会の中でこれ以上ない挫折を経験して、大きな傷を負っても、
生き延びてしまう、体、命。
そういう命の残酷さが、ものすごく痛烈に感じられた。

カユは、新天地を探す。
友人の仇である熊を殺すことを約束して。
「正しいと思うことをすればいい」という友人の言葉に従って。
カユの「正しいこと」は、仲間を殺した熊を殺すこと。
そしてそれは、熊にとってカユを殺す理由と同じこと。
子供を奪われた熊、仲間を殺されたカユ、
対峙した二人は、対照的なように見えたけれど、
逃げ出したカユを追って村にたどりついた熊は、
カユを飛びこえて男を殺した。
つまり熊にとってカユはなんの関係のない男と
同列にしか見えていなかったということだ。

熊の道理は、子供を殺されたから、
次の子供を産むためにもっとたくさんの人の肉を食う。
というシンプルなもので、復讐なんていう人間的な感情はなかった。
ただ次の世代に命をつなぐために、「必要なこと」をし続けただけだ。

そしてそれは、姥捨て山のシステムにも重なる。
村は貧しい、子供が生まれる、食い扶持をえるために
「必要なこと」として婆を山に捨てる・・・。

最後のシーンの背後で、一発だけ銃声が聞こえる。
つまり、村には熊を殺すだけの戦力がある。
カユにむかって熊が駆け寄る途中での暗転、
カユは殺されたかもしれないが、
熊も殺されたかもしれない。
あるいは、熊が村人をすべて食い殺して、村自体がなくなったかもしれない。

でも、デンデラは存続しているのだ。
そこがすごく暗示的だと思う。
一つの事件、一人の人間、一つの対立。
そうしたものが一瞬、社会のシステムのゆがみを鮮やかに描き出しても、
水面に落とされた波紋は広がって広がって、
やがてもとの揺らぎのない水面に戻る。
デンデラは続く。デンデラを作り出す社会も続いていく。

「私は斎藤カユ。今年、70歳になった。」という
カユのモノローグで終わる映画。
「70歳」は、お山に入る約束の歳。
つまり、「越境せざるを得ない状況」をあらわす境目だ。

今いる社会の制度の中で、ある境を超えてしまえば、
いやおうなく「外側の世界」に押し出されてしまうこと。
その恐怖をデンデラという映画は示してくれているように思う。

社会の外側に押し出されたものは、
内側にいた時のように、美しさを称賛されたり、
求められることは少なくなる。
メイが、川原で魚の骨で髪を梳こうとし、涙を流すシーン。
外側に排斥されたものは、自分の「醜さ」に
苦しまずにはいられない。
でも、その「醜さ」は内側の人間が押し付けた価値観だ。
デンデラの中の老婆は、「ここにいる人間は、みんな同じ」と笑った。
足が満足に動かない、目が見えない、老化が激しい、
そういう条件に、誰も拒否反応を示さない。
デンデラという集団が、非常に均一性の高い個によって
結成されているからだろう。

そう、文明化された社会では、
「男」や「女」が生まれ、「老」と「若」が生まれ、
格差が生まれる。

その多数派システムから逃れ、差別のない原始社会を作るためには、
デンデラのように似た個体による集団づくりしかない。
けれども、その集団は生産能力がない。

多数派、ヘテロセクシズム、社会を動かしている暗黙の了解、
これらのものからあぶれた者の生き方を問うのが、デンデラだ。

社会にはむかうのか、
社会の影となって生きるのか、
その二つが否定され、新天地を求めたカユも
結局は熊から逃げ、村に戻ってきた。
村という社会の周辺でぐるぐる廻っているだけの世界。

けれどもカユが新天地をめざすきっかけとなった言葉に、
希望が託されている。
お山のさらに向こうは、男ども立ち寄らない。
デンデラがあったように、さらに向こうには「もっといい場所があるかもしれない。」
とカユは言った。

この一言が、中心周縁理論をすごく思い出させる。
村という小さな多数派からはみ出してカユたちは「周縁者」になった。
しかし「周縁者」は、完全に外側に出ることによって、
同時に「別の集団の内側」に参入することを意味している。

自分が元いた「内側」である村に拘泥している限り、
デンデラは村の「周縁」でしかない。
村とのつながりを断った、まったく新しい生を生きることによって、
「外側」の世界にはじめて出ることができる。

こういうのは簡単だけれども、
デンデラのいいところは、それをきちんと「困難なもの」として
終わらせたところだと思います。

外側出ようったって、
周縁者にされた時点で社会的弱者扱いを受けていて、
とてもダメージ過多な状態にあること。
それが「老婆」を使うことによって非常にわかりやすく示されている。

老と若だけではなく、男と女、社会と生命、
理性と感情。
そういう「制御できるもの」と「制御できないもの」の対立が、
非常に現実的に描かれていた。
とても感慨深い作品でした。

大概、こういう、「でも生きちゃうよ体は」
みたいな現実界をチラ見せしてくるものは、
それはもう簡単に私のような理性ガチガチ人間を
不安定にさせることがお上手です。

信念で死ねると、疑いなくいきたい。
心が死んだ時、命も終わると、信じていきたい。

「でも生きちゃうよ体は」

っていうのが、最近すごく悔しい悔しい!って
世界に対して思っていたことだったので、
なんか、同じように生きちゃう体に絶望している人が
いるんだなって感じられて有意義でした。今回の観賞は。

でも生きちゃうし、生きたがっちゃうだよね。悔しいけどね。
きれいになんか死ねないし、
きれいになんか生きられないんだろう。

それでも、メイとマサリの最後は、美しかったと思う。
醜く見えても、「意気地なし」と呼ばれても、
自分の正しいと思うことを貫いた二人は、本当に美しかった。