ぶたのあな

安定の愚痴率

うまくまとまるかわからんけれども。

2011年09月04日 20時55分31秒 | 喪女っとがんばる道
えーと、まずは私が周囲の関心を惹きたいがために
すぐ「家庭の不幸」話を持ち出すのは、
私自身が自立できていなくて、家族に自らの性格の悪さの罪を押し付けることによって
十分に私はまだ娘であり、父親(家庭)に所有された
罪なき存在だと言い逃れしたいがための言い訳にすぎないことを、
斎藤環神の本を読んでいてそこはかとなく悟ったので、
悟ったことだけお知らせしておきます。
やらないとは言えないのは、私の誇大自己を引き起こす自己愛が
あまりにも強くて強くて強すぎて自分でも御しがたいくらい
私の形成要因となってしまっているためです。
おお、ここでもすぐ外部に責任を負わせようとする。
正しくは、自分で自分を改善する気がないからです。←


昨日途中で寝落ちしてしまったFBIのドキュメンタリ番組で、
「凶悪犯に共通する特徴は、『自分を特別な存在だ』という態度を崩さないこと」
とナレーションが言った瞬間に、
チラッと私を見た母の視線が忘れられません。
凶悪犯罪起こさないように日々自家発電して生きていきます。
凶悪犯罪起こさないかわりにギリシャ神話のオナン二世をめざします。
デブスよ、神話になれ。

で、今日、あまりにもやる気がなかったことを分析いたしますと、
生きてる意味不明タイム、衝動的奇声、過剰三大欲求といった
おなじみのパターンから、閣下の足音をきく夜長となりました。
お迎えのベッドメイクだけしておいた。
夜半に突然襲われても、これで安心でしてよ。

しかし閣下末恐ろしいなと思うのは、
この到来前の前触れで人間を本能むき出しの動物にしてしまうところだと思いました。

過去のわたくしの犯した過ち未遂事件を思い起こしても、
共通する条件は「非常に落ち込み、なにもかもどうでもよい精神状態」
と「理性の後退による三大欲求の過剰」、
俗にいう「酒飲んでべろべろ状態」だったわけですが、
この過ちを呼び込む条件を、月一で強制的に授けられるとは、
とんだ災難としか言いようがありませんな。

まああの、過去の過ち未遂に関しましては、
さっきトイレでパンツおろしながら思いおこしてみると、
某友人と違い私の場合は若干自ら
いけいけどんどん的言動をとった憶えが残念ながらあるので、
完全に相手側に責任があると言えないところが
私の人生の本当に救いがないところです。

まだね!
完全に「相手が勝手に盛ってきた」と言える状況ならね!
被害者ぶったりもできたかとは思うんですがね!
100%拒否していたかと言われますとね!
そうではない記憶がちらほらとね!

・・・だからやっぱり生きてる意味不明タイムはよくないっす。
自暴自棄になって後からうわああってなる記憶しか増やせたものはないよ。

頭がぼーっとなって、
はあもうなんでも好きにしてくれー、
みたいな態度を3日間くらいとってしまうので、
その時期にちょうど重大な決断を迫られたりするとですね、
あのー非常に後から困る事態が起こるというか。

今思い出したけど、隅田川の夜も閣下到来カウントダウンの時期だわww
どんだけ威力あるんだ閣下はww

常日頃から言語で作り上げられる理想の「女」
に敵愾心むき出しで顔真っ赤の私が、
身体的に否定しきれない部分があるところが
非常に遺憾な部分であります。
そうでない人の方が多いってのにね。

さっきちょっと考えたのは、
「体脂肪率と性欲は比例するのではないか?」という仮説で、
ほらよく「食欲と性欲の強さは比例する」みたいなことは
言われているので、あながち的外れでもないんじゃないかと。

と、すると、私の半分くらいは性欲が占めてるわけで、
普段は誰よりも強い理性の支配で軍隊国家をしいている私の国は、
理性閣下が弱体化した瞬間に欲望の王国になることも自明な理屈が成り立つわけで。

……私は何を必死に弁護しているんだろう。


今、風呂で『「性愛」格差論』の最初の方だけちょろんと読んでみて、
酒井順子さんが「でも、本当はおたくの女性も男性との関係を求めているわけで、
やおいで心から満足しているわけではないですよね。」という発言をしていて、
すごくモヤッとしたんです。

上記のとおり、私がじゃあ完全に男性との関係を求めていないかと言われると、
べろべろ状態では積極的にいってるようなので(←)、
否定はしきれないんですが。
じゃあ「やおいで心から満足しているわけではない」かと言われると、
それは違う気がして。

やおいで満たされないから、現実の男性を求めるなら、
現実の男性と付き合えば満たされるかといったら、
そこは違うような気が、とりあえず今の段階ではします。

なんか、やおいで満たしている部分は既に
やおい専門のルームになっていて、
そこは現実の男というもので満たされる場所ではないような気がする。
食べ物を入れる胃袋に、いくら高価な宝石でも、入れて満たされることはないというか。
属性が違う。と、反論したくなった気持ちがあって、
でもなんかそのへんをうまく説明しきれなくて、ですね。

こういうことを書くから私は世の性別男の8割くらいから嫌われることはわかっているんですが、
男おたくは、おたく回路と現実の女性回路が同じ部分使っているように感じるんです。
要するに「彼女ができたからおたくは卒業できた」みたいな発言は、
男の人の方がよくきく。
逆に、女おたくで「彼氏ができたからおたくからは足を洗う」というのは、
微妙に男おたくのその発言とは質が違う気がします。

男おたくの上記の発言は、
彼女ができて、おたく活動で満たしていた部分が彼女で互換されたので、
おたくは「必要なくなった」という意味で使われるのに対し、
女おたくの発言は、
おたくのままでいると「彼氏から嫌われるから」、
おたくを辞めざるをえなくなった、
という意味で使われているように思われます。

で、私がBLを語る際にいつも一番強調するのは、
「BLは男女恋愛の下位互換ではない」という点で、
つまり男女恋愛に自信がないから「劣等の」同性愛で
モエモエハァハァしている、という論理の除外です。

どうも男性原理の強い保守的な論者には、
「受側に感情移入しておかされる想像にモエてるんでしょ?」と
わかりやすくまとめたがる人が多いけれども、
それならハーレクインでいいんです。
単なるエロなら、AV見た方が多彩だしジャンルも多いし市場も大きいんです。

「BL世界は、攻-受の上下関係が絶対的で、韓流と通じるものがある」とか言い出す
人とはもー口もききたくないぐらい怒りがわくんです。
ただ、そのような構図で楽しんでいる腐女子も一定数いて、
内部からも「私たち腐女子は、そのように楽しんでいる」という
声の大きい輩もいるわけで、
この誤解はなかなか解消されないわけですが。

要するに私の愛しているものが、「揺らがない関係」の反対を
示す部分だから言語で構築された主体への説明がうまくいかないのかな、と
最近は思います。
卒論書いたころはまだ、この部分が言語で説明できると自信をもっていたけれど。

つまり、ねじれたメッセージと同じだと思うんす。
親子の愛情授受の場で、
顔や態度(非言語メッセージ)は怒っていながら「絶対見捨てない」というのと、
「もうおまえは見捨てる」と言いながら抱きしめるのとでは、
後者の方が子供は愛情を受けたと感じるそうです。
さらに、言語メッセージと非言語メッセージが同じベクトルを
向いているのと、言語メッセージが非言語メッセージと逆のねじれを
起こしている場合では、後者のほうが強く印象づけられるらしい。

ということを考えるとですね、
BLで描かれる刹那的な関係やら、ゲイ世界の実態に近い一定しない間柄は、
作品全体から「永遠の愛」を訴える少女漫画よりも、
はるかに強く「永遠の絆」を私たちに感じさせ、刻み込むのではないでしょうか。

別れを描くから、その先が信じられる。
「結ばれたところで終わる」少女漫画は肯定ー肯定のメッセージ。
「愛は永遠です。ほら、このとおり二人はくっつきました」とまっすぐにメッセージを
送る、夢と理想化の世界。だから現実とのリンクが希薄で、
まさしく夢のような、実現しえない美しさと儚さが人をひきつける。
その一方で少女漫画は、条件づけられた理想の愛によって、
「もしも」の仮定ひとつで破綻を予感させてしまう。
「もしも」少女が処女性を失っても、彼は愛してくれるのか?
「もしも」彼の前に美女があらわれた時、彼は揺らがずにいてくれるのか?
その可能性の先は、信じなくては続けられない。

でも、BL作品で攻-受関係を固定しないものには、流動性がある。
つまり、否定-肯定のメッセージ。
「相手はお前だけじゃない(=女との関係も続いていく)」と
言いながら、結局は2人の関係を続けるという
言語メッセージと非言語メッセージのねじれが、
「もしも」の仮定を含みこんだうえで、
読者に安心感を与えてくれる。
BLのカップルは、たとえほかに相手がいようと、
どちらかが先に死のうと、二人ともが消えようと、
その二人の関係は変わることはないよ、というメッセージを
送ることができる。

それがBLの一番おいしいところであって、
つまり攻-受関係が固着してしまって、
関係性のパターンも固着してしまったら、
それは少女漫画の手法になってしまうわけで、
なんの新しみもないわけです。

とかく男性論者は帰納がお好き。
数々の作品から構造を抜き出して、ほら同じパターンだ、
お前たちは同じパターンに萌えているだけだ、
と言ってみせることで、すべての精神を理解したかのようにふるまう。
でもBLの面白さはむしろ、
パターンからの演繹によって生まれる、
関係性の十人十色っぷりにあると思う。

同じパターン(たとえば「王子×従者」など)を何度も多くの人が
使用するのだけれど、
お決まりのストーリー展開やセリフ回しもあるのだけれど、
その中で変わっていく部分を楽しむ、ということ。

つまり、同じ芝居を全く違うキャストで演じれば、
まったく別物の芝居になる、という現象を、
「BLはパターン化している」とか言っちゃう論者は、
完全に感じ取れない自らの完成の貧困さを露呈しているわけです。

確かに少年漫画や青年漫画は、新しいストーリー展開を、
新しいキャラクターを、意外性を求める部分が大きいように思う。
そして、その中のキャラクターがパターン化する。
ヒロインは元気で活発な幼馴染の女の子、
みたいなパターン化。
そして、ストーリー展開の妙を競い合う、みたいなところが多い。
その論理で考えると、BLのストーリー展開は、
他とまったく違う、新しい、という感覚を与えるものは
少数派になりますね、確かにね。

でも、BL世界がまったく終息に向かわず、
むしろ拡大を続けているのは、
男性漫画にはできない、
「同じ筋書きを別のキャストでやることによる微細な違い」を
大きくクローズアップして何度も使うことができるから。
そして、名作と言われる芝居がキャストを変えながら
何年も愛され続けるように、
人のパターンの数だけ同じ筋書きは読み直され、
一つの作品として成立できるBLに、
「ネタが尽きる」、「限界が生まれる」ということはない。

そこがエッセイ漫画とBLの共通点でもあるように思います。



あれ?
酒飲んでくだまいて寝るつもりで書き始めた記事が
いつの間にかこんなことに…。
酒飲むと語りだすたち悪いタイプの人間が私だということを、
うっかり忘れていたようです。
誰とも会話しないからちぃとも気づかなかったけど、
意外と酒はまわっていたのね。

明日も出勤で超絶気がめいるけども、
ばんばります。