ぶたのあな

安定の愚痴率

デンデラ 感想

2011年09月18日 21時15分46秒 | テレビとか
デンデラ見てきましたー。
最後のカユの「どっちが勝ちだ?」が、
見終わった後はすんごいもやっとして、
なんか消化不良な感じだったんですが、
帰りの車中で母に「どんな映画だった?」と言われて
説明してたらなんとなく自分なりの解釈が見えてきた。

最後に雌熊は、雄を読んで、
カユに「また子供を産むのか」と言っていた。
だから、雌熊は新世代の象徴。

それに対して、デンデラに集まる婆たちは、
自ら「クモの巣が張ってる」と自嘲するように、
出産能力をなくした女だけの集団。

もともとは、若い世代=出産能力のある、男女のある世界
から、出産能力を失くしたとして捨てられた
女だけの集団が、
若い世代に復讐しようとしていた時に、
デンデラを襲った雌熊。

「歳をとるのは罪か。年寄りは罪なのか。」と言っていた
長老のメイ。

この作品がただ単に老人対若者を描いているなら、
デンデラは老人の村でよかった。
でもメイは男をデンデラに迎えなかった。

それは、自分(出産能力をなくした女)を排斥したのが、
「男」が作り出したシステムだと考えていたから。
年老いて山に捨てられ、同じ立場にたったかに見えても、
自分を山に捨てるシステムの担い手であった男は、
デンデラには迎えなかったのではないかと思う。

「女」としての機能をなくすと、ゴミのように捨てられること。
それは逆に言えば、カユたちのもといた村では、
「女」はただ「女」であることのみが存在理由のように見える。
だからこの作品を、男の構築する社会=言語に支配されたシステム社会
から排除された社会的弱者を、
クローズアップでとらえた作品として見ることもできると思う。

捨てられた婆は、社会の求める能力を失ってしまった社会的弱者の姿と重なる。
けれどもその「社会」自体が疑わしいものとして、
メイの言葉はゆさぶりをかける。

もといた村という「社会」の常識
「お山で死ねば極楽浄土にいける」という信仰に縛られていたカユに、
まず「社会」を間違いだとするメイがぶつかる。
メイの復讐は、自分を排斥した社会を壊すこと。
でもこれは、自分が十分に社会を憎むことを生きる糧としていることで、
逆にメイのもといた社会への強い執着を浮き彫りにする。

それに対して、自分たちがデンデラという新しい社会を
見事に作り出し、平和を維持することが
一番の復讐になるというマサリ。
でもこのマサリの案は、デンデラが常に「死にゆく社会」だということを
自覚している。
デンデラに来るものは、みな出産能力はもたないから、
デンデラを維持するということは、
「捨てられる婆」を生み出すシステムをそのまま容認することにもなる。

自らを排斥した「社会」に立ち向かうか、
弱者としてコミュニティを作ることで息をひそめて
システムのもとに命を全うすることを選ぶのか。

この二つの信念は、両方とも
熊・雪崩という自然災害によって否定される。
2人に共通していたのは、共に命の最後の瞬間まで
少女のように信念を曲げず、デンデラという組織の
継続を願い、貫きとおしたこと。

熊を前にして、あるいは雪崩を前にして、
メイやマサリに従ってきただけの婆たちは、
恐怖をあらわにするものが大半だった。
勿論メイやマサリも怯えはあったけれども、
最後の瞬間は二人とも両手を広げ、決然と相手を睨みつけるポーズだった。
背中を見せて殺されたのは、逃げ出したものだけだ。
メイも、マサリも、個人として殺されたのではなく、
「デンデラ」を背負うものとして死んだ。

自然に対してメイの正義は破れ、
子供の復讐にやってきた熊にマサリの正義は破れたけれども、
デンデラは存続した。

社会的弱者の婆だけで作ったデンデラが、
やはり自然の摂理(雪崩、ひいては老衰の象徴?)や
新世代の掟(熊、老婆の生を自らの生によって脅かすもの)に
完膚なきまでに叩き潰されてしまいました、悲劇、という終わり方
だったら、わかりやすかっただろうけれど、
現実を映せなかったと思う。

老衰しようと、社会(多数派)からの糾弾に合おうと、
デンデラは衰退しながら、生き延びてしまっていた。
放心したような、最後の生き残りの数人の老婆の顔。
社会の中でこれ以上ない挫折を経験して、大きな傷を負っても、
生き延びてしまう、体、命。
そういう命の残酷さが、ものすごく痛烈に感じられた。

カユは、新天地を探す。
友人の仇である熊を殺すことを約束して。
「正しいと思うことをすればいい」という友人の言葉に従って。
カユの「正しいこと」は、仲間を殺した熊を殺すこと。
そしてそれは、熊にとってカユを殺す理由と同じこと。
子供を奪われた熊、仲間を殺されたカユ、
対峙した二人は、対照的なように見えたけれど、
逃げ出したカユを追って村にたどりついた熊は、
カユを飛びこえて男を殺した。
つまり熊にとってカユはなんの関係のない男と
同列にしか見えていなかったということだ。

熊の道理は、子供を殺されたから、
次の子供を産むためにもっとたくさんの人の肉を食う。
というシンプルなもので、復讐なんていう人間的な感情はなかった。
ただ次の世代に命をつなぐために、「必要なこと」をし続けただけだ。

そしてそれは、姥捨て山のシステムにも重なる。
村は貧しい、子供が生まれる、食い扶持をえるために
「必要なこと」として婆を山に捨てる・・・。

最後のシーンの背後で、一発だけ銃声が聞こえる。
つまり、村には熊を殺すだけの戦力がある。
カユにむかって熊が駆け寄る途中での暗転、
カユは殺されたかもしれないが、
熊も殺されたかもしれない。
あるいは、熊が村人をすべて食い殺して、村自体がなくなったかもしれない。

でも、デンデラは存続しているのだ。
そこがすごく暗示的だと思う。
一つの事件、一人の人間、一つの対立。
そうしたものが一瞬、社会のシステムのゆがみを鮮やかに描き出しても、
水面に落とされた波紋は広がって広がって、
やがてもとの揺らぎのない水面に戻る。
デンデラは続く。デンデラを作り出す社会も続いていく。

「私は斎藤カユ。今年、70歳になった。」という
カユのモノローグで終わる映画。
「70歳」は、お山に入る約束の歳。
つまり、「越境せざるを得ない状況」をあらわす境目だ。

今いる社会の制度の中で、ある境を超えてしまえば、
いやおうなく「外側の世界」に押し出されてしまうこと。
その恐怖をデンデラという映画は示してくれているように思う。

社会の外側に押し出されたものは、
内側にいた時のように、美しさを称賛されたり、
求められることは少なくなる。
メイが、川原で魚の骨で髪を梳こうとし、涙を流すシーン。
外側に排斥されたものは、自分の「醜さ」に
苦しまずにはいられない。
でも、その「醜さ」は内側の人間が押し付けた価値観だ。
デンデラの中の老婆は、「ここにいる人間は、みんな同じ」と笑った。
足が満足に動かない、目が見えない、老化が激しい、
そういう条件に、誰も拒否反応を示さない。
デンデラという集団が、非常に均一性の高い個によって
結成されているからだろう。

そう、文明化された社会では、
「男」や「女」が生まれ、「老」と「若」が生まれ、
格差が生まれる。

その多数派システムから逃れ、差別のない原始社会を作るためには、
デンデラのように似た個体による集団づくりしかない。
けれども、その集団は生産能力がない。

多数派、ヘテロセクシズム、社会を動かしている暗黙の了解、
これらのものからあぶれた者の生き方を問うのが、デンデラだ。

社会にはむかうのか、
社会の影となって生きるのか、
その二つが否定され、新天地を求めたカユも
結局は熊から逃げ、村に戻ってきた。
村という社会の周辺でぐるぐる廻っているだけの世界。

けれどもカユが新天地をめざすきっかけとなった言葉に、
希望が託されている。
お山のさらに向こうは、男ども立ち寄らない。
デンデラがあったように、さらに向こうには「もっといい場所があるかもしれない。」
とカユは言った。

この一言が、中心周縁理論をすごく思い出させる。
村という小さな多数派からはみ出してカユたちは「周縁者」になった。
しかし「周縁者」は、完全に外側に出ることによって、
同時に「別の集団の内側」に参入することを意味している。

自分が元いた「内側」である村に拘泥している限り、
デンデラは村の「周縁」でしかない。
村とのつながりを断った、まったく新しい生を生きることによって、
「外側」の世界にはじめて出ることができる。

こういうのは簡単だけれども、
デンデラのいいところは、それをきちんと「困難なもの」として
終わらせたところだと思います。

外側出ようったって、
周縁者にされた時点で社会的弱者扱いを受けていて、
とてもダメージ過多な状態にあること。
それが「老婆」を使うことによって非常にわかりやすく示されている。

老と若だけではなく、男と女、社会と生命、
理性と感情。
そういう「制御できるもの」と「制御できないもの」の対立が、
非常に現実的に描かれていた。
とても感慨深い作品でした。

大概、こういう、「でも生きちゃうよ体は」
みたいな現実界をチラ見せしてくるものは、
それはもう簡単に私のような理性ガチガチ人間を
不安定にさせることがお上手です。

信念で死ねると、疑いなくいきたい。
心が死んだ時、命も終わると、信じていきたい。

「でも生きちゃうよ体は」

っていうのが、最近すごく悔しい悔しい!って
世界に対して思っていたことだったので、
なんか、同じように生きちゃう体に絶望している人が
いるんだなって感じられて有意義でした。今回の観賞は。

でも生きちゃうし、生きたがっちゃうだよね。悔しいけどね。
きれいになんか死ねないし、
きれいになんか生きられないんだろう。

それでも、メイとマサリの最後は、美しかったと思う。
醜く見えても、「意気地なし」と呼ばれても、
自分の正しいと思うことを貫いた二人は、本当に美しかった。




しゃきっとせいやー!しょうーねんーはーみーんな~♪

2011年09月18日 15時38分46秒 | ダメ人間観察記
エロ探訪しているだけの時に、
母に「お仕事終わったらごはん食べに降りておいで。」と
やさしくいたわれらたあの瞬間のいたみを、
誰か共感してちょんまげ。

世の中にこんな汚らしい生き物が普通に生息して、
ものを食べ、仕事の席を一つ占有していてほんとすいやせんww
せめてもの罪滅ぼしに積極的な経済活動を行います。

・・・というところまで書いて、
果たして私の存在を否定できる聖人君子は
世の中にいるのかと考えて、
まあいたとしてもその人は聖人君子だけに
このような汚い豚にもご慈悲をおかけくださるだろうということで、
私が生きてることは誰にも否定されずにすむと気づきました。

アウフヘーベン!

特技アウフヘーベンと履歴書に書きたい。
そうでなければ特技の欄は「汗臭い」とかしかかけないだろ!
「とかしか」って日本語すげぇゆとりっぽいだろ!
私は今日タイプミスが目立つだろ!!

要約>暑いからまともな思考ができない。


姉2がなんか帰ってきたんですが、
ウィィーフィットやらせてみたら
標準よりも下のBMIたたき出しやがって、
代々50kgは下らないという我が家のチンコロ伝説を打ち破る
40kg代の体重を叩きだしやがりまして、
「遺伝子的に60kgが標準体重」という我が家の馴れ合いダイエット界に
激震を起こし、
20kg体重が違うんだねほとんど同じ遺伝子なのに、
しかたないね、
といったインナー私が冷めた目を飛び出した私の腹に向けてくる次第です。

飛び出せ青春。
飛び出せ脂肪。
このおなかには、未来への夢と希望が詰まっているの!
どうかせめないで!!

すいませんでした。
最近3人くらいに「痩せた?」って言われて
ちょっと調子に乗ってました。
客観的な視線がすげぇ久しぶりに戻りました。
私はまごうことなきデブでした。

はー。
無駄に落ち込まされたわー。
なんでデブってだけで落ち込まなきゃいけないのかというと、
スリムな体をスタンダードとしてメディアが
これでもかと投げかけてくるせいだわー。
南の国だったら腹出てるとか富の象徴だわ。

いや私はね、敢えて世間からの誹りを受けようとも、
我が家が困窮状態にないという豊かさの象徴として、
言わば我が家のゆるキャラとしてこの体型を維持しているのであって、
これにもいろいろ苦労が…無駄なあがきはやめようか。

だからー!家庭内質量保存の法則はあると言っていてー!
私がいなくなったら母が爆裂に肥りだして、
私が帰ってきたらまた私が爆裂にふとって母痩せたじゃんか。
だから家の中に存在する食糧は常に一定に保たれているんです。
で、その組織の中で一番食べ物を残すことを忌避する
優しい人間(俗人はこれを「食いしん坊」と呼ぶ)が
結局は残飯を食べることにより自己犠牲して
食料の廃棄を防いでいるんだって、何回も言っているだろ。

いやー。
PSPはじょうずにつながらないし、
ですわ。

文句ばっかり言う奴は友達なくすらしいから、
明るいこというわ。
今日はデンデラ見に行きます。
ばばあの復讐劇ということで、非常に楽しみにしています。
寒い景色っぽいし、涼しくなるんじゃね?

もうこの暑さがねー、ほんといかんと思うよ。
犯罪だと思うよ。天の。
天がもうね、「働くなー!」っておっしゃってる。この暑さは。確実に。

この暑さの中でやれるのは
寝るのとアイス食うのとエロ画像探すくらいだって、
人をおつくりになった天は、絶対わかっててやってる。




部屋が汚いのがね!致命的だよね!
涼しくなったら本気出す。
夜じゃなくて、秋のほうで、涼しくなってから、本気出す。


汗で体中ぺとぺとするし、もー!