超スローカーブ

更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

幻の千円札と建部大社

2015-02-24 00:35:24 | 古きもの
我が家からほど近いところに、近江国一之宮、建部大社があります。二人の娘の七五三のときお世話になりました。
ご祭神は、本殿に日本武尊と権殿に大己貴命(おおなむちのみこと)二柱の神様をお祀りしています。
 近江には、全国に名だたる、多賀大社と日吉大社もありますが、建部大社は両大社を抑えて、近江国一の宮とされています。
 一の鳥居、二の鳥居をくぐり、進むと立派な神門があります。

 

 

 

 神門をくぐると、ご神木の「三本杉」があり、その後ろに拝殿があります。
 三本杉は、755年に大己貴命(おおなむちのみこと)を権殿へと奉祀された際に、一夜にして成長したと伝わる御神木です。
 建部大社の神紋にも使われているので、言わば、建部大社のシンボルです。
 その後ろの拝殿も本殿も天武天皇の代の675年からあり、こちらもかなり古くからのものです。

 

 権殿について755年)に、大己貴命が大神神社(おおみわじんじゃ・奈良県桜井市)から勧請され、この権殿に祀られたと云われています。

 

 また、源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、ここ建部大社に立ち寄って「源氏の再興」を祈願、後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名になりました。

 さて、ここからが今回の本題になります。

 昭和20年8月、日本で初めて作られた千円紙幣(甲号券)の図柄に日本武尊と建部大社本殿が描かれていたのですが、新円切替えがあり、わずか7ヶ月間という通用期間であった為、幻の紙幣と云われています。
 そのことについて。境内の立て札に写真のようなことが書いてありました。

 

 立て札の内容がイマイチ理解できなかったので、帰宅後に少々調べてみました。
 この千円札は終戦からわずか2日後の、昭和20年8月17日に日本銀行から他の新紙幣の発行とともに流通が開始されました。
 その千円札には、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)とここの建部大社の絵柄が印刷されていました。
 日本ではじめて発行された千円札ですが、当時の貨幣価値から換算すると現在の50万円くらいに相当する超高額紙幣でした。
 50万円でもびっくりですが、実はもっと高額で、この千円札で米俵が160俵も買えたとの話しもあります。これから計算すると米俵1俵が60キロなので、今なら2万4千円ほどになるので、384万円となりちょっと信じられない数字の超高額紙幣になります。
 
 この紙幣はインフレになった時のために昭和16年から製造されていたもので、戦時中はずっと日本銀行の金庫の中に眠っており、戦争が終わってこの日にやっと日の目を見たものです。
 しかし終戦後、日本は半年で物価が2倍になる急激なインフレに見舞われます。
 そこで政府はそれを抑えるため、この千円札を出した半年後の昭和21年2月25日に強引な「新円切替」を実施したのです。
 これはその時点で流通している5円札以上の全ての紙幣を無効にしてしまう、というものでした。
 そのため5円札以上の所有者は11日間の移行期間の内に、それを全て銀行にいったん預金して新円で払い戻してもらわなければならなくなった。
 しかも、この払い出しも一人100円までと制限を付けました。
 日本武尊の千円札は高額な上に発行後半年しかたっていなくて殆ど出回っていません、それがこの新円切り替えにより、1946年(昭和21年)3月2日限りで失効することになったのです。
 このため、この千円札は当然ほぼ全部銀行に回収されてしまいました。
 従ってこの紙幣は現在ではまず持っている人がいない「幻の紙幣」となったのです。

 それと、この千円札の画像をよく見ると、中央右辺りに「此券引換に金貨千圓 相渡可申候」(この券と引き換えに金貨千円をお渡しできます)と書いてあります。
 と云うことは、この千円札は日本で最後の兌換紙幣になります。 それ以降、現在の紙幣は不換紙幣で、信用によってのみ通用していることになり、価値責任の裏づけは何も無い、ということになっています。
 そして今や、日本銀行はこの価値責任の裏づけがないお札と、紙幣さえ必要ない電子決済で、通帳に数字を記入するだけでお金を創造し、流通させています。
 このことはよほど、しっかり経済情勢に合わせた、運用をしていかないと大変なことになりそうですね。
 私も今回調べ、終戦直後の状況を知るにつけ、当時の首相をはじめ執行部の方の舵取りは国内が大混乱しているときだけに、並大抵なことではなかっただろうと想像いたします。
 新円切り替えも知ってはいたが、今思うと言葉の意味を知っている程度でした(笑)
 なお、この幻の千円札は、建部大社には一枚保存されているとのことです。
                    
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大津事件

2015-02-21 01:45:47 | 歴史探訪
 いきなりですが、大津事件をご存知でしょうか。
 以前テレビでよく報じられていた、「いじめ」のあの事件とは違いますよ。
 歴史の教科書には必ず載っていたと思いますので、詳しくなくとも名前だけは知っておられる方も多いのではないでしょうか。
 ひと言でいうと「ロシアの皇太子が大津(大津市)で暗殺未遂に遭った」という事件です。
 参加した「旧東海道を歩こう」の大津宿に、うっかりすると見過ごしてしまいそうな小さな記念碑がありました。

     

 昨年から、ロシアとウクライナできな臭い争いが起こっていますが、日本も一歩間違えれは大変な事に巻き込まれる危機があったのです。
 ウクライナ紛争と問題の本質は全然ちがいますが、まだ発展途上であった日本が危うく強国ロシアに武力報復されかねない緊迫した、一発触発の時がありました。

 大津事件は明治24年(1891年)の5月11日に起こりました。
 このときのロシア皇太子は、後々ロシア帝国のラストエンペラーになるニコライ2世です。
 と云うことは要人中の要人で、もし世が世であれば犯人はもちろん、警備にあたった人もろとも処刑されてもおかしくはない程の大事件でした。
 この年、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライはロシア帝国海軍の艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問しました。
 ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かいました。
 いまだ小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待、公式の接待係には皇族である有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう・海軍大佐)を任命し、京都では季節外れの五山送り火まで行なったそうです。
 次の訪問予定地である横浜、東京でも歓迎の準備が進められており、国をあげての大イベント中でした。
 5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道のことです。
 ニコライ、一緒に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス、威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中のとき、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いてニコライに斬りかかり、負傷させたと云う大事件でした。
 ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はありませんでした。
 ところが、これ程の大事件であるにも拘らず、実際には犯人ですら無期懲役で済み、知事と警備担当者の罷免はもちろんですが、あとは大臣が3人ほど辞職するだけで終わりました。
 これには、明治天皇御自ら(おんみずから) ロシア皇太子に、お見舞いに行かれたこともかなり効果があったと思われます。
 それは、事件の後ニコライ2世は京都におられたのですが、明治天皇は報告を受けると即座に北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)を見舞い名代のために京都へ派遣された。
 天皇は事件翌日の5月12日早朝、新橋駅から汽車に乗り、同日夜には京都に到着された。
 その夜のうちにニコライを見舞う予定でありましたが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期されました。 天皇はひとまず京都御所に宿泊された。また、威仁親王の兄の熾仁親王(たるひとしんのう)も天皇の後を追って京都に到着された。
 翌13日に天皇はニコライの宿舎である常盤ホテル(現京都ホテル)に自ら赴いてニコライを見舞い、さらには熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸までお見送りをされました。
 天皇が謝罪され、ニコライ2世も「軽傷で済み、陛下や日本人の厚情に感謝している」と穏やかに済ませてくれたのですが、ロシア本国からの指示があり、ニコライは東京訪問を中止して、艦隊を率いて神戸からウラジオストクへと帰還してしまった。
 このため、「事件の報復に大国ロシアが日本に攻めてくる」と当時、日本国中に大激震が走ったようです。
 学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、津田巡査の出身地である山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議したと云うほどの狼狽振りだったようです。
 ところが、結果として大きな問題に発展しなかったのは、明治天皇の素早い一連の行動が、この大事件を穏便に済ませることになったのでしょう。
 昨今、食品会社の異物混入などの不祥事に、トップが直ぐに謝罪しなかったため、問題がより大きくなったケースがあるが、いつの時代においても、不祥事には、まずトップの素早い対応が求められているようですね。
 余談ながら、ニコライが軽傷で済んだことの裏の立役者として、皇太子と王子を乗せた人力車の2人の車夫の活躍がありました。
 2人この事件で警備の巡査より先に犯人とわたりあったという功績を挙げました。
 このため、2人は事件後の18日夜にロシア軍艦アゾバ号に招待された。しかも正装ではなく、法被(はっぴ)に股引(ももひき)の車夫姿で来るようにとのこと、そして軍艦ではロシア軍水兵からの大歓迎を受けたと云う。
 さらに、ニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ2000万円前後)の報奨金と1000円の終身年金が与えられることになった。
 日本政府からもきわめて異例の勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられることになったが、これは、ロシアとのバランスをとるためで、前例などを考慮せずに決めたのではないかと思う。
 現代でも先にノーベル賞が決まり、あわてて文化勲章を授与されるケースがありますね。
 そんなことで、2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなったそうです。
 ただ、その後2人は好対照の人生を歩むことになります。

 また、この大津事件は、司法の独立が守られた大きな事件でもありました。私の覚えでは教科書はむしろ、この事が書かれていたような気がします。
 ロシア皇太子の来日前に、ロシアと日本の間では、ロシア皇太子への不敬の所業に対して皇族に関する刑法規定を準用することが秘密裏に取り決められていました。大審院長であった児島惟謙(これかた)は、この取り決めの存在を知らされていましたが、犯人津田に対して刑法116条(「天皇・三后・皇太子に対し危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処す」)ではなく、通常謀殺未遂を適用するよう担当判事を説得し、その結果、大審院は津田に無期徒刑(無期懲役)の判決を下しました。
 この津田に対する量刑を確定する過程は、当時の日本において、政府からの強い圧力がありましたが、大審院長の児島惟謙はこの圧力に屈することなく、司法権の独立を確立するために奮闘しました。 このことは、司法の独立に大きく寄与し、その意味で大津事件は意義のある大事件でした。
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蒸気船 一番丸

2015-02-18 01:26:53 | 古きもの
 前回の車石のブログのなかで、鉄道ができるまでは、びわ湖の湖上輸送が主力で、これには「一番丸」が活躍したと書きました。
 今回はこの「一番丸」です。

 記録によると、明治2年(1869年)に写真のような外輪蒸気船
「一番丸」が海津~大津間就航しました。
 まだ東海道線が全通していなかったころです、まず琵琶湖に蒸気船の時代が先に到来しました。

   

 これは湖国の人々に江戸時代から明治時代への近代化の幕開けを実感させる大きな出来事となりました。
 一番丸は当初は大聖寺藩が運営し、その後大津町人をはじめ湖国の人々の手にゆだねられるなどの変遷はありましたが大成功であったようです。
 ところが、明治22年に東海道線がびわ湖東岸を全線開通したことにより、20年間のその役割を終えたと云われています。

 かつて多くの人々に愛され親しまれた蒸気船「一番丸」は今、復元されて、外輪汽船「一番丸」として新たに就航しています。
 現在は「リバークルーズ 一番丸」として歴史と文化あふれる石山、瀬田川畔を遊覧しています。

   
 
 あの広重が描いた「近江八景」のなかの「瀬田の夕照」や「石山の秋月」の舞台を、昔懐かしい「一番丸」に乗り、その船上から眺めるその景色は、まるでタイムスリップしたかのような感動を与えてくれるものと思います。
 観光でこちらにこられたら、この「一番丸」で心に残る瀬田川の船旅をお楽しみください。
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車石 (くるまいし)

2015-02-14 21:52:30 | 古きもの
 こちら今日は陽はさしていたものの風があり寒い日
でした。

写真は江戸時代に逢坂山の峠道に敷かれていた車石です。
花崗岩に車の轍(わだち・車輪を通すための溝)を掘り、
二列に並べた車石が、大津から京都の三条にかけての
約3里(12km)に敷き連ねられ、荷車が峠を越える手助
けとなりました。

   

 最初、この車石をみて、この轍は馬車の車輪で徐徐に
出来たものだと思っていました。説明を聞き目から鱗で
した。
 西洋のレールとはまったく逆の発想で、考えだされた
方法ですがおもしろいですね。

 鉄道が引かれるまで琵琶湖は、北海、北陸からの海
産物や米等を京都へ運ぶ重要な水運でした。
 それには外輪汽船の「一番丸」が活躍していました。
 それら多くの物資は、大津港から馬車、牛車により
逢坂山、九条山を越えて京都へ運ばれて行きました。
 しかしながら逢坂山は、大津側に逢坂峠、京都側に
日ノ岡峠があり通行の難所でした。
 そこで、1805年(文化2年)京都の心学者脇坂義堂が
一万両の工費を投じて工事にあたったもので、これに
よって牛車などによる荷物の運搬が楽になり、円滑に
進むようになりました。

   

 また、その当時描かれていた図からは、道はすでに
歩道と車道に分けられていて、歩道は車道よりも高く
してあり、通行の安全と車の通行の邪魔にならない様
に配慮してあった様でこの設計には驚きです。
 また、車石は単線のため、午前は京都行き、午後は
大津行きと、時間による一方通行になっていたとのこ
とで、このような事にもきちっと統制が執れて行われ
ていたことにも感心しました。
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忍び返し

2015-02-13 19:02:09 | 古きもの
 今日も北の方は雪とか、こちらも雪こそありませんが
風があり寒いですね。
 きっとこんな寒い夜には、泥棒さんも臨時休業かもし
れません(笑)
 住宅街を歩いていると、見た目にも恐そうな危ない
だろうなと思う金属製の「忍び返し」をいろいろ目に
することがあります。
 昔はガラス割って埋め込んでるのもありました。

 

 写真は純和風の「忍び返し」です。
 旧東海道を大津宿から京に向かう逢坂山の月心寺さん
の塀です。
ここは、もともと走井餅の本家があった場所(発祥の地)
で、今も「走井(はしりい)」の水が湧いています。

 

 写真は塀越しに見た邸内で、奥の玄関の脇に走井の
井戸が見えます。

 江戸時代、逢坂山のこの付近には、清らかな水が勢い
よくあふれ出す井戸があり、その様から「走井」と呼
ばれ、旅人ののどを潤しました。
 そのうちに、周囲には茶店が建ち並び旅人のオアシスに
なりました。
 そこで売り出された『走り井』の甘露でついた餅菓子は、
その名を冠して『走り井餅』と呼ばれました。
 以来、『走り井餅』は旅人をいやし、逢坂の地で長く
親しまれる銘菓となりました。
 ただ、人の交通手段が車へと変化するにつれだんだん
と廃れていき、この地では廃業され、今では、京都の
石清水八幡宮の鳥居前に移られました。
 その後、屋敷は画家の橋本関雪の別邸となったのちに、
関雪没後は、関雪の意向で月心寺さんへとなりました。
 庵主(あんじゅ)さんは、数年前の NHK 朝の連続ドラマ
「ほんまもん」のモデルになった方です。
 尼さんが作る精進料理、特にごま豆腐が絶品と評判の
ようです。それもそのはず、ごま豆腐に使われている
お水は「走井」の名水なのです。

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根っこが凄い スダジイ

2015-02-11 15:55:59 | その他
 昨日はいい天気のなか、彦根市の田舎の小学校の同窓会に行ってきました。
 終戦時に生まれた年代なので、全国的にも少ないのですが、一学級で27名しかいませんでした。それが、6年間いっしょなのでみんな仲のいいクラスでした。
 今年、古希と云うことで、還暦以来の10年ぶりにありました。
 会えばすぐ昔の呼び名で呼び合い、当時のアルバムを持ってきたひとがいて、写真見ながらのむかしばなしに花がさき、あっと言う間のひと時でした。

 写真は古希どころではありません、樹齢は300年以上のスダジイです。説明板では、幹周/5.0m、樹高/14m、とあります。
 大津市坂本の日吉大社の参道沿いにある大将軍神社の鳥居のそばにありました。
 約2メートル程の根上がりの状態で、背が低くてずんぐりしていて、県指定天然記念物です。からみあった根っこが何とも云えません。



 大将軍(たいしょうぐん))神社は、創祀年代不詳ですが、日吉大社境外百八社の一社で、天台宗開祖の伝教大師の産土神(うぶすながみ)とされています。
 日吉大社(ひよしたいしゃ)は、俗に山王権現とも呼ばれ、全国に約 2000社ある日吉、日枝、山王神社の総社で、古事記に
もその名が登場する歴史のある神社です。
 また、紅葉の名所として知られ、甲子園球場 11個分の広さがある境内に、約 3000本ものモミジやカエデが紅葉する様は見事なものです。

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自在鉤

2015-02-10 00:13:47 | 古きもの
 連日寒い日が続いています、今日はさらに寒かった。
 仕事をしていたころは、この様な寒い日には帰りに
「ちょっと一杯」と、寄り道したものです。
そんなとき、少し大きめの「居酒屋」さんにいくと、
囲炉裏があり、上からは「自在鉤(じざいかぎ)」が吊
るされているのをよく見かけました。
 自在鉤はいろいろ凝った形態があり面白く、また、
昔の人の知恵に感心していました。

   

自在鉤は鍋や湯釜などを吊るし、高さを変えることで
火力調整のできる優れた囲炉裏道具です。
 写真はこれに「五徳」も併用されています。
 構造としては固定された「吊り棒」と上下する「鉤棒」
でスライドさせるタイプです。
 鉤棒を支えるものを「横木」といいますが、鯛や鮭や
扇子など縁起をかついだお目出度いものが多いです。
 魚は火を鎮めるの意味もあるとのことから、魚を装飾
したものが用いられています。。
 私はてっきり囲炉裏で魚を串に刺して、灰に立てて
焼いたりすることから、魚が横木に多く採用されたのか
なと思っていました(笑)
 大昔から使われていて、今もほぼそのままの形でで
使われていて、先人の知恵に感心します。
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唐門

2015-02-05 16:33:52 | 古きもの
 西本願寺と職人さんについて、前回まで、天水受けを支える天の邪鬼・遊び心の埋め木・見事な大銀杏の木、と書いてきました。
 うっかりしていました、もうひとつ。
     「国宝 唐門」
 それは、西本願寺の南側にある、「国宝の 唐門(からもん)」です。
 黒塗りに極彩色の彫刻が施された四脚門です。この門は秀吉の伏見城から移されたものとのことです。
 さすが、秀吉が作らせたものらしく、豪華絢爛で、こちらは職人の遊び心ではなく,匠の技ですね。
 豪華で精巧な彫刻の数々に、時間が経つのも忘れてしまうことから別名「日暮門」とも呼ばれています。
 写真は境内側から見たものです。

     

 贅を尽くした数々の見事な彫刻は、作品 1 点でも十分価値があるにもかかわらず、これでもかこれでもかと門の内外にちりばめられていて確かに見ごたえがありました。

     

     

 境内側はよく見えますが、外側の北小路通りからは保護柵が高くなり門が半分隠れてしまいます(笑)

     

 西本願寺は世界遺産ですが、境内には自由に入って見ることができます、外からでなく内側からゆっくりと、この唐門を日が暮れるまで自由に見ることができます(笑)
 
 この様な、国宝の門を監視する人が誰も居られないところも、ある意味実に素晴らしいことだと思っていて、ふと横を見ると、監視カメラがありました(笑)
 写真は「国宝 唐門」を裏方で警備している「防犯カメラ」です。

     

こうして犯罪やいたずらから、毎日24時間、国宝を守っているのですね。
     「新撰組 屯所」
 最後に、意外な話しとして「西本願寺と新撰組について」少々。
 新撰組の屯所と云えば、壬生の八木邸を思いうかべますよね。確かに当初は八木邸を屯所としていましたがやがて隊士が増えてくると手狭になったため、屯所を移転することになります。
 その第2 の屯所になったのが、選りによって西本願寺だったのです。
 新撰組が京都に登場したのは、文久3年(1863年)です。 その翌年には、新撰組を一躍有名にした池田屋事件や蛤御門の変が起こっています。
 その名が知れるにしたがい隊士が増え手狭になってきた。 このため慶応元年(1865年)に西本願寺に移転したのです。
 新撰組が屯所として使用したのは西本願寺の北集会所と太鼓楼です。 北集会所は、姫路市の本徳寺に一部移設された。そのため、西本願寺に残る新撰組ゆかりの建物は、写真の太鼓楼だけとなっています。

     

 次の不動堂村に屯所を移すまでの約 2年間、 ここで生活したが境内で豚を飼ったり軍事訓練をしたりで、臭いと音で寺側は大変迷惑したそうです。
 2年後に新選組は近くの不動堂村へと屯所を移していますが、移転費用まで西本願寺が全面的にバックアップしたとのこと。 
 きっと、お金の問題どころではなかったのでしょう(笑)
     「築地塀」
 もうひとつ、先の「唐門」を外側から見ようと御影堂門を出て唐門側の北小路通りへ行くと、唐門まで、写真のような築地塀が続いています。
 写真には横に筋線が見えますが、これは寺では定規筋という白い横線を入れた筋塀を築いて、横線5本(五条)を最高位として寺の格を表すようになっているそうです。

     

 いつか寺院にいかれたら、この築地塀をみて定規筋が何本あるか見てみて下さい(笑)
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