「急がば回れ」の格言は有名で、誰もが一度くらいは 聞いたり、使われたりしたことがある言葉だと思います。
そんな格言の語源となったと云う道標がそう遠くないところにあることは以前に瀬田の唐橋の事を調べているときに知ったのですが、なかなか見に行くことが出来なかった。
たまたま草津の図書館で歴史講座があり、その帰り道を電車に乗らず旧東海道を歩いてこの目で確認してきました。
江戸から京へ向かうとき、東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿を出発して程なく、新草津川を渡ると右手の商家の軒先に道標がありました。
ここは次の大津宿までの道のりを瀬田の唐橋回りの陸路で行くか、琵琶湖を船で渡る水路で行くか思案する場所、つまり休憩所になっていたところです。
旅人が杖を立てて休んだことから付いた名で矢倉立場と言ったようです。
そこには、徳川家康も食べ命名したと云う草津名物の「うばがもち」を売る店がありました。
歌川広重の版画「東海道五十三次」の「草津宿」はここ矢倉立場を描いています。かごかきが行き交う街道、向こうの茶屋の屋根に「うばがもちや」の看板が見えます。
店の中では旅人が立ち寄って、うばが餅を食する様子が描かれていますが、この絵のなかの右端に「道標」もしっかり描かれていました。

この場所と同じ所の現在の風景です。
姥が餅やさんは草津駅近くの国道一号線に面したところへ移られました。現在このお店は瓢泉屋という瓢箪屋さんに代わっていますが、道標はそのままこの場所にあります。

この道標に「急がば回れ」と書かれている訳ではありません(笑) なかなか歴史を感じさせる風格のある道標でした。
アップするとこの通りで「右やばせ道 右是より廿五丁 大津へ船わたし」と刻まれていて、やばせ道への道しるべなのです。


当時京都に向かうときは、やばせ道を進み矢橋港から船で大津石場港へ渡るのが、東海道をそのまま陸路で瀬田の唐橋を渡って大津宿、京都へ向かうよりずいぶんと近道でした。
地図上の赤線で比べてもその違いがよく分かると思います。
この地図は何か分り易いモノはないかとネット上で探し借用したモノで、説明の文字入れ等のみ私が行ったものです。




ただ、この水路のルートは対岸の比叡山からの比叡颪 (おろし) のせいで船が出せないことや、出航しても突風で遭難することもあったようで船の運航は天候次第で不安定であったようです。
そこで、武士が京都へ駆けつけるとき、速いけど危険がともなう水路よりも、安全で確実な陸路で「瀬田の唐橋」を回って行くべし、というような訳になってきました。

このことを室町時代の落語の祖といわれる安楽庵策伝は[醒睡笑」の中に、「いそかはまはれといふ事は ものことにあるへし。遠慮なり。 宗長のよめる 武士(もののふ)のやはせのわたりの近くともいそかはまはれ瀬田の長はし」と、有名な連歌師・宗長が詠んだ歌が「急がば回れ」の語源になったとすでにこの時代に紹介しています。
と云うわけで、この矢倉の道標が「急がば回れ」という格言の基になった道標なのです。
ちなみに、広辞苑を引くと
【急がば回れ】危険な近道よりも、安全な本道をまわった方が結局早く目的地につく意。成果を急ぐなら、あわてずに一見迂遠(うえん)でも着実な方法をとった方がよい。
との記載でした。
そんな格言の語源となったと云う道標がそう遠くないところにあることは以前に瀬田の唐橋の事を調べているときに知ったのですが、なかなか見に行くことが出来なかった。
たまたま草津の図書館で歴史講座があり、その帰り道を電車に乗らず旧東海道を歩いてこの目で確認してきました。
江戸から京へ向かうとき、東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿を出発して程なく、新草津川を渡ると右手の商家の軒先に道標がありました。
ここは次の大津宿までの道のりを瀬田の唐橋回りの陸路で行くか、琵琶湖を船で渡る水路で行くか思案する場所、つまり休憩所になっていたところです。
旅人が杖を立てて休んだことから付いた名で矢倉立場と言ったようです。
そこには、徳川家康も食べ命名したと云う草津名物の「うばがもち」を売る店がありました。
歌川広重の版画「東海道五十三次」の「草津宿」はここ矢倉立場を描いています。かごかきが行き交う街道、向こうの茶屋の屋根に「うばがもちや」の看板が見えます。
店の中では旅人が立ち寄って、うばが餅を食する様子が描かれていますが、この絵のなかの右端に「道標」もしっかり描かれていました。

この場所と同じ所の現在の風景です。
姥が餅やさんは草津駅近くの国道一号線に面したところへ移られました。現在このお店は瓢泉屋という瓢箪屋さんに代わっていますが、道標はそのままこの場所にあります。

この道標に「急がば回れ」と書かれている訳ではありません(笑) なかなか歴史を感じさせる風格のある道標でした。
アップするとこの通りで「右やばせ道 右是より廿五丁 大津へ船わたし」と刻まれていて、やばせ道への道しるべなのです。


当時京都に向かうときは、やばせ道を進み矢橋港から船で大津石場港へ渡るのが、東海道をそのまま陸路で瀬田の唐橋を渡って大津宿、京都へ向かうよりずいぶんと近道でした。
地図上の赤線で比べてもその違いがよく分かると思います。
この地図は何か分り易いモノはないかとネット上で探し借用したモノで、説明の文字入れ等のみ私が行ったものです。




ただ、この水路のルートは対岸の比叡山からの比叡颪 (おろし) のせいで船が出せないことや、出航しても突風で遭難することもあったようで船の運航は天候次第で不安定であったようです。
そこで、武士が京都へ駆けつけるとき、速いけど危険がともなう水路よりも、安全で確実な陸路で「瀬田の唐橋」を回って行くべし、というような訳になってきました。

このことを室町時代の落語の祖といわれる安楽庵策伝は[醒睡笑」の中に、「いそかはまはれといふ事は ものことにあるへし。遠慮なり。 宗長のよめる 武士(もののふ)のやはせのわたりの近くともいそかはまはれ瀬田の長はし」と、有名な連歌師・宗長が詠んだ歌が「急がば回れ」の語源になったとすでにこの時代に紹介しています。
と云うわけで、この矢倉の道標が「急がば回れ」という格言の基になった道標なのです。
ちなみに、広辞苑を引くと
【急がば回れ】危険な近道よりも、安全な本道をまわった方が結局早く目的地につく意。成果を急ぐなら、あわてずに一見迂遠(うえん)でも着実な方法をとった方がよい。
との記載でした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます