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更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

沖島ロマン  その1

2013-09-27 14:11:12 | 歴史探訪
         
    

 9月7日(土)に 歴史探訪情報発信のDコース「沖島周辺を訪ねて ー近江八幡市ー」のツアーに参加してきた。
 滋賀に長く住んでいるが、沖島は初めてである。我が家の2人の孫は共に小学校のとき遠足で行ったとのこと。
 沖島は近江八幡の湖岸から約1.5キロの沖合いにあって、人の心を惹きつけるような位置に浮かんでいる。簡単に行けそうなのに、行けないそんな島である。
 堀北港から連絡船で約10分だが、これは正味の時間で船に乗換えてとなると待ち時間もあり、陸路でつながっているところとはその利便性で大きな違いがある。

   沖島ロマン
 沖島は琵琶湖に浮かぶ島のうちで最大の島である。周囲7キロ、東西に約2.5キロ、南北は狭いところだと100メートル、広いところでも600メートルほどである。
 全島石英斑岩の島で、連絡線が着く沖島港の周辺の狭い平地に124戸の民家が密集していて約330人の人が住んで主に漁業を営んでいる。
 傍の家の建っていない平地は畑として野菜などを育ている。お米は島内でなく本土の田んぼで作られていると云う。

 沖島はかなり古くから今と同様に人のこころをとらえていたようである。万葉集に、
     淡海の海 沖つ島山 奥まけて わが思ふ妹が 言の繁けく
 この歌は、沖島を詠み込んだものと云われている。
     おいつ島しまもる神やいさむらん 浪もさわがぬわらわべの浦
 この歌は、紫式部が、沖ノ島の対岸である、あやめ新田童子が浦の、この地から 遠く沖ノ島を望んで詠んだものと云われている。
 他にもあるが、沖島は昔から歌に詠まれたり、文学のなかにその名をとどめている。

 沖島にいつ頃から人が住み着いたかを証明する文献は無いようだが、大正期に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混ざって縄文土器や和同開珎が発見された事があるなど、かなり以前から沖島付近に人々の往来はあったと思われる。

 島の伝承では 和銅年間に近江の国守であった「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、神官を置いたのがはじめと云われている。
 奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んでいたという話しも伝えられている。

   源氏の落人(おちうど)
 しかし、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)に敗れた源満仲(みなもとのみつなか)の家臣が都から逃れてきた、いわゆる「源氏の落ち武者」が始めと伝えられている。
 平家の落ち武者の話は良く聞きますが、沖島は源氏の落ち武者なのだ。
 この源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし住み着いたのが始めだと云われている。
、その時の7名が(茶谷重右衛門、北兵部、南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、久田源之丞、中村磐徳、)が現在の島民の祖先とされている。
 この7人の侍の子孫がその後分家などで家数も増え、更に佐々木源氏の落ち武者も加わり、今のようになった。
 島のほとんどが7つの姓を名乗り、笹竜胆(ささりんどう)や鶴丸(つるまる)など源氏の流れを示す家紋を墓石や棟瓦に彫りこんでおられるようである。

   落人伝説
 余談ながら、平家の落人伝説は全国いたる所にあるが、源氏の落人伝説はあまり聞かない。
 なぜだろう、平家は清盛、重盛、宗盛と3代続いたが、その間栄華をきわめその一族はたいへんな大所帯となっていたが、、源頼朝を中心とする反平家勢力との戦いで都落ちしてからも、一の谷、屋島、壇ノ浦と、戦いの中で敗れ散っていったのだが、それだけにとどまらず、源氏の総大将頼朝の厳しい平家追討への執念があって、その追っ手から逃れるために全国いたる所で平家の落人の里ができた。
 一方、源氏も頼朝、頼家、実朝とこちらも3代続いたが、源氏は戦でなく陰謀と暗殺によって自ら3代で滅んだようなものであったからほとんど落人が出ることもなかったのだろう。
 戦国時代にも戦いに敗れた大きな一族は他にもたくさんにいたが、一族が落人になる程に追い詰められた例はあまりないであろう。
 源頼朝の平氏追討への凄まじい執念や、身内の義仲や義経や範頼等への猜疑とその非情さに較べて、かたや平清盛の保元の乱の後での裁定で池禅尼(いけのぜんに)の懇願があったとしても、頼朝を伊豆に流しただけで済ました温情との差、この違いは大きく、これが根底にあるよな気がする。

 話し戻して、南北朝時代に越前で敗北した、南朝の新田義貞の部下が軍備(軍船を造るなど)を立て直すため、沖島の頭山一帯に城を構えたとの説もある。
 このように彼らが沖島を頼って来たのも、新田氏が源氏の流れだったからと思われる。

   今参局(いままいりのつぼね)伝説
 室町時代に足利八代将軍義政の愛妾として、権威をふるっていた今参局であったが、義政の正室、日野富子ににらまれた。それは、富子がやっと男児を出産したがわずか20日足らずで亡くなった。このことを今参局が祈り殺したとからだとして今参局を沖島へ流罪とした。
 この事はこの当時、島には陸の関所にあたる番所が置かれていたことを裏付けている。おそらく局は番所の役人に監視されていたものと思われる。
 数日後に今参局は富子の差向けた刺客に殺されるのだが、その時不思議に命を救われた赤ん坊をヒロインにしたのが、大仏次郎の「櫻子」であり昭和34年に新聞に連載されて、単行本にもなった。

 今参局が殺されたところは、長いあいだ祟りがあると恐れられてきたようだ、江戸時代になり彦根藩がこの地に雨乞いの弁天を祀り、厳島神社と名づけた。
 この島に雨乞いはあまりに必要なさそうなので、実は今参局の怨霊を慰めるためのものではなかったかと云われている。
 今回はこの厳島神社(弁財天)へは行くことができなかった。(連絡船から見えた湖岸に赤い鳥居があるところらしい)

 堅田の湖族が活躍した応仁の乱のころ、この島は堅田湖族の出張所のようになり、1468年(応仁2年) 比叡山延暦寺のの堅田攻撃によって、堅田の町が焼き払われた。
 このとき堅田の町民が大挙して沖島に逃れて、約2年間沖島に避難生活をしたとの記録もある。

  いざ「沖島」に出発

 連絡船のおきしまは「堀切港」からでている。我々10数名と他にどこかの写真サークルのような同年輩のグループ、それに地元の方と思われる人たちを乗せて一路沖島魚港へ向かった。小雨であったが、湖面はそれ程波も無く揺れることもなかった。
 程なくして(10分ほと)「沖島魚港」に到着した。上陸したところが、漁協会館で、この時間帯だからかひっそりとしていた。
 会館の前には自転車や沖島名物(?)の三輪車が並んでいた。
           
 先ず最初は「おきしま資料館」に向かったが、港周辺ではそれ程の違和感は感じられなかったが、村中に入り少し行くと雰囲気が一変した。昭和30年代にいきなりタイムスプリットしたような光景になってきた。

  おきしま資料館 

 「おきしま資料館」は民家を改築して沖島の生活を後世に伝えようと平成7年4月に開館したとのこと、入館料は200円(要予約)
 ここでは先ず琵琶湖のお話しがあり、古い時代の沖島の写真が展示してあった。また展示品のなかには、私が子供時分に見たことがあるようななつかしいものもいくつかあった。
            
            
   琵琶湖はいつどのようにして誕生したのか?
 ここでちょっと我が滋賀の琵琶湖についてお浚いをしてみる。
琵琶湖は約670平方キロメートルの面積で、滋賀県の6分の1を占める。
 東京ドームで換算すると約14,330個分となる。周囲は約235キロメートルで東名自動車道で置き換えると、基点の東京インターから浜松インター付近となる。
 また、湖面の高さは大阪湾最低潮位を0メートルとして約85メートルで、これは標高88メートルの大阪城天守閣のてっぺんとほぼ同じ高さである。滋賀と大阪ではこれほどの高低差があるのだ。

 湖のでき方にはいろいろあるが、琵琶湖は地底の断層運動により窪地が出来て、そこに水がたまってできた「断層湖」である。
 断層湖であるが、大昔から今の場所にあった訳ではない。
 琵琶湖の誕生は今から約4百数十万年前にも、さかのぼり、日本最古はもとより、世界でも有数の古代湖である。
 誕生した頃の琵琶湖は、今の三重県伊賀市付近にあって、そこの地名から大山田湖と名づけられている。その形も大きさも現在の琵琶湖とはかなり異なる。
 300万年前ごろには、甲賀地域の沈下が激しくなり湖は北上してきた。200万年前ごろには、さらに北上して、水口から日野地域へ、それから多賀地域にまで広がったようだ。
 100万年前になると、現在の南湖の西側に移り、堅田湖と称した。琵琶湖が現在の位置に広がったとされる、50万年前ごろになると、琵琶湖の周囲一帯に大きな地殻変動があり、琵琶湖盆地を囲む周囲の山地が一段と隆起したとのこと。

 このような推移からすると、琵琶湖は現在も沈下や移動をしているように思われるが、そうではない。
 数十年から数千年に起こる地震によって変化することがあるだけで、毎年少しずつ動いているわけではない。
 この琵琶湖の話しは、資料館の方が説明されたことをもとに少し調べて補筆した。

 話し戻して、その他に変ったものとして、織田信長、徳川家康からの書状があった。
 これ等の書状は、時間的なこともあったが私には読めなかったので写真におさめた(笑)
       

 
 資料によると、織田信長の浅井長政に対して行った「手筒山の戦い」や「小谷城攻め」の際に、沖島の人たちは軍船を差し出し、これらの戦で活躍し、信長から感謝状と、琵琶湖一里四方を禁漁区として島の漁師だけしか入れない特権を付与された。
 豊臣秀吉の、文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍している。
 徳川家康の、関ヶ原合戦や石田三成の「佐和山城責め」においては水軍として活躍している。
 これらのことも含め沖島の人たちは、時の権力者から、航路の警備、輸送等の重要な任務を務める見返りとして、漁業権の特権を認められ続けた。
 徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められていたが、戦後昭和26年の漁業法改正により国に買い上げて消滅した。
 また、沖島でとれる鰉(ひがい)が、大正、昭和の御大典いらい、燻製にして宮中の儀式用に献上されるのが例になっているそうな。

 次は、小雨が降るなかを「奥津島(おきつしま)神社」に向かう。
 神社までの道は、道というより、家と家の隙間という感じの細い路地を歩く。傘をさしていたので道いっぱいでこの状態ではすれ違うときは傘を横にしないとダメなのではないか、幸い誰にもすれ違うことはなかったが。
 このように民家が狭いところに密集しているため火事は大敵なため、歩行禁煙の札があり目をひいた。
 途中に郵便局があった。郵便局はなくてもコンビニはあると云う話しはよく聞くが、ここ沖島ではコンビニはないが郵便局はあった。
     

   奥津島神社 
 山の斜面に階段と鳥居があった。ここが参道入り口。
 社号標には〝式内奥津島神社〟となっているが、鳥居の扁額には〝瀛津嶋神社〟とあり難しい字が使われている。
 先にも触れたが、奥津島神社は藤原不比等によって創祀されたと伝わる。『延喜式神名帳』に記載された名神大社とされる。
 また、鳥居の社標は憲政の神様と呼ばれる尾崎行雄(愕堂)の揮毫とのこと。
 けっこう急な階段を上がると、狭い境内に舞殿と新しい本殿がある。2003年に立て直したらしい。
          

 神巧皇后(じんぐこうごう)が筑紫(福岡県)から百済に行く時に、海が大荒れで出航できず、筑前宗像神社に祈願されて無事に凱旋された事から、藤原不比等も宗像神社と同じように、この淡海(近江)で同じような一直線で結ばれた沖島に社殿を創立させた。(奥津島神社を真ん中にして、一線上に並ぶのは“白髪神社”と“日牟礼神社)
 航海の安全と五穀豊穣、水火の避難を祈願する祭りが催された。その祭りは千三百有余年間過ぎた今も、途切れなく春と秋に盛大に奉納され、また月例際も行われているらしい。(春祭りは5月8日・秋祭りは9月20日)

 奥津島神社には奥津島姫命(おくつしまひめのみこと)が祀ってある。竹生島には湍津姫命(たぎつひめのみこと)、多景島には多紀理毘賣命(たぎりびめのみこと)が祀ってある。
 この三神は、天照大神が天の真名井(まない)(琵琶湖のこと)に生んだ三神で、このことから近江高天原(たかまがはら)説が生まれた。
 
 余談ながら湖西に鎮座する白髪神社(祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)) の湖中鳥居の神額は両面に揚げられている、そのような形は他になくめずらしい。
 白髪神社を拝する場合は、湖上から遥拝(ようはい)することになるが、陸地から拝するのは、鳥居が真正面に位置する沖島から遥拝することになる。

 奥津島(瀛津島)神社の境内に社歴由緒の木製の碑がある。その中には、紫式部が詠んだ歌が記されている。
  おいつしま 守りの神やいますらん 波もさわがぬわらわえの浦
 この歌も沖島の歴史の古さを物語っている。

 ここからさらに上にあがる階段があって、少し行くと小さな祠があり。この祠から、また少し階段を上がると山神神社があるとのことだが、そこまでは行かなかった。ここには、先にも触れたが、新田義貞の部下が頭山一帯に城を構えたとの説もあるとおり、石垣が見つかっているそうだ。

 資料によると、神社の世話をする者を宮番、或いは宮世話という。42歳になる者がなり、1年間務める。交代は大晦日の深夜に行われる。
 除夜の太鼓の鳴る前に新・旧の宮世話が社務所に集まり引継をする。除夜の太鼓と同時に燈明を消し旧宮世話は帰る。新宮世話は社務所に集まり、新しい燈をともす。これを「火をかえる」「火の引継」というとのこと。

 来た道を引き返して、島の一番くびれた所の細い道を縦断して島の裏側にまわると、島の人が使われている桟橋に出た。
 あいにくの天気で、望めそうもないが、ここから比良山系が望め、先に触れた白鬚神社が望める。なのでここから遥拝してみた。
 さらにこの桟橋から島の右手の方に採石場跡が見えた。

  沖島ロマン その2 につづく
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