超スローカーブ

更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

シニアサークルで鞍馬・大原へ その2 (牛若丸)

2014-02-28 20:25:59 | 旅行
 

   その1 (牛若丸) よりつづく

     「牛若丸と鞍馬寺」
 もうひとりの「牛若丸後ちの源義経」は、幼年期「牛若」として出家して僧侶になるために、10年間母親と別れこの鞍馬の山で、己を磨くことに専念した。
 なぜ牛若丸が鞍馬山に来ることになったか、なぜこのような状況になったのか、についてもう少し詳しく書いてみる。

 源義経は平治元年(1159年)、源義朝(よしとも)と側室の常盤(ときわ)との間に生まれた。今若、乙若につづく常盤の第3子として誕生した。義朝からみると9男になる。そして、牛若と名付けられた。
 因みに、後に鎌倉幕府を開く「頼朝」は源義朝の3男で、源平の争いで義経と一緒に活躍する「範頼(のりより)」は6男である。

     常盤と牛若
 平治の乱の後、平清盛は常盤の子供3人が成長した後の報復を恐れて家来に殺すことを命じた。これを知った常盤は、3人の子供を連れ、外戚を頼り大和の国(奈良県)の宇陀に逃れて、身を隠そうとするが、縁者は隠し立てして巻き添えになることを恐れ断った。
 そこで常盤は同国の東大寺に隠れ住むこととなったが、母の関屋が平氏に捕まっていることを知った。
 「母の命を助けんとすれば、3人の子供を斬るべし、子供を助けんとすれば、老いたる母を失ふべし…」と悩んだあげく、仕方なく京都に引き返し清盛の屋敷がある六波羅へ子連れで自首したと云う。
 常盤は清盛に助けを懇願すると、清盛は美人の誉れ高い常盤に心をうつし、常盤が清盛の側室になることを条件として、母と3人の子供を赦免した。
 義経の赦免には、他にも諸説あるようだ。



 私は側室を条件とした赦免も考えられるが、ここは単純に考え、父源義朝と一緒に戦った頼朝の処罰は死刑が当然視されていたにも拘らず、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに・忠盛の正室)から「頼朝は早世した我が子家盛(清盛の異母弟)に生き写し。どうか命を助けてやっておくれ。」と食を断って清盛に助命嘆願をしたこともあって、死一等を減じて伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流刑としたことである。
 つまり、戦に参加した頼朝が流刑であれば、まだ幼くて当然戦にも参加していない常盤の3兄弟を死刑にはできなかったのではないか。

 愚考ではあるが、池禅尼が頼朝の命乞いをした理由として、「平治物語」では、早世したわが子家盛に似ているからとしているが、これだけでは理由として弱いのではないか。
 そこでもう少し調べてみると、詳しくはまた、別の機会にゆずるが、早世した家盛は清盛の身代わりで呪い殺されたとのうわさがあった。つまり、池禅尼にすれば、清盛には貸しがあったのだ、だから、頼朝をとおして、わが子家盛がいたことを、また今こうしてあなたが居られるのは、誰のお陰かと清盛に再認識させたかったのではなかったか。
 また、頼朝の流刑地についてであるが、清盛サイドからすれば遠方の伊豆国にしたのはまずかった、もっと都に近いところ、監視の目の届くところにすべきだったろう。
 もっとも鞍馬の牛若丸の脱出を許すようでは、都の近くでも意味がなかったかも。
 清盛にすれば、助命してやったのだから、よもや自分に刃向かうとは考えてもみなかったのだろう。このため監視役はあったのだろうが形骸化していたとは考えられないか。清盛は今となっては人が良すぎたのだろう。
 余談になるが、清盛と比べ頼朝は義経をはじめ身内の者も多く始末して非情の武将と云われているが、池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後も彼女の息子である平頼盛を優遇し、平氏滅亡後も頼盛の一族は朝廷堂上人及び幕府御家人として存続させている。頼朝にもこの様な面があったのだ。

 こうして助命された常盤の3兄弟の今若は醍醐寺に、乙若は園城寺に預けられ、子供のうちに僧となった。牛若は、4歳をすぎた頃に京都の山科に住む源氏ゆかりの者に育てられた。7歳(11歳との説もある)になったところで兄たちと同じように僧にするため鞍馬寺に預けられた。
 鞍馬寺は平安京の北方鎮護の寺として、尊崇されていた。常盤は、牛若を義朝の祈祷師(きとうし)だった東光坊の阿闍利蓮忍(あじゃりれんにん)に託した。
 牛若は読書をよくし、仏教や儒教を学ぶなど、学問に明け暮れる毎日を過ごしたと云う。
 そして15歳になると稚児名を「遮那王(しゃなおう)」と改めた。





     牛若と天狗
 ところが、ある夜牛若のもとに聖門坊(しょうもんぼう)と名乗る僧が現れ、牛若が平清盛に破れた源氏の大将義朝の子であること、牛若の兄源頼朝が今伊豆の国に流されていること、さらには、源氏代々の武功などの話しを聞かせた。
 16歳になっていた牛若は自分が源氏の嫡流(ちゃくりゅう)と知り、兵法書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」まで読みだし、ますます剣術の修行に励むこととなった。
 この頃を境に平家討伐を一途に思うようになり、ますます武芸に身をやつすようになった。
 夜になると密かに寺を抜けだし奥の院にある僧正ヶ谷(そうじょうがだに)へ行き、近くの貴船神社に「平氏を倒し、父・義朝の仇を討ち源氏を再興させる」と祈願した。
 そして、この地に住むと云う天狗(これはこの地で修行している山伏ではないかと思う)、を相手に、飛んで、跳ねて太刀を振りかざし腕を磨いていった。牛若は、こうして神業とも思える剣術を身に付けていった。
 後年有名な、源平合戦・屋島での「八艘跳び」なども鞍馬山での修行の成果であると云える。





     牛若と弁慶
 そんなころ、遮那王は笛をたしなむようになり、夜になると京の町に下りていった。笛を吹きながら、亡き父・源義朝や、今では平清盛のもとを去り大蔵卿藤原長成(ながなり)に嫁した母・常盤御前のことを思い出したりしていた。
 余談ながら、継父となった長成が義経の鞍馬での扶持(ふじ)を負担していた。

 ちょうどそのころ、京の都では通行人の刀を奪い取る刀強盗が出没していた。なかでも弁慶は太刀を1000本揃えようとしていた。
 弁慶は1年かけて999本の太刀を集めて、あと1本のところまできていた。その日も五条大橋の辺りで待ち伏せしているところに若武者が現れた。遮那王(牛若丸)であった。
 弁慶の「太刀を置いて立ち去れ」との要求に若武者が答えないので、弁慶は力づくで奪おうと大長刀を振り上げた。
 だが、これも鞍馬山で天狗相手に腕を磨いた成果であろう。若武者は、弁慶が大長刀を振り下ろすと素早く身をかわす。大男の弁慶よりも小柄な若武者の動きが早く、ついに弁慶は根負けした。
 そして若武者が源氏の流れをくむ遮那王(牛若丸)と知り、家来になることになった。
 これが、遮那王(牛若丸・後の義経)と弁慶の運命的な出会いの場面であった。そして2人は最後まで運命を共にすることになるのである。




     源義経 につづく 
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シニアサークルで鞍馬・大原へ その1 (鞍馬天狗)

2014-02-26 12:55:52 | 旅行
  

 1月25・26日の両日に、我が自治会シニアサークルの慰安旅行として、鞍馬・大原へ行ってきた。
 3回目の慰安旅行で旅行の積立金と相談して今回は近場の鞍馬・大原の旅にした…は幹事役の方の弁であったが、過去2回もそう遠い所ではなかった(笑)
 過去2回はメンバーの方のワゴン車に分乗しての旅であったが、今回は公共機関を利用する旅程で参加者は16名であった。
 
 行き先が近場のため午後1時に自治会の公園に集まり、最寄り駅より、琵琶湖線で山科まて行き、地下鉄東西線に乗換えて三条京阪まで、ここから京阪鴨東線に乗り終点の出町柳(でまちやなぎ)へ、ここでまた叡山電鉄鞍馬線に乗換えてで終点の鞍馬まで行ったが、近い割には乗換えが多かった。
 普通にこの間の切符を買うと1100円なのだが、世話役の方の知恵と運用で回数券などを上手く活用してそれ以下の料金で移動した筈。
 メンバーのほとんどの方が、普段はどこに行くのも車移動が多いらしく、地下鉄山科駅、三条京阪駅や出町柳駅でその変貌に驚いているようであった。
 それだけでも、今回の公共機関での旅行は成功であったかも。

 京都の中心部にほど近い京阪電車の終点駅、出町柳から叡山電車鞍馬行きに乗り、30分ほどで終点鞍馬駅に到着する。 
 電車は2両編成でローカル線の趣がある。出発してしばらくは複線で市街地を走るものの、いつしか単線となり気がつけば山の中を走り抜けていた。ほどなくして終点・鞍馬に着く。駅舎は木造で寺社風の建物で周りの景色にマッチしていた。

     



 出町柳からの鞍馬線は、私にとってもずいぶん久しぶりの乗車であった。
 京都の3大祭りのひとつ、時代祭りと同じ日の夜に「鞍馬の火祭り」があり、写真を撮りに行ったことがあったが、もう40年以上前の事なので、ほとんど初めてのようなものである。



 駅前広場で大きな「天狗のオブジェ」が出迎えてくれた。 
 電車に揺られ遠く鞍馬まで来たが、行き先は「鞍馬寺」ではない、今回の行き先は「くらまおんせん峰麓湯(ほうろくゆ)」なのだ。
 当サークルに合わせた選択であったようだ(笑)
 駅前には、くらま温泉の送迎バスが停まっていた。だが8人しか乗れない、歩けば12分ほどとのことなので我々は歩こうということになった。 
 とは云え何人かの方はこのバスに乗り込んだようだ(笑)

 パスの後を追うように歩きだしたら、すぐ鞍馬寺の大きな山門があったが今回は素通り。

          

 だが、「鞍馬寺」と云えば我々ぐらいの年代のものにとって避けて通れない人物がふたりいる。
 数々の伝説が残る、鞍馬天狗牛若丸こと源義経である。

    「アラカンの鞍馬天狗 」
 鞍馬天狗はご存知、大仏次郎氏の小説「鞍馬天狗」に出てくる「正義の剣士」であるが、記憶に残っているのは「アラカンの鞍馬天狗」である。
 鞍馬天狗は謎の勤皇の志士である。その名は鞍馬山の稚児であった牛若丸(後の源義経)に武芸を教えたとされる天狗に由来すると云う。

             

 またの名を倉田典膳(てんぜん)と言い、普段は物静かな浪人姿であるが、桂小五郎や西郷隆盛などが苦境や危機にさらされていると知るや黒い頭巾を被り、白馬に乗ってさっそうと現れる。 
 剣はめっぽう強く、近藤勇率いる新撰組や龍馬を暗殺したとも云われている佐々木只三郎率いる見廻組を向こうに回しても、決してやられることはない。 
 絶体絶命のピンチになっても必ずそこから抜け出す。
 そして、ただ強いだけではない、「義」つまり、人としての正しい道、をも持ち合わせている。
 だからたとえ敵であろうとも近藤勇や勝海舟のような人物とも心を通じ合わせているのだ。

   

   「月光仮面」
 因みに、テレビにおける私の子供時代の一番のヒーローは、「♪どこの誰かは知らないけれど …」という主題歌で始まった「月光仮面」である。
 “本格的な「テレビ映画」第1号として製作されたこの作品の主人公「月光仮面」は、白い覆面にサングラス姿で白いオートバイに乗ってさっそうと現れ、悪を懲らしめては去っていく神出鬼没のヒーローであった。
 この「月光仮面」は映画の「鞍馬天狗」をヒントとして創作されたと云う。
 俳優アラカンの功績は、小説から飛び出して小説以上の鞍馬天狗という不滅のヒーローを生み出したことである。 それが、やがて月光仮面を生みだし、そして、ウルトラマンや仮面ライダーへとつながっていったのだ。

       


     牛若丸(源義経) につづく
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「おやじサロン」一年目

2014-02-10 19:01:30 | Weblog
第1回 「おやじサロン」
我が自治会の、シニアサークルの活動のひとつとして本年2月より毎月1回「おやじサロン」と云う集まりが始まることになり今日がその第1回の日であった。 各自ビールなど飲み物、つまみ持参で...


 goo の事務局からのサービスなのか、「一年前の2月の今日、こんなブログを書いています」とメールが届いた。

 そのブログとは、「おやじサロン」のタイトルで、我が自治会のシニアサークルの企画として、月一度「おやじサロン」として集まって話しをしょうと決めた、その第一回目の様子についてのものだった。

 その前年にシニアサークルが世話役の方のご尽力で発足した。そして、行事をいろいろ考えるなかで、月に一度は自治会館に集まってお話しをしょう、ただ集まって世間話しもするが、世間話しだけで終わるのでは芸がないので、先ず最初の試みとして、メンバーの方はほとんどこれまで会社とかで何等かの仕事をやってきているので、その仕事の話しとか、勤めていた会社の属している業界の話しやそのウラ話のようなものを順に話してはどうかということになったのだ。
 それで、第一回目は幹事役でもあり、この企画の言いだしっぺと云うことで、Oさんが「広告業界について」話された。
 そのことと当サロンの経緯などをブログに取上げたのだった。

 毎月第二土曜日の午後5時に自治会館に各自ビールなどの飲み物とおつまみ持参で集まって、その後も3月、4月と行い、それぞれブロクにも取上げていた。

 そしても5月に私が講師役で話すことになり、私が仕事で係わった「潜水艦について」のお話しをしたのだが、話しの中で自然と、その会社へ入社した経緯などの質問があり、その流れで、卒業した学校やら、生まれたところにまで話しが及んだ。
 これは尤もな話しで、これまで皆さんお互いに話しはしていても、その様な詳しい自己紹介などはほとんどしていないのではないか、ほとんどブラックボックスであったのだ。

 そして6月も、初っ端から「○○さんは何処の生まれですか」と先月ような流れになり、講師の方もそれならと話すスタイルが自然と、これまでのブラックボックスされていた部分、つまり生い立ちから話し始められるようになった。

 以後からは、大体この様な生い立ちから入るようなスタイルが定着したようだ。

 このため、私の「おやじサロン」のブログも、5月までは業界の話しや仕事の話しなので書いてきたが、6月分を書く段になり、これは「個人情報」になり、許可なくブログで公開するのはダメなのではないかと思い、このことについて調べ直してみても、やはり書くのは具合悪いと判断した。
 このため第5回目はその旨を含めてブログに書いた。そしてこれ以降も同様の理由でブログには出来ないとも書いた。
、実際それ以降は「おやじサロン」についてはブログに書いていなかった。

 ブログには書かなくなったが、その後も「おやしサロン」は健在(?)で、毎月一度、順に講師役がかわって行っている。 
 今年の一月は、総会や新年会や初詣や慰安旅行など行事が多かったのでお休みしたが、2月は8日に12回目の「おやじサロン」を開いた。
 
 このサロンによって、現在12人の方のより詳しいプロフィールが分かって、今まで以上に親近間をもってお話しできるようになったのではないか。
 「おやじサロン」はその他のハイキングなどの行事と同様に、自治会の会員同士の親睦を深める一助となっていることは間違いないと思うし、これからもテーマを変えて続けて行きたいものだ。
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近江神宮初詣と宇佐山ミニ登山 その3 (近江神宮)

2014-02-07 15:10:48 | 歴史探訪
  「宇佐八幡宮」からつづく

 ひとり、宇佐八幡宮より下山して、途中に近江神宮への近道らしき道もあったが、来た道を橋の所まで戻り近江神宮への正規の参道(?)を通って近江神宮まで行った(笑)





   「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」
 中大兄皇子(後の天智天皇)は、中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)と共に、専横がつづく蘇我一族を倒した。これを「乙巳(いつし)の変」と呼ばれている。
 余談ながらこのような名前が付けられているとは知らなかった。学校では「大化の改新」の年号は645年と覚えていた。そしてこれは蘇我入鹿等を暗殺した年なので「暗殺」が「大化の改新」?と多少の違和感を長く感じていた(笑)

 その後「大化の改新」を断行した中大兄皇子は、以後20年にわたり「称制(しょうせい)」つまり即位せずに皇太子として政治を行った。
 663年に百済を救うために朝鮮に出兵したが「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、唐と新羅の連合軍に大敗してしまった。
 いつ連合軍が押し寄せて来るかと云う緊迫した状況のなかで、飛鳥から近江へ遷都を行い、大化の改新から17年後の667年に即位して天智天皇となった。
 こうした状況で近江大津宮が誕生した。



 「白村江の戦い」で大敗した後、664年に国土防衛の政策の一環として対馬・壱岐・筑後国に水城(みずき)や烽火(のろし)・防人(さきもり)を設置した。
 一方、大津宮では、我が国の憲法の基礎となる「近江令」を制定。学校制度を創始して国民の教育の道を開き、日本初の戸籍である「庚午年籍(こうごねんしゃく)」の制定、農地制度の改革ともいうべき「班田収授の法」を施行するなど政治改革を行った。 
 また当時最新の科学技術を駆使して産業振興を図られるなど、次々に新時代に向けての政策を推進され、政治経済の改革・学芸文化の創造発展に寄与された。

 国内外の困難ななかで画期的な政策を推進し、日本の運命を導かれたことから、天智天皇は開運の神・導きの神として、また産業・文化・学問の神として崇敬されていった。

    「近江神宮」
 その38代天智天皇を御祭神として、皇紀2600年を記念して同年にあたる1940年(昭和15年)11月7日、昭和天皇の御勅許を賜って創建されたのが、この近江神宮なのだ。
 因みに近江神宮は昭和天皇により創立された唯一の官社である。 近江神宮は全国16社の勅祭社の1社であり、4月20日の例祭には天皇陛下の御名代として宮中より御勅使を御差遣(ごさけん)いただいているとのこと。

 御鎮座が昭和15年なので神社としての歴史は新しいが、滋賀県・近江国の発展は大津宮に都をおかれたことに始まるとして、明治30年ころより滋賀県民の間から天智天皇をまつる神宮の創建運動が高まり、昭和に入って昭和天皇の御勅許を賜わり、滋賀県民を始め全国崇敬者の真心の奉賛(ほうさん)により創建された。

 かつて大津宮が置かれていた錦織遺跡の近く、森に囲まれた境内地は約6万坪(20万㎡)あり、朱塗りの楼門や社殿は近江造りあるいは昭和造りと呼ばれ、山麓の斜面に本殿・内外拝殿を回廊が取り囲み、近代神社建築の代表的なものとして、国の登録文化財に指定されている。

   「漏刻(ろうこく)」
 また、天智天皇が日本で始めての時計「漏刻」(水時計のこと)を造ったことから、時の祖神、時計の守護神として、崇敬を集めている。
、近江朝廷に「漏刻」を設置して、鐘太鼓を鳴らして時を打ち、初めて国民に社会生活の基本である時報を知らせた。









 これが日本の時報制度の始まりとされる。
 以後、全国の鎮守府にも漏刻が設置されていった。
 この日を記念して、毎年6月10日は「時の記念日」として1920年(大正9年)に制定された。
 毎年この日には近江神宮を時の祖神として崇敬する時計関係者の方々が中心となり、賑々しく漏刻祭が斎行されている。
 また、境内には「時計館宝物館」が設けられ、和時計をはじめ各種の古時計などを展示されている。また境内に設置された水時計や日時計や火時計は、時計業界からの献納とのこと。

   「小倉百人一首・かるた祭」
 さらに、小倉百人一首の巻頭歌(第一首目)として国民に親しまれている「秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ」は天智天皇御製ということに因み、「かるた祭」や競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月にここ近江神宮で行われている。
 この正月の名人位・クイーン位決定戦はテレビで毎年放映されてよく知られるところとなってきた。
 このほかにも高松宮記念杯歌かるた大会・高校選手権大会・大学選手権大会なども 開催されている。
 百人一首・競技かるたとのかかわりが深く、競技かるたを題材にした漫画・アニメ「ちはやふる」の舞台ともなった。

   「天智天皇陵」
 ついでながら、天智天皇の陵墓は京都山科にある、なぜ京都なのかといろいろな説もあり議論もされているようだが、、私は単純に「天智天皇の没年は672年で、天皇が亡くなった直後には壬申の乱が勃発したため、陵墓の建設は遅れ、死後28年を経た699年になってから着工したとの説もあるが、それでも平安京ができる90年以上前のことになる。つまり陵墓が先に山科に出来ていた」と考えていいのではないかと思う(笑)。
 現在の区割りでは他県になるが、大津と陵墓のある山科は案外近い位置関係にある。
 それに、山科は天皇の腹心だった「中臣鎌足」の本拠地として古くから開発されていたところなのでこんな事も案外関係したかも知れない。。
 また、天智天皇陵は被葬者に疑いがないとされる、数少ない天皇陵の一つであり「十陵の筆頭」つまり、重要な御陵の内でも一番目として、歴代の朝廷から奉幣(ほうへい)が行われ、平安時代を通じて、その忌日には一般の政務を停止し、崇福寺(すうふくじ・今は廃寺)での法要に当ることになっていたようだ。
 このことからも、後世に至るまで歴代天皇のなかでも格別の位置に置かれていたことがうかがわれる。
 また歴代天皇の即位に当っての宣命には、かならず天智天皇のことに言及されるなど、皇室の歴史のなかでも特別崇敬の深い天皇であられたようだ。
 
 余談ながら私は若い頃の一時期に、天智天皇陵のある山科の御陵(みささぎ)に住んでいたこともあったのだが、御陵地に足を踏み入れたことは一度もなかった(笑)


 石段を上がったところに朱塗りの大きな楼門が見えた。
 やはり、昭和の建築だけに、立派な造りではあるが、昭和ならこれ位は出来るだろうと、頭が先に判断してしまい、古い山門をくぐるときとは少し違う感覚があった。
 楼門からさらに進むとまた、石段があり、外拝殿があった。
 外拝殿ながら、その造りと大きさはやはり県下一のものであった。 普通はここで参拝するが、その向こうにあるのは、本殿ではなく、内拝殿であり回廊で結ばれている。そしてさらに奥に見えるのが本殿である。
 なので、本殿はほとんど見ることはできない。















 
 メンバーより一足早く近江神宮に参拝して、写真などをひと通り撮り終わったころに皆が到着した。
 楼門前の石段のところで集合写真をとり、そのあと各自それぞれ祈願して今年の初詣を終わった。

終わり
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近江神宮初詣と宇佐山ミニ登山 その2 (宇佐八幡宮)

2014-02-02 00:49:57 | 歴史探訪
   「近江大津宮」からのつづき 

 大津宮の跡の「錦織遺跡」から北に300m程で、近江神宮の杜に突き当たるところに橋がある。
 橋の手前をを左折してそこを流れている柳川に沿って、150mばかり歩くと「宇佐神宮遥拝所(ようはいしょ)」があった。
 遥拝所、つまり、遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所なのであるが、この様な場所がある意味が後でわかった。







   「宇佐八幡宮」   
 柳川に架かった橋を渡った向こうに、「宇佐八幡宮」と刻まれた石碑と大きな石の鳥居が見える。
 そこから先は参道であるが、かなり急な勾配の坂道となる。この坂道を上りながら後ろを振り返ると、もう琵琶湖と周辺の家々が降る雪の向こうにかすんで見えた。





 私は道中で写真を撮りながら歩くので、どうしてもメンバーの列の最後尾となる。遅れてはならずと気はあせるが、この急な坂は堪えた。
 急な坂道を少し上がった右手に「御足形」と呼ばれる大きな岩があった。
 この岩については神社創建の地にかかわることで、後ほどふれることになる。





 さらに、急な坂道を喘ぎ喘ぎ登ると、天智天皇の病を癒したと伝えられる、御神水の涌き出でる小さな祠「金殿井(かなどのい)」が木立の中にあったと書きたいところだが、傍を走る、西大津バイパスの宇佐山トンネルの工事でこの井戸の水脈が変ったらしくて湧き出る量が大きく減少したとのことであった(残念)
 実際、湧き水の気配は感じられなかった。下世話ながら、このようなケースでは補償とかは成り立つのだろうか(笑)








 なおも、続く坂道を神社はまだかまだかと登る。すると最後は、急な階段が待受けていた。
 やっと宇佐山の中腹の「宇佐八幡宮」の本殿にたどり着いた。
 雪が舞う寒い日であったがけっこう汗をかいた。腰を痛めていたこともあり完全にグロッキーであった(苦笑)
 持参したペットボトルのお茶を飲み少し生き返った。
 麓に遥拝所があった意味が今になりよくわかった(笑) もっとも今は車でも神社までは通れる道がついている。












   「源頼義(よりよし)」
 宇佐八幡宮は源頼朝(よりとも)の五代前にあたる源頼義(よりよし)が「前九年の役(ぜんくねんのえき)」を勝利して奥州より戻った後、この錦織の庄に住むことになり、その源頼義が建てた由緒ある神社なのだ。
 とは云っても、源頼義はあまりなじみがないが、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たる。また様々な逸話も多い「八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)」のお父さんなのだ。

 この山に九州の宇佐神宮から移した分神を祀って社殿を建てた。
 このため、この山を宇佐山と呼ぶようになったと云う。
 祭神は八幡大神(やわたのおおかみ)、つまり応神天皇のことで、普通は武勲の守り神なのだが、ここ宇佐八幡宮の場合、地域の氏神さまでもあり、また、「子供の疳(かん)の虫の神様」として知られている。

 宇佐八幡宮は古社だけに、ここの例祭は、真夜中に行われるので「夜祭り」という名がついた。
 本来、神様の降臨(こうりん)は夜間であった。
 神輿渡御(みこしとぎょ)はその古式にのっとった勇壮で荘厳な雰囲気の夜祭りとのこと。
 松明の明かりをたよりに、二社の神輿を威勢よく本殿下の御旅所まで、暗い急な坂道を下っていくさまは実に壮観であるとのこと。 参道の坂道を喘ぎ喘ぎ登ってきただけに、その壮観さはよく想像できた(笑)

 先の「御足形」はこの地に八幡大神が鎮座の折に、この岩から数羽の鳩が飛び立ち、その場所に導いたとされている。この岩に神の足跡が残されていた、との言い伝えがある。
 見ると岩に足跡らしき窪みがあった。
 この事より、八幡様の神の使いは鳩とされ。本殿の両横には青い鳩の置物(土鳩)がいっぱい並べられていた。
 
 宇佐八幡宮を参拝して、ここで小休止した。

 そのあと、この宇佐山の山頂まで登ると云うことであるが、恥ずかしながら私ひとりここでリタイヤした(苦笑)
 案内によると、ここから山頂までは、また、同じくらいの道のりで、道はさらに険しいとの事であったので、残念ではあるが山頂まで行くのは止めた。
 このため、次に寄る「近江神宮」で待っていると伝え、山頂をめざすメンバーを見送り、ひとり下山した。

   「宇佐山城」
 私は登るのをあきらめたのだが、宇佐山は標高336mの高さで、琵琶湖まで約1kmの距離しかなく、山頂からは琵琶湖が一望できるらしい。
 山頂には織田信長時代に宇佐山城が築かれていた。大手道はまったく残っていないが、かつては山麓から山頂までまっすぐの道が通じていたと推定されている。
 現在山頂の本丸跡にはNHKと民間放送のアンテナ施設が建っているとのこと。



 戦国時代、この宇佐山に織田信長が朝倉義景(よしかげ)・浅井長政の南進に備え、琵琶湖と北国街道の押さえとして森可成(よしなり)に命じて宇佐山城を築かせた。
 宇佐山城は信長が安土城より先に近江で最初に石垣による築城を行った貴重な城郭であったと云う。
 頂上に僅かに残る石垣の存在から宇佐山城は単なる陣城(じんしろ)つまり、戦のためだけの城ではなく、恒久的な山城であったと考えられている。



   「志賀の陣」
 元亀元年(1570年)、摂津で野田城・福島城の戦い(第一次石山合戦)が勃発した、このため信長自身と織田軍主力がこの戦いに投入されているおり、浅井・朝倉連合軍はこれはチャンスだと信長の背後を突くべく行動を開始した。 これを迎える宇佐山城主・森可成は信長の弟で野府城(のぶじょう)を任されていた織田信治(のぶはる)、蒲生定秀の次男の青地茂綱(しげつな)らの救援を得て、兵3千で交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖して連合軍の南進を阻もうとした。
 一方、浅井・朝倉連合軍は兵3万を坂本口に進軍させてきた。
 9月16日に森可成軍は兵1千で宇佐山城を下り坂本の町はずれで合戦となった。
 この時は大規模な合戦とはならなかったようであった。
 しかし、20日に石山本願寺法主顕如(けんにょ)の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わった。
 このためさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻に対して、可成軍は健闘を見せていたが、最後は浅井長政本隊までが、これに加わったため。ついに可成・織田信治・青地茂綱の3人は壮絶な討死をした。
 勢いづいた連合軍は同日その流れでこ宇佐山城へ攻め込んできた。
 だが城兵の強固な抵抗にあい落城には至らなかった。連合軍は仕方なく大津の馬場、松本などを放火してまわった。
 そして22日に信長に近江の状況の知らせが届き、これを知った信長は急遽、浅井・朝倉連合軍と対戦すると決め、、23日に摂津の戦線から織田軍の主力部隊を引き上げた。
 その間も宇佐山城では連合軍の猛攻を受けていたが、家老である各務元正(かがみもとまさ)らが城兵を指揮して奮闘していた。 そして24日に信長が大津から坂本に兵を進め救援に現れるまでついに落城しなかったと云う。
 この戦いで浅井・朝倉連合軍に死者1千名以上が出たと云う。
 これらの攻防を「宇佐山城の戦い」と云われている。

 駆けつけた信長は宇佐山城に入り指揮を執った思われる。
 翌25日信長主力部隊の援軍で逆に追いつめられた浅井・朝倉連合軍は、壺笠山城や比叡山などに封じ込まれる格好となった。
 
 その後、信長は延暦寺に対し、山門領の返還を条件に懐柔を試みるが、延暦寺はこれを受け入れなかった。
 これがその後の比叡山焼き討ちを起こす原因の一つになったと考えられている。
 長期戦になるかと思われたが、双方共に継戦に不安を持っていたこともあり、同年12月正親町(おおぎまち)天皇と足利義昭の調停により浅井・朝倉連合軍と織田軍は和議を結ぶことになった。
 ここまでの攻防をまとめて「志賀の陣」と云われている。

 宇佐山城は森可成討ち死にのため、その後任として明智光秀が城主となり、その後も琵琶湖西岸の監視と防衛としての重要な役割を果たしていた。

 織田信長は拠点は守りきったものの、当初の目的である野田・福島攻めを中断された上、弟の信治・信興や家臣の森可成、坂井政尚といった武将を失った。
 一方の浅井・義景連合軍も、信長を苦境に追い込みはしたが、豪雪のために撤退することになり、領土を得る事はできなかった。
 また、比叡山延暦寺はこの戦いにおいて信長の通告を無視して浅井・朝倉方についたことで翌年の比叡山焼き討ちにつながることになった。

 この戦いの隙をついて各地で反織田の挙兵があがった。
 そして将軍足利義昭が信長の影響下から脱そうとしてこれらの勢力を糾合し信長包囲網を敷いたことにより、以後信長はこの包囲網と戦う事を余儀なくされた。
 この信長包囲網は天正元年(1573年)に包囲網の重要な一角を担った武田信玄が病死するまで続いた。

   「森可成(よしなり)」
  森可成(よしなり)の名前もあまりなじみがないが、あの森蘭丸(らんまる)のお父さんである。
 また、その先祖をたどれば八幡太郎義家につながるそうだ。
 先の宇佐八幡宮を建てたのが源頼義で、その子が八幡太郎義家なので、活躍した時代は大きくずれるが、奇しくもここ宇佐山で源頼義は宇佐八幡宮を建て、その子孫にあたる森可成が宇佐山城を建てたことになる。
 これも何かの因縁か。

 可成は織田家の家臣の中では年長組で美濃衆として活躍、槍の名手で武辺者として多くの武勇伝が伝わるが、信長の上洛後は重臣として政務にも大きく関わっていたようだ。
 信長は可成の死を深く悲しみ、直後に弔い合戦として浅井・朝倉軍に協力した比叡山の焼き討ちを強行した。
 信長はこの焼き討ちの際に寺院や坂本の町はことごとく焼き払い多くの僧も虐殺したが、可成の墓所の有る聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ)だけには手出しをしなかったと云う。
 見方を変えれば、可成を討死させられたその私怨で比叡山延暦寺を焼き討ちにしたようにも思える。

      

      

 比叡山焼き討ちで武勲をあげた光秀に坂本の地が与えられ、光秀はここに坂本城を築いて宇佐山城から移った。
 このため宇佐山城はこの時点で廃城となった。



   「近江神宮」につづく
コメント
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