超スローカーブ

更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

唐門

2015-02-05 16:33:52 | 古きもの
 西本願寺と職人さんについて、前回まで、天水受けを支える天の邪鬼・遊び心の埋め木・見事な大銀杏の木、と書いてきました。
 うっかりしていました、もうひとつ。
     「国宝 唐門」
 それは、西本願寺の南側にある、「国宝の 唐門(からもん)」です。
 黒塗りに極彩色の彫刻が施された四脚門です。この門は秀吉の伏見城から移されたものとのことです。
 さすが、秀吉が作らせたものらしく、豪華絢爛で、こちらは職人の遊び心ではなく,匠の技ですね。
 豪華で精巧な彫刻の数々に、時間が経つのも忘れてしまうことから別名「日暮門」とも呼ばれています。
 写真は境内側から見たものです。

     

 贅を尽くした数々の見事な彫刻は、作品 1 点でも十分価値があるにもかかわらず、これでもかこれでもかと門の内外にちりばめられていて確かに見ごたえがありました。

     

     

 境内側はよく見えますが、外側の北小路通りからは保護柵が高くなり門が半分隠れてしまいます(笑)

     

 西本願寺は世界遺産ですが、境内には自由に入って見ることができます、外からでなく内側からゆっくりと、この唐門を日が暮れるまで自由に見ることができます(笑)
 
 この様な、国宝の門を監視する人が誰も居られないところも、ある意味実に素晴らしいことだと思っていて、ふと横を見ると、監視カメラがありました(笑)
 写真は「国宝 唐門」を裏方で警備している「防犯カメラ」です。

     

こうして犯罪やいたずらから、毎日24時間、国宝を守っているのですね。
     「新撰組 屯所」
 最後に、意外な話しとして「西本願寺と新撰組について」少々。
 新撰組の屯所と云えば、壬生の八木邸を思いうかべますよね。確かに当初は八木邸を屯所としていましたがやがて隊士が増えてくると手狭になったため、屯所を移転することになります。
 その第2 の屯所になったのが、選りによって西本願寺だったのです。
 新撰組が京都に登場したのは、文久3年(1863年)です。 その翌年には、新撰組を一躍有名にした池田屋事件や蛤御門の変が起こっています。
 その名が知れるにしたがい隊士が増え手狭になってきた。 このため慶応元年(1865年)に西本願寺に移転したのです。
 新撰組が屯所として使用したのは西本願寺の北集会所と太鼓楼です。 北集会所は、姫路市の本徳寺に一部移設された。そのため、西本願寺に残る新撰組ゆかりの建物は、写真の太鼓楼だけとなっています。

     

 次の不動堂村に屯所を移すまでの約 2年間、 ここで生活したが境内で豚を飼ったり軍事訓練をしたりで、臭いと音で寺側は大変迷惑したそうです。
 2年後に新選組は近くの不動堂村へと屯所を移していますが、移転費用まで西本願寺が全面的にバックアップしたとのこと。 
 きっと、お金の問題どころではなかったのでしょう(笑)
     「築地塀」
 もうひとつ、先の「唐門」を外側から見ようと御影堂門を出て唐門側の北小路通りへ行くと、唐門まで、写真のような築地塀が続いています。
 写真には横に筋線が見えますが、これは寺では定規筋という白い横線を入れた筋塀を築いて、横線5本(五条)を最高位として寺の格を表すようになっているそうです。

     

 いつか寺院にいかれたら、この築地塀をみて定規筋が何本あるか見てみて下さい(笑)

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