超スローカーブ

更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

金閣寺のことあれこれ雑考

2018-12-05 22:47:27 | 歴史探訪

 金閣寺は京都で最も有名な観光スポットの一つで、世界文化遺産にも登録されていることもあって海外からのお客様にもたいへん人気があります。
 金閣寺は室町時代の1397年に三代将軍足利義満の住まいとして建立されました。  
 正式には鹿苑寺(ろくおんじ)という名称ですが金閣寺の名前で親しまれています。  
 それは境内の「金閣 (舎利殿)」と云うのですがこの建物が金ぴかの黄金の建物なので自然とそう呼ばれる様になったのでしょう。  
この「金閣」を「金閣寺」と思われる方も多いようですが、金閣寺と云うお寺はありません。金閣を含めた寺院の総称が「金閣寺」なのです。
 なお、この北山の金閣寺も東山の銀閣寺も、臨済宗相国寺派大本山・相国寺(しょうこくじ)の山外塔頭(さんがいたっちゅう)の一つなのです。

   位置関係が ?   
 余談ながら、この金閣寺と銀閣寺は大本山の相国寺を真ん中にしてほぼ同じ距離でしかも直線上に並んでいるのです。  
 地図上で確認していただければわかりますが、相国寺を中心に直線上にほぼ等距離の位置に金閣寺と銀閣寺は建てられています。
   
 
 
 これは、あまり知られていませんが、偶然になったとはとても考え難く、後から銀閣寺を建てた足利義政に何等かの意図があったと考えるのがスジでしょうね。  
 その意図を知りたいものです。
   
   金閣の深い意味は ?  
 金閣の外装は実際に見学された方でも、すべてが金色であったとの印象が強いと思いますが、写真の様に実は一層は公家や皇族の住居であるとして神殿造りで金箔は貼られていません。  
 その上に武家造りの層を重ね、さらにその上が極楽浄土を表す仏殿造りになっています。  
 この二層、三層に金箔が貼られて黄金色に仕上げられています。
   
 
 
 これは一層の公家より二層の武家が上であることを暗に意味し、さらにその上の三層に出家した義満本人が公武の上に立つ事を暗示して造られたのではないかと云われています。  
 それに、金閣の頂上には、正面(南方)を向く、高さ 108cm の黄金の鳳凰 (ほうおう) が据えられています。
 中国では、鳳凰は天子の出現を予兆する想像上の瑞鳥 (ずいちょう) と云われています。
 このことも義満が天皇の座を狙っていたのではないかとする説を補強しています。
 黄金に輝く金閣にこの様な深い意味が込められているとするなら、まさに義満のすごい自己顕示欲がうかがわれますね。


 
 
 金閣寺は建立されて以降、応仁の乱も含めさまざまな災難に巻き込まれています。
 ところが、幸いなことに金閣だけは消失をまぬがれています、よって鳳凰も無事でした。
 それなのに、このスローネットの方ならご存知の方もおられると思いますが、昭和 25年に見習い僧侶の放火で金閣は全焼しました。   
 
    参考のため 当時の新聞写真です (ネットより)
 これで鳳凰も消失かと思われたのですが、何と鳳凰はその時は修理中だったのです。この時は二代目鳳凰と交換されていて初代鳳凰は運よく難を免れました。
 今は本山である相国寺境内の承天閣美術館に大切に保管されているそうです。
 この鳳凰は尾が折れているようなのですが金閣寺創建当時から残っている唯一の遺物になっています。
  
   
    参考のため 初代鳳凰の写真です (ネットより)
 黒くなっていますが、創建当時は金箔が貼られていて黄金に輝いていたと云われます。
 現在の金閣頂上の鳳凰は 4代目で 昭和62年の昭和の大修理のときから新しく取り付けられています。

   鳳凰は避雷針もかねてる ?

 この鳳凰については私見ですが、避雷針のアース線ははっきり分かるのですが、写真を拡大しでみても避雷針の先端にあたる突針がどこにも見当たりません。
 アース線は鳳凰の足に繋がれている様に見えるので、ひょっとすると銅製の鳳凰自身が避雷針の突針を兼ねているのではないかと考えます。
 (この件 ご存知の方 お知らせください)  

  
    
 



 金閣寺を見学していたら、三層目の屋根から張り出している金色の棒を指さしてあれはなに! の声が聞こえてきました。   
   あれはなに ?  

 

 これは雨樋(あまどい)なのです。

 金閣(舎利殿)の屋根は二層、三層とも柿 (こけら) 葺きで、二層は和風に造られていますが、三層は中国風に造られています。
 普通は柿葺きや檜皮葺き屋根には雨樋は設けられないことが多いのですが、金閣の三層は四隅が跳ね上がった中国風のため、強い雨が降ると雨水が屋根の中央に集りそこから滝の様に流れ落ちるため、このままでは二層の屋根を痛めてしまいます。
 これを防ぐため、雨樋を設けて、それも写真のような長い雨樋にして三層の雨水を直接鏡湖池 (きょうこち) に落ちるようにしているのです。
 この2本の突き出た黄金の雨樋は金閣の正面側からはほぼ見えないように考慮されています。
 雨樋に集まった水を後ろ側に長く伸ばすことにより2層の屋根を外して鏡湖池に直接落としています。

   

 この突き出た雨樋をさらに拡大すると、雨樋の端「止まり」の部分にまでも、足利尊氏が後醍醐天皇から頂いて、足利家の家紋であり、寺紋でもある「五七の桐 (ごしちのきり)」の紋が入っていました。  義満さすがに凝るなぁと思ったのですが、この雨樋は大正時代に設けられたらしい (苦笑)
 なお、この「五七の桐」紋は庫裏の丸瓦などにも刻まれていました。
 
 
  
   


 写真を拡大してこんなところまでして取り上げると、もっともっと目立つこちらの鎖についても触れないわけにはいけませんね。
 
 この鎖は ?

 

 鳳凰の載る露盤、その下の露盤台から柿 (こけら) 葺きの屋根上に垂れ下がっている鎖が気になりますね。   
 
   
 この鎖は何のためにあるのでしょうか。
 この鎖について書かれているものは見当たらなかった。  
 なので他の寺院にあった鎖の説明書きからなのですが、これは防火やメンテナンスのときに必要なモノらしい。
 その気になれば、この種の屋根の鎖は他の寺院でもけっこう多く見かけますね。
 これは近くで火事があったとき延焼を防ぐために、鎖の垂れ下がった場所の屋根に梯子を掛けて登り、鎖を手繰って屋根のてっぺんまで登って上かに屋根に水を撒きます。
 何しろ、柿葺きは小さな木片の集まりなので火の粉に弱い、火の粉がが飛んでくると燃えやすいものです。  当然ながらまだ消火栓も消防車もない時代です。 
 上から水を撒いて湿らせて類焼しないよう食い止めるのが精いっぱいの対応だったと思います。  
また、メンテナンス時の足がかりとしての役目もあります。
 寺院の屋根は勾配がきついため、鎖を手繰って命綱代わりにして屋根に上がり補修を行うのですね。


 以上。  金閣寺に行かれても、まずあまり気にかけられない、ある意味どうでもイイ様な事にあれこれこだわってみました (笑)  


   おまけ
 金閣の正面は、どの面かとの声が、これは「究竟頂(くっきょうちょう)」と書かれた扁額が掲げてある側です。
 なので、先ほどの正面からは雨樋は見えない様になっているとは、この扁額が見える側から見ることです。
  
 
 
   

 因みにこの扁額の初代のものは第 100 代・後小松天皇(北朝第6代天皇・南北朝の合一による最初の天皇)の宸筆 (しんぴつ) であったと云われています。
 なお、この扁額についても、鳳凰と同様に昭和 25年の放火事件の際には修理のために取り外していて難を免れたという情報もありました。

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「急がば回れ」語源の道標

2018-02-26 01:52:11 | 歴史探訪
 「急がば回れ」の格言は有名で、誰もが一度くらいは 聞いたり、使われたりしたことがある言葉だと思います。
 そんな格言の語源となったと云う道標がそう遠くないところにあることは以前に瀬田の唐橋の事を調べているときに知ったのですが、なかなか見に行くことが出来なかった。 
 たまたま草津の図書館で歴史講座があり、その帰り道を電車に乗らず旧東海道を歩いてこの目で確認してきました。

 江戸から京へ向かうとき、東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿を出発して程なく、新草津川を渡ると右手の商家の軒先に道標がありました。
 ここは次の大津宿までの道のりを瀬田の唐橋回りの陸路で行くか、琵琶湖を船で渡る水路で行くか思案する場所、つまり休憩所になっていたところです。
 旅人が杖を立てて休んだことから付いた名で矢倉立場と言ったようです。
 そこには、徳川家康も食べ命名したと云う草津名物の「うばがもち」を売る店がありました。
 歌川広重の版画「東海道五十三次」の「草津宿」はここ矢倉立場を描いています。かごかきが行き交う街道、向こうの茶屋の屋根に「うばがもちや」の看板が見えます。
 店の中では旅人が立ち寄って、うばが餅を食する様子が描かれていますが、この絵のなかの右端に「道標」もしっかり描かれていました。

   
 
 この場所と同じ所の現在の風景です。
 姥が餅やさんは草津駅近くの国道一号線に面したところへ移られました。現在このお店は瓢泉屋という瓢箪屋さんに代わっていますが、道標はそのままこの場所にあります。

   

 この道標に「急がば回れ」と書かれている訳ではありません(笑)  なかなか歴史を感じさせる風格のある道標でした。
 アップするとこの通りで「右やばせ道 右是より廿五丁 大津へ船わたし」と刻まれていて、やばせ道への道しるべなのです。

   

   

 当時京都に向かうときは、やばせ道を進み矢橋港から船で大津石場港へ渡るのが、東海道をそのまま陸路で瀬田の唐橋を渡って大津宿、京都へ向かうよりずいぶんと近道でした。
 地図上の赤線で比べてもその違いがよく分かると思います。
この地図は何か分り易いモノはないかとネット上で探し借用したモノで、説明の文字入れ等のみ私が行ったものです。

   

   

   

   

 ただ、この水路のルートは対岸の比叡山からの比叡颪 (おろし) のせいで船が出せないことや、出航しても突風で遭難することもあったようで船の運航は天候次第で不安定であったようです。
 そこで、武士が京都へ駆けつけるとき、速いけど危険がともなう水路よりも、安全で確実な陸路で「瀬田の唐橋」を回って行くべし、というような訳になってきました。

   

 このことを室町時代の落語の祖といわれる安楽庵策伝は[醒睡笑」の中に、「いそかはまはれといふ事は ものことにあるへし。遠慮なり。 宗長のよめる 武士(もののふ)のやはせのわたりの近くともいそかはまはれ瀬田の長はし」と、有名な連歌師・宗長が詠んだ歌が「急がば回れ」の語源になったとすでにこの時代に紹介しています。

 と云うわけで、この矢倉の道標が「急がば回れ」という格言の基になった道標なのです。

 ちなみに、広辞苑を引くと
 【急がば回れ】危険な近道よりも、安全な本道をまわった方が結局早く目的地につく意。成果を急ぐなら、あわてずに一見迂遠(うえん)でも着実な方法をとった方がよい。  
      との記載でした。
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眞田丸 木村重成公の首塚

2016-12-26 18:16:11 | 歴史探訪
 戦国時代を駆け抜けた眞田信繁、通称 幸村の生涯を描いた、大河ドラマ
「真田丸」も18日で最終回になりました。
 私はこれまて大河ドラマはほとんど見たことはなかったのですが、完全
リタイヤしたこともあって、今回の眞田丸は最初から毎回、時にはビデオ
のお世話になりましたが見ることができました。
 皆さんは見ておられましたか?

 終盤になってきて、秀頼四天王の一人として若き武将木村重成が登場する
ようになりました。
 木村重成の母は豊臣秀頼の乳母でした、このことから木村重成と豊臣秀頼
とは乳兄弟の関係に当たり、秀頼からの信頼も厚い側近でした。

 まだ、残暑が残る暑いころでしたが用事で彦根に出かけました、後で近く
の「宗安寺」を覗いてみたのですが思いがけないものを見かけました。
 それが木村重成公の首塚です。



 宗安寺(そうあんじ)は彦根藩の井伊家ゆかりのお寺であり、また彦根藩に
おける徳川家康の位牌奉安所でもあり、毎年藩主自ら参拝していたお寺なの
です。
 そんなお寺にどうして大坂方の木村重成の首塚があるのかと不思議に思い
ました。
 境内には駒札があり、これを読むうちに納得し、また感動しました。





 木村重成は大阪冬の陣が初陣であったのですが井伊直孝軍を相手に戦って
戦功をあげ、和平交渉では徳川方への使者も務めました。
 そして大阪夏の陣で再び井伊軍と激突することになりました。
 徳川方の調略で堀は埋め立てられ、大阪方が勝機をつかむには積極的に
打って出るしか道がなく、重成は部下を率いて若江堤(現東大阪市)に陣を
しいたのです。
 この地で両軍が激闘、重成もよく戦ったが最後は深手の傷を負い、武運
つたなく井伊軍の武将庵原助左衛門に討ち取られました。享年23歳の若さ
でした。

 重成の首はその場に居合わせた藩士安藤長三郎が「まだ功名がないので
頂戴したい」
と申し出て譲り受け、傍らに生い茂っていたすすきにくるんで刀と共に持ち
帰ったのだそうです。
 
 重成の首ば首実検をした徳川家康がいたく感動したという逸話が残ってい
ます。
 ドラマでも重成と後藤又兵衛の会話でそれとなく語られていましたが、
重成の髪から焚きこめられた香が漂っていることに気付いた家康は、
「見苦しくないよう香を焚きこめたのはよき勇士のたしなみである」と云い、
また兜の緒が解けないよう緒の端を切り落としてあることにも気付くと、
これは討死を覚悟していた証、立派な勇将であると褒め称えたと言われて
います。
 冬の陣が初陣だったのでまだ2度目の戦いにもかかわらず、その闘いぶり
も堂々としていたようです。
 それに加え、出陣前に髪に香を焚きこむ、それだけじゃなく、首を取られ
たときの事を考え食事までも慎んだと云われています。
 若武者でしたがどこかで教わったのでしょう、このタイミングで武将と
しての生きざまや武士としての潔さが発揮できるところにはある種あこがれ
るものがあります。

 ここまでは、木村重成のことでしたが、その続きがあります。
 ドラマ「真田丸」は眞田幸村が主人公なので、当然ながら以下のことには
触れられてはいませんでした(笑)

 その若き死にざまに「手厚く弔いをするるうに」とでも云われたのか、
首を持ち帰った安藤長三郎が自家の菩提寺である宗安寺にねんごろに葬った
そうです。

とは云うものの時は徳川の時代となり、まして井伊家ゆかりのお寺に、
豊臣方の武将の墓を公然と建てるわけにもいかず、長三郎は自家の墓所に
埋葬して塚を建てたようです。 
 そして明治維新まで代々に渡り「先祖の墓」として密かにお守りして
こられたとのことです。



 写真の五輪の塔が重成の首塚で、右側に3つ並んでいるのが安藤家の
お墓です。
 長三郎が埋葬した首を自家の先祖と同様に祭祀もされながら、今日まで
代々守ってこられた安藤家の方の心意気に感動しました。

 それと、宗安寺の本堂の横の地蔵堂の脇にすすきが繁茂していました。
傍の駒札には「血染のすすき」と書かれていました。
 そうですこのすすきは長三郎が重成の首をくるんでいたすすきが根付いて
繁殖したものだそうです。
 その当時は井伊家は佐和山に居館しており、麓の池で首を洗った折に
その地で自然と根付き繁殖したようなのです。



 ところがその後の鉄道の敷設などにより移植を余儀なくされ、井伊神社
脇に移植されたのですが、なぜか枯れ死に近い状態にまでなったそうです。
 そこで、このすすきに由緒深い宗安寺に移植されたところ、数ヵ月でたち
まち元気を取り戻したと云うことです。
 あの日から360余年を経て、重成の血に染まったすすきは重成の首が眠る
宗安寺に落ち着いたのです。
 私が訪れた日にも写真の様にフサフサと繁茂していました。



 私は木村重成については、大阪の陣で活躍した武将だとしか知らなかったの
ですが、たまたま訪れた宗安寺で重成のことやこの首塚にまつわるお話を境内の
駒札やスマホを駆使して知り、あらためてこの首塚と安藤家のお墓に手を合わせ
ました。
 壮烈な最期をとげた重成は当時の武士道にそった立派な生きざまであったかと、
今風に云えば「悲しくて美しい」の言葉が似合うのではないかなどと首塚の前で
思いめぐらせていました。

宗安寺では今も毎年6月に木村重成公忌を行い、彼の菩提を弔っているそうです。
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明治天皇陵

2016-02-25 23:47:51 | 歴史探訪
 先日の23日は皇太子殿下の56歳の誕生日でした。日本のその次の
天皇になられることでしょう。
 今上天皇は神武天皇から数えて125代目の天皇なのですが、この
125代続くと云う数字には世界的にみても凄いもので、おそらく最
長ではないかと思います。

   

 写真は京都伏見にある、明治天皇陵です。
 正式な陵墓名は「伏見桃山陵(ふしみももやまのみささぎ)」で、
京都の最後の天皇陵となります。
 明治天皇は122代の天皇で15歳で即位し、明治45年(1912年)7月
30日に59歳で崩御されました。遺言に基づき同年(大正元年)9月
14日東京から御霊柩列車で東海道本線と奈良線を経由してこの地に
運ばれ埋葬されました。
 日清、日露の戦いで勝利を収めた後、開国以来国民の願いであっ
た西洋列強との不平等条約を 1911年(明治44年)改正させ列強の
一員となったことを見届けての崩御でありました。

 東京に遷都された天皇のお墓がなぜここにあるのかと云えば、明
治天皇は 生前この地をお気に入られ ここに埋葬するよう遺言さ
れていた様です。先代の孝明天皇と同じく古代の制度にのっとり、
火葬ではなく土葬にされました。

 この明治天皇陵から東に斜面を降っていくと、明治天皇の皇后、
昭憲皇太后の陵墓「伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみさ
さぎ)」がありました。

   

 また、明治天皇陵の南の麓には、明治天皇の崩御の際に殉死され
た乃木希典を祀っている「乃木神社」もありました。

   

 それと何やら因縁めいているようですが、明治天皇陵の北西1キ
ロの所に、794年京都に初めて都を建てられた、50代桓武天皇の柏
原陵(かしわばらのみささぎ)があります。この二つの陵墓は森林
の道で繋がっています。

    

 京都に遷都された天皇と、京都から東京へ遷られた天皇の御陵が
ほぼ同じところにあるのです。

    
  
 この明治天皇陵ですが、小高い山の上にあり、写真の様な長い長
い一直線の手すりがない石段を登らなければなりませんでした。
 なぜ手すりが無いのか分かりませんが、この歳になると手すりが
無いのは上るときはもちろんは苦しいのですが、下りるときはもう
ほんとう恐怖でしたね。

   

 この石段は全部で230段もあります。石段は23段毎にミニミニの
踊り場で区切られています。これが10回あるのですが、なんとこの
石段の数にも意味が込められていました。
 23段は明治23年を、10回の区切りは10月を、さらに最後の23段と
御陵の前にある7段の石段を加えた30段で30日をあらわしていると
云うことです。
 これは明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対
し、教育に関して与えた勅語で、以後の大日本帝国において、政府
の教育方針を示す文書となった教育勅語の発布の日、すなわち明治
23年10月30日意味しているとのことでした。
 
コメント (1)
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真下から見上げれば、この迫力

2016-01-02 02:56:45 | 歴史探訪
 国宝姫路城は平成5年12月、奈良の法隆寺とともに、
日本で初めての世界文化遺産に登録されました。
 江戸時代以前に建設された天守が今も残る「現存12天
守」の一つであり、国宝五城にも数えられています。





 我が「彦根城」も国宝ではありますが、その大きさと
迫力は比べ物になりませんでした(苦笑)
 写真の姫路城の大天守は、1609年(慶長14年)に建築さ
れたもので、400年以上が経過した現在でも、その美し
い姿を残しています。
 特に今は平成の大修理を終えたところなので、その白
さもひときわ冴えてその雄姿をみせています。



 姫路城は白鷺城と書いて「はくろじょう」と読むのだ
そうです。なぜなら、日本の城郭の別名は音読みするの
が普通だからです。
 ところがいつしか、「しらさぎじょう」とも読まれる
ことが多くなり、最近ではメデイァでも「しらさぎじょ
う」と紹介されることが多くなりました。
 私も「しらさぎじょう」と思っていました。「はくろ
じょう」では全然イメージが湧かないですよね。

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末広がりは美しい

2015-12-23 02:43:56 | 歴史探訪
 おめでとうございます
 今年もどうぞよろしくお願いいたします。



 姫路城に限らず、日本の城、とくに三層、五層の天守閣は
下の階層へいくほど拡張していく末広がりになっています。
 破風や軒反りは、城を優美かつ壮大に見せています。
そして石垣と一体となって、よりいっそうの風格、壮麗さを
見せています。
 石垣の美しい扇を広げた形に積む、いわゆる扇の勾配で
積まれている特徴は先に投稿したとおりです。
 破風にも入母屋破風、千鳥破風、切妻破風などがをうまく
組み合わされ、日本の城の造形美を際立たせています。
 
 この屋根や石垣の優雅な曲線はなぜ生まれたのでしょうか、
私はその答は富士山にあるのではないかと考えています。
 末広がりの八の字に描くカーブは、雄大かつ優雅に思う、
つまり、富士山のイメージが日本人の美意識の根底にあるの
ではないでしょうか。

 余談ながら、姫路城は「おもてなし」で名を上げた方の様
に正面でなく少し斜め方向から見るのが一番美しく見えると
思います(笑)
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三井寺 その1

2015-04-30 01:52:17 | 歴史探訪
  もう、1ヶ月前のことになりましたが、久し振りに近江八景のひとつ「三井の晩鐘」で有名な天台寺門宗の総本山、三井寺へ花見を兼ねて行ってきました。
 京阪石坂線の三井寺駅を降りたところに、琵琶湖疏水が流れている。ここの桜並木がほぼ満開であったので、疎水沿いに歩いて三井寺へ行くことにした。

   

   

 写真の画面手前に水門があり、その先は琵琶湖です。なので、ここが琵琶湖疏水の入り口にあたります。この奥はすぐトンネルになり、山科を経て京都蹴上へと流れています。

   

 よく、滋賀の人は京都の人と言い合いになると、「そんな事いうたら琵琶湖の水止めるぞ」と脅しをかける事があります(笑)
 あまり、知られていませんが、日本は水と空気はタダの意識があるので、滋賀県人は京都へ琵琶湖の水をタダで流してあげていると思っているようです。
 ところが、実際は琵琶湖疏水感謝金の名目で毎年たいそうな対価(今年度 2億3千万円の予定)を頂いているので、このセリフはあまり大きくは云えないのですが、京都の人もあまり、この事をご存知ないようで、「金払っている」と言い返す方も少ないようです(笑)
 余談はさておき、琵琶湖疏水がトンネルに入ったところで、右折して三井寺へ向かいました。
 
 三井寺の楼門を入ったところで、拝観料として600円がいります。 この存在感のある楼門は、昨年紅葉の名所として訪れた湖南三山のひとつ常楽寺(滋賀県湖南市)にあったのですが、豊臣秀吉が伏見城に移し、さらに慶長6年(1601年)には徳川家康がここ三井寺に移築させたものです。
 家康殿もやはり、いいものはそう簡単には廃棄処分にはしないものですね。 
 この種の建物は釘を用いずに造るので、解体して移転先で再組み立てできるのもいいですね。

   

 墨書銘等から室町時代の宝徳3年(1451年)の建立と推定されています。
 三井寺の正式な名称は「園城寺」と云い、写真は「園城寺大門(おんじょうじおうもん)」と呼ばれている、入母屋造の楼門です。 楼門と云うのは、二階建ての門で、下層と上層の境には屋根の出を造らないものを云います。
 建物は均斉(きんせい)のとれた美しい姿をしています。また、桧皮葺の屋根の反り具合もうつくしいですね。

   

 この楼門は細部の彫刻なども含め、楼門はの中でも代表作と云われています。
 この大門(仁王門とも云う)を入ってすぐ右手に、南面して建つ比較的に簡素な造りの釈迦堂があります。
 秀吉による訳の分からぬ破却の後、京都御所の清涼殿を移築したものとの伝えもあります。

   

 
   

 入母屋、檜皮葺、桁行(けたゆき)7間、梁間(はりま)4間、正面1間が吹き放しで1間の唐破風向拝が付いています。
 この唐破風造の向拝は移築時に付けられたようです。写真では分かり辛いですが拡大すれば懸魚(けんぎょ)や屋根の鬼瓦には菊の文様が使われています。
 「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれているとのこと、最初は食堂として移築されたものと思われます。 
 室間時代初期に建てられた食堂建築の遺構として大変貴重な存在で明治45年に国指定重要文化財に指定されています。

   

 また、内部には須弥壇(しゅみだん)が設けられ清涼寺式釈迦如来像を安置していることから現在は釈迦堂として信仰されています。 正面の七間はすべて蔀戸(しとみど)がはめられていて、往時をしのばす雰囲気をたたえています。写真は、蔀戸が吊り上げられているところです。

   

 この釈迦堂の床下には、写真のように「亀腹」が造られていました。三井寺ではこの堂だけでなく、金堂をはじめ、他の堂の床下にはこの亀腹が造られていました。

 仏堂内は大陸から伝来した土間床の建築様式なら基壇を設けますが、日本式に床板張りの建築だと堂の周囲に縁を巡らせます。その縁の床下、縁下に設けられた白漆喰仕上げされたものが「亀腹(かめばら)」です。

   

 亀腹を設置したのは床下を露に見せるのを避けるという説があるようですが、確かにこれもあるかもしれませんが、わざわざ白漆喰仕上げにしていることは、やはり水はけを良くして、床下の湿気を出来るだけ軽減し基礎の保護をねらったものと思います。 また、堂内には仏様が祀られているので、その床下についても清浄にしておく必要があったものと思います。

 次の金堂への参道は、途中に石段があり、一段高い境内敷地にありました。

   その2へつづく
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大津事件

2015-02-21 01:45:47 | 歴史探訪
 いきなりですが、大津事件をご存知でしょうか。
 以前テレビでよく報じられていた、「いじめ」のあの事件とは違いますよ。
 歴史の教科書には必ず載っていたと思いますので、詳しくなくとも名前だけは知っておられる方も多いのではないでしょうか。
 ひと言でいうと「ロシアの皇太子が大津(大津市)で暗殺未遂に遭った」という事件です。
 参加した「旧東海道を歩こう」の大津宿に、うっかりすると見過ごしてしまいそうな小さな記念碑がありました。

     

 昨年から、ロシアとウクライナできな臭い争いが起こっていますが、日本も一歩間違えれは大変な事に巻き込まれる危機があったのです。
 ウクライナ紛争と問題の本質は全然ちがいますが、まだ発展途上であった日本が危うく強国ロシアに武力報復されかねない緊迫した、一発触発の時がありました。

 大津事件は明治24年(1891年)の5月11日に起こりました。
 このときのロシア皇太子は、後々ロシア帝国のラストエンペラーになるニコライ2世です。
 と云うことは要人中の要人で、もし世が世であれば犯人はもちろん、警備にあたった人もろとも処刑されてもおかしくはない程の大事件でした。
 この年、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライはロシア帝国海軍の艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問しました。
 ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かいました。
 いまだ小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待、公式の接待係には皇族である有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう・海軍大佐)を任命し、京都では季節外れの五山送り火まで行なったそうです。
 次の訪問予定地である横浜、東京でも歓迎の準備が進められており、国をあげての大イベント中でした。
 5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道のことです。
 ニコライ、一緒に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス、威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中のとき、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いてニコライに斬りかかり、負傷させたと云う大事件でした。
 ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はありませんでした。
 ところが、これ程の大事件であるにも拘らず、実際には犯人ですら無期懲役で済み、知事と警備担当者の罷免はもちろんですが、あとは大臣が3人ほど辞職するだけで終わりました。
 これには、明治天皇御自ら(おんみずから) ロシア皇太子に、お見舞いに行かれたこともかなり効果があったと思われます。
 それは、事件の後ニコライ2世は京都におられたのですが、明治天皇は報告を受けると即座に北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)を見舞い名代のために京都へ派遣された。
 天皇は事件翌日の5月12日早朝、新橋駅から汽車に乗り、同日夜には京都に到着された。
 その夜のうちにニコライを見舞う予定でありましたが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期されました。 天皇はひとまず京都御所に宿泊された。また、威仁親王の兄の熾仁親王(たるひとしんのう)も天皇の後を追って京都に到着された。
 翌13日に天皇はニコライの宿舎である常盤ホテル(現京都ホテル)に自ら赴いてニコライを見舞い、さらには熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸までお見送りをされました。
 天皇が謝罪され、ニコライ2世も「軽傷で済み、陛下や日本人の厚情に感謝している」と穏やかに済ませてくれたのですが、ロシア本国からの指示があり、ニコライは東京訪問を中止して、艦隊を率いて神戸からウラジオストクへと帰還してしまった。
 このため、「事件の報復に大国ロシアが日本に攻めてくる」と当時、日本国中に大激震が走ったようです。
 学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、津田巡査の出身地である山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議したと云うほどの狼狽振りだったようです。
 ところが、結果として大きな問題に発展しなかったのは、明治天皇の素早い一連の行動が、この大事件を穏便に済ませることになったのでしょう。
 昨今、食品会社の異物混入などの不祥事に、トップが直ぐに謝罪しなかったため、問題がより大きくなったケースがあるが、いつの時代においても、不祥事には、まずトップの素早い対応が求められているようですね。
 余談ながら、ニコライが軽傷で済んだことの裏の立役者として、皇太子と王子を乗せた人力車の2人の車夫の活躍がありました。
 2人この事件で警備の巡査より先に犯人とわたりあったという功績を挙げました。
 このため、2人は事件後の18日夜にロシア軍艦アゾバ号に招待された。しかも正装ではなく、法被(はっぴ)に股引(ももひき)の車夫姿で来るようにとのこと、そして軍艦ではロシア軍水兵からの大歓迎を受けたと云う。
 さらに、ニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ2000万円前後)の報奨金と1000円の終身年金が与えられることになった。
 日本政府からもきわめて異例の勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられることになったが、これは、ロシアとのバランスをとるためで、前例などを考慮せずに決めたのではないかと思う。
 現代でも先にノーベル賞が決まり、あわてて文化勲章を授与されるケースがありますね。
 そんなことで、2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなったそうです。
 ただ、その後2人は好対照の人生を歩むことになります。

 また、この大津事件は、司法の独立が守られた大きな事件でもありました。私の覚えでは教科書はむしろ、この事が書かれていたような気がします。
 ロシア皇太子の来日前に、ロシアと日本の間では、ロシア皇太子への不敬の所業に対して皇族に関する刑法規定を準用することが秘密裏に取り決められていました。大審院長であった児島惟謙(これかた)は、この取り決めの存在を知らされていましたが、犯人津田に対して刑法116条(「天皇・三后・皇太子に対し危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処す」)ではなく、通常謀殺未遂を適用するよう担当判事を説得し、その結果、大審院は津田に無期徒刑(無期懲役)の判決を下しました。
 この津田に対する量刑を確定する過程は、当時の日本において、政府からの強い圧力がありましたが、大審院長の児島惟謙はこの圧力に屈することなく、司法権の独立を確立するために奮闘しました。 このことは、司法の独立に大きく寄与し、その意味で大津事件は意義のある大事件でした。
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近江神宮初詣と宇佐山ミニ登山 その3 (近江神宮)

2014-02-07 15:10:48 | 歴史探訪
  「宇佐八幡宮」からつづく

 ひとり、宇佐八幡宮より下山して、途中に近江神宮への近道らしき道もあったが、来た道を橋の所まで戻り近江神宮への正規の参道(?)を通って近江神宮まで行った(笑)





   「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」
 中大兄皇子(後の天智天皇)は、中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)と共に、専横がつづく蘇我一族を倒した。これを「乙巳(いつし)の変」と呼ばれている。
 余談ながらこのような名前が付けられているとは知らなかった。学校では「大化の改新」の年号は645年と覚えていた。そしてこれは蘇我入鹿等を暗殺した年なので「暗殺」が「大化の改新」?と多少の違和感を長く感じていた(笑)

 その後「大化の改新」を断行した中大兄皇子は、以後20年にわたり「称制(しょうせい)」つまり即位せずに皇太子として政治を行った。
 663年に百済を救うために朝鮮に出兵したが「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、唐と新羅の連合軍に大敗してしまった。
 いつ連合軍が押し寄せて来るかと云う緊迫した状況のなかで、飛鳥から近江へ遷都を行い、大化の改新から17年後の667年に即位して天智天皇となった。
 こうした状況で近江大津宮が誕生した。



 「白村江の戦い」で大敗した後、664年に国土防衛の政策の一環として対馬・壱岐・筑後国に水城(みずき)や烽火(のろし)・防人(さきもり)を設置した。
 一方、大津宮では、我が国の憲法の基礎となる「近江令」を制定。学校制度を創始して国民の教育の道を開き、日本初の戸籍である「庚午年籍(こうごねんしゃく)」の制定、農地制度の改革ともいうべき「班田収授の法」を施行するなど政治改革を行った。 
 また当時最新の科学技術を駆使して産業振興を図られるなど、次々に新時代に向けての政策を推進され、政治経済の改革・学芸文化の創造発展に寄与された。

 国内外の困難ななかで画期的な政策を推進し、日本の運命を導かれたことから、天智天皇は開運の神・導きの神として、また産業・文化・学問の神として崇敬されていった。

    「近江神宮」
 その38代天智天皇を御祭神として、皇紀2600年を記念して同年にあたる1940年(昭和15年)11月7日、昭和天皇の御勅許を賜って創建されたのが、この近江神宮なのだ。
 因みに近江神宮は昭和天皇により創立された唯一の官社である。 近江神宮は全国16社の勅祭社の1社であり、4月20日の例祭には天皇陛下の御名代として宮中より御勅使を御差遣(ごさけん)いただいているとのこと。

 御鎮座が昭和15年なので神社としての歴史は新しいが、滋賀県・近江国の発展は大津宮に都をおかれたことに始まるとして、明治30年ころより滋賀県民の間から天智天皇をまつる神宮の創建運動が高まり、昭和に入って昭和天皇の御勅許を賜わり、滋賀県民を始め全国崇敬者の真心の奉賛(ほうさん)により創建された。

 かつて大津宮が置かれていた錦織遺跡の近く、森に囲まれた境内地は約6万坪(20万㎡)あり、朱塗りの楼門や社殿は近江造りあるいは昭和造りと呼ばれ、山麓の斜面に本殿・内外拝殿を回廊が取り囲み、近代神社建築の代表的なものとして、国の登録文化財に指定されている。

   「漏刻(ろうこく)」
 また、天智天皇が日本で始めての時計「漏刻」(水時計のこと)を造ったことから、時の祖神、時計の守護神として、崇敬を集めている。
、近江朝廷に「漏刻」を設置して、鐘太鼓を鳴らして時を打ち、初めて国民に社会生活の基本である時報を知らせた。









 これが日本の時報制度の始まりとされる。
 以後、全国の鎮守府にも漏刻が設置されていった。
 この日を記念して、毎年6月10日は「時の記念日」として1920年(大正9年)に制定された。
 毎年この日には近江神宮を時の祖神として崇敬する時計関係者の方々が中心となり、賑々しく漏刻祭が斎行されている。
 また、境内には「時計館宝物館」が設けられ、和時計をはじめ各種の古時計などを展示されている。また境内に設置された水時計や日時計や火時計は、時計業界からの献納とのこと。

   「小倉百人一首・かるた祭」
 さらに、小倉百人一首の巻頭歌(第一首目)として国民に親しまれている「秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ」は天智天皇御製ということに因み、「かるた祭」や競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月にここ近江神宮で行われている。
 この正月の名人位・クイーン位決定戦はテレビで毎年放映されてよく知られるところとなってきた。
 このほかにも高松宮記念杯歌かるた大会・高校選手権大会・大学選手権大会なども 開催されている。
 百人一首・競技かるたとのかかわりが深く、競技かるたを題材にした漫画・アニメ「ちはやふる」の舞台ともなった。

   「天智天皇陵」
 ついでながら、天智天皇の陵墓は京都山科にある、なぜ京都なのかといろいろな説もあり議論もされているようだが、、私は単純に「天智天皇の没年は672年で、天皇が亡くなった直後には壬申の乱が勃発したため、陵墓の建設は遅れ、死後28年を経た699年になってから着工したとの説もあるが、それでも平安京ができる90年以上前のことになる。つまり陵墓が先に山科に出来ていた」と考えていいのではないかと思う(笑)。
 現在の区割りでは他県になるが、大津と陵墓のある山科は案外近い位置関係にある。
 それに、山科は天皇の腹心だった「中臣鎌足」の本拠地として古くから開発されていたところなのでこんな事も案外関係したかも知れない。。
 また、天智天皇陵は被葬者に疑いがないとされる、数少ない天皇陵の一つであり「十陵の筆頭」つまり、重要な御陵の内でも一番目として、歴代の朝廷から奉幣(ほうへい)が行われ、平安時代を通じて、その忌日には一般の政務を停止し、崇福寺(すうふくじ・今は廃寺)での法要に当ることになっていたようだ。
 このことからも、後世に至るまで歴代天皇のなかでも格別の位置に置かれていたことがうかがわれる。
 また歴代天皇の即位に当っての宣命には、かならず天智天皇のことに言及されるなど、皇室の歴史のなかでも特別崇敬の深い天皇であられたようだ。
 
 余談ながら私は若い頃の一時期に、天智天皇陵のある山科の御陵(みささぎ)に住んでいたこともあったのだが、御陵地に足を踏み入れたことは一度もなかった(笑)


 石段を上がったところに朱塗りの大きな楼門が見えた。
 やはり、昭和の建築だけに、立派な造りではあるが、昭和ならこれ位は出来るだろうと、頭が先に判断してしまい、古い山門をくぐるときとは少し違う感覚があった。
 楼門からさらに進むとまた、石段があり、外拝殿があった。
 外拝殿ながら、その造りと大きさはやはり県下一のものであった。 普通はここで参拝するが、その向こうにあるのは、本殿ではなく、内拝殿であり回廊で結ばれている。そしてさらに奥に見えるのが本殿である。
 なので、本殿はほとんど見ることはできない。















 
 メンバーより一足早く近江神宮に参拝して、写真などをひと通り撮り終わったころに皆が到着した。
 楼門前の石段のところで集合写真をとり、そのあと各自それぞれ祈願して今年の初詣を終わった。

終わり
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近江神宮初詣と宇佐山ミニ登山 その2 (宇佐八幡宮)

2014-02-02 00:49:57 | 歴史探訪
   「近江大津宮」からのつづき 

 大津宮の跡の「錦織遺跡」から北に300m程で、近江神宮の杜に突き当たるところに橋がある。
 橋の手前をを左折してそこを流れている柳川に沿って、150mばかり歩くと「宇佐神宮遥拝所(ようはいしょ)」があった。
 遥拝所、つまり、遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所なのであるが、この様な場所がある意味が後でわかった。







   「宇佐八幡宮」   
 柳川に架かった橋を渡った向こうに、「宇佐八幡宮」と刻まれた石碑と大きな石の鳥居が見える。
 そこから先は参道であるが、かなり急な勾配の坂道となる。この坂道を上りながら後ろを振り返ると、もう琵琶湖と周辺の家々が降る雪の向こうにかすんで見えた。





 私は道中で写真を撮りながら歩くので、どうしてもメンバーの列の最後尾となる。遅れてはならずと気はあせるが、この急な坂は堪えた。
 急な坂道を少し上がった右手に「御足形」と呼ばれる大きな岩があった。
 この岩については神社創建の地にかかわることで、後ほどふれることになる。





 さらに、急な坂道を喘ぎ喘ぎ登ると、天智天皇の病を癒したと伝えられる、御神水の涌き出でる小さな祠「金殿井(かなどのい)」が木立の中にあったと書きたいところだが、傍を走る、西大津バイパスの宇佐山トンネルの工事でこの井戸の水脈が変ったらしくて湧き出る量が大きく減少したとのことであった(残念)
 実際、湧き水の気配は感じられなかった。下世話ながら、このようなケースでは補償とかは成り立つのだろうか(笑)








 なおも、続く坂道を神社はまだかまだかと登る。すると最後は、急な階段が待受けていた。
 やっと宇佐山の中腹の「宇佐八幡宮」の本殿にたどり着いた。
 雪が舞う寒い日であったがけっこう汗をかいた。腰を痛めていたこともあり完全にグロッキーであった(苦笑)
 持参したペットボトルのお茶を飲み少し生き返った。
 麓に遥拝所があった意味が今になりよくわかった(笑) もっとも今は車でも神社までは通れる道がついている。












   「源頼義(よりよし)」
 宇佐八幡宮は源頼朝(よりとも)の五代前にあたる源頼義(よりよし)が「前九年の役(ぜんくねんのえき)」を勝利して奥州より戻った後、この錦織の庄に住むことになり、その源頼義が建てた由緒ある神社なのだ。
 とは云っても、源頼義はあまりなじみがないが、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たる。また様々な逸話も多い「八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)」のお父さんなのだ。

 この山に九州の宇佐神宮から移した分神を祀って社殿を建てた。
 このため、この山を宇佐山と呼ぶようになったと云う。
 祭神は八幡大神(やわたのおおかみ)、つまり応神天皇のことで、普通は武勲の守り神なのだが、ここ宇佐八幡宮の場合、地域の氏神さまでもあり、また、「子供の疳(かん)の虫の神様」として知られている。

 宇佐八幡宮は古社だけに、ここの例祭は、真夜中に行われるので「夜祭り」という名がついた。
 本来、神様の降臨(こうりん)は夜間であった。
 神輿渡御(みこしとぎょ)はその古式にのっとった勇壮で荘厳な雰囲気の夜祭りとのこと。
 松明の明かりをたよりに、二社の神輿を威勢よく本殿下の御旅所まで、暗い急な坂道を下っていくさまは実に壮観であるとのこと。 参道の坂道を喘ぎ喘ぎ登ってきただけに、その壮観さはよく想像できた(笑)

 先の「御足形」はこの地に八幡大神が鎮座の折に、この岩から数羽の鳩が飛び立ち、その場所に導いたとされている。この岩に神の足跡が残されていた、との言い伝えがある。
 見ると岩に足跡らしき窪みがあった。
 この事より、八幡様の神の使いは鳩とされ。本殿の両横には青い鳩の置物(土鳩)がいっぱい並べられていた。
 
 宇佐八幡宮を参拝して、ここで小休止した。

 そのあと、この宇佐山の山頂まで登ると云うことであるが、恥ずかしながら私ひとりここでリタイヤした(苦笑)
 案内によると、ここから山頂までは、また、同じくらいの道のりで、道はさらに険しいとの事であったので、残念ではあるが山頂まで行くのは止めた。
 このため、次に寄る「近江神宮」で待っていると伝え、山頂をめざすメンバーを見送り、ひとり下山した。

   「宇佐山城」
 私は登るのをあきらめたのだが、宇佐山は標高336mの高さで、琵琶湖まで約1kmの距離しかなく、山頂からは琵琶湖が一望できるらしい。
 山頂には織田信長時代に宇佐山城が築かれていた。大手道はまったく残っていないが、かつては山麓から山頂までまっすぐの道が通じていたと推定されている。
 現在山頂の本丸跡にはNHKと民間放送のアンテナ施設が建っているとのこと。



 戦国時代、この宇佐山に織田信長が朝倉義景(よしかげ)・浅井長政の南進に備え、琵琶湖と北国街道の押さえとして森可成(よしなり)に命じて宇佐山城を築かせた。
 宇佐山城は信長が安土城より先に近江で最初に石垣による築城を行った貴重な城郭であったと云う。
 頂上に僅かに残る石垣の存在から宇佐山城は単なる陣城(じんしろ)つまり、戦のためだけの城ではなく、恒久的な山城であったと考えられている。



   「志賀の陣」
 元亀元年(1570年)、摂津で野田城・福島城の戦い(第一次石山合戦)が勃発した、このため信長自身と織田軍主力がこの戦いに投入されているおり、浅井・朝倉連合軍はこれはチャンスだと信長の背後を突くべく行動を開始した。 これを迎える宇佐山城主・森可成は信長の弟で野府城(のぶじょう)を任されていた織田信治(のぶはる)、蒲生定秀の次男の青地茂綱(しげつな)らの救援を得て、兵3千で交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖して連合軍の南進を阻もうとした。
 一方、浅井・朝倉連合軍は兵3万を坂本口に進軍させてきた。
 9月16日に森可成軍は兵1千で宇佐山城を下り坂本の町はずれで合戦となった。
 この時は大規模な合戦とはならなかったようであった。
 しかし、20日に石山本願寺法主顕如(けんにょ)の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わった。
 このためさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻に対して、可成軍は健闘を見せていたが、最後は浅井長政本隊までが、これに加わったため。ついに可成・織田信治・青地茂綱の3人は壮絶な討死をした。
 勢いづいた連合軍は同日その流れでこ宇佐山城へ攻め込んできた。
 だが城兵の強固な抵抗にあい落城には至らなかった。連合軍は仕方なく大津の馬場、松本などを放火してまわった。
 そして22日に信長に近江の状況の知らせが届き、これを知った信長は急遽、浅井・朝倉連合軍と対戦すると決め、、23日に摂津の戦線から織田軍の主力部隊を引き上げた。
 その間も宇佐山城では連合軍の猛攻を受けていたが、家老である各務元正(かがみもとまさ)らが城兵を指揮して奮闘していた。 そして24日に信長が大津から坂本に兵を進め救援に現れるまでついに落城しなかったと云う。
 この戦いで浅井・朝倉連合軍に死者1千名以上が出たと云う。
 これらの攻防を「宇佐山城の戦い」と云われている。

 駆けつけた信長は宇佐山城に入り指揮を執った思われる。
 翌25日信長主力部隊の援軍で逆に追いつめられた浅井・朝倉連合軍は、壺笠山城や比叡山などに封じ込まれる格好となった。
 
 その後、信長は延暦寺に対し、山門領の返還を条件に懐柔を試みるが、延暦寺はこれを受け入れなかった。
 これがその後の比叡山焼き討ちを起こす原因の一つになったと考えられている。
 長期戦になるかと思われたが、双方共に継戦に不安を持っていたこともあり、同年12月正親町(おおぎまち)天皇と足利義昭の調停により浅井・朝倉連合軍と織田軍は和議を結ぶことになった。
 ここまでの攻防をまとめて「志賀の陣」と云われている。

 宇佐山城は森可成討ち死にのため、その後任として明智光秀が城主となり、その後も琵琶湖西岸の監視と防衛としての重要な役割を果たしていた。

 織田信長は拠点は守りきったものの、当初の目的である野田・福島攻めを中断された上、弟の信治・信興や家臣の森可成、坂井政尚といった武将を失った。
 一方の浅井・義景連合軍も、信長を苦境に追い込みはしたが、豪雪のために撤退することになり、領土を得る事はできなかった。
 また、比叡山延暦寺はこの戦いにおいて信長の通告を無視して浅井・朝倉方についたことで翌年の比叡山焼き討ちにつながることになった。

 この戦いの隙をついて各地で反織田の挙兵があがった。
 そして将軍足利義昭が信長の影響下から脱そうとしてこれらの勢力を糾合し信長包囲網を敷いたことにより、以後信長はこの包囲網と戦う事を余儀なくされた。
 この信長包囲網は天正元年(1573年)に包囲網の重要な一角を担った武田信玄が病死するまで続いた。

   「森可成(よしなり)」
  森可成(よしなり)の名前もあまりなじみがないが、あの森蘭丸(らんまる)のお父さんである。
 また、その先祖をたどれば八幡太郎義家につながるそうだ。
 先の宇佐八幡宮を建てたのが源頼義で、その子が八幡太郎義家なので、活躍した時代は大きくずれるが、奇しくもここ宇佐山で源頼義は宇佐八幡宮を建て、その子孫にあたる森可成が宇佐山城を建てたことになる。
 これも何かの因縁か。

 可成は織田家の家臣の中では年長組で美濃衆として活躍、槍の名手で武辺者として多くの武勇伝が伝わるが、信長の上洛後は重臣として政務にも大きく関わっていたようだ。
 信長は可成の死を深く悲しみ、直後に弔い合戦として浅井・朝倉軍に協力した比叡山の焼き討ちを強行した。
 信長はこの焼き討ちの際に寺院や坂本の町はことごとく焼き払い多くの僧も虐殺したが、可成の墓所の有る聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ)だけには手出しをしなかったと云う。
 見方を変えれば、可成を討死させられたその私怨で比叡山延暦寺を焼き討ちにしたようにも思える。

      

      

 比叡山焼き討ちで武勲をあげた光秀に坂本の地が与えられ、光秀はここに坂本城を築いて宇佐山城から移った。
 このため宇佐山城はこの時点で廃城となった。



   「近江神宮」につづく
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