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更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

大津事件

2015-02-21 01:45:47 | 歴史探訪
 いきなりですが、大津事件をご存知でしょうか。
 以前テレビでよく報じられていた、「いじめ」のあの事件とは違いますよ。
 歴史の教科書には必ず載っていたと思いますので、詳しくなくとも名前だけは知っておられる方も多いのではないでしょうか。
 ひと言でいうと「ロシアの皇太子が大津(大津市)で暗殺未遂に遭った」という事件です。
 参加した「旧東海道を歩こう」の大津宿に、うっかりすると見過ごしてしまいそうな小さな記念碑がありました。

     

 昨年から、ロシアとウクライナできな臭い争いが起こっていますが、日本も一歩間違えれは大変な事に巻き込まれる危機があったのです。
 ウクライナ紛争と問題の本質は全然ちがいますが、まだ発展途上であった日本が危うく強国ロシアに武力報復されかねない緊迫した、一発触発の時がありました。

 大津事件は明治24年(1891年)の5月11日に起こりました。
 このときのロシア皇太子は、後々ロシア帝国のラストエンペラーになるニコライ2世です。
 と云うことは要人中の要人で、もし世が世であれば犯人はもちろん、警備にあたった人もろとも処刑されてもおかしくはない程の大事件でした。
 この年、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライはロシア帝国海軍の艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問しました。
 ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かいました。
 いまだ小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待、公式の接待係には皇族である有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう・海軍大佐)を任命し、京都では季節外れの五山送り火まで行なったそうです。
 次の訪問予定地である横浜、東京でも歓迎の準備が進められており、国をあげての大イベント中でした。
 5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道のことです。
 ニコライ、一緒に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス、威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中のとき、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いてニコライに斬りかかり、負傷させたと云う大事件でした。
 ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はありませんでした。
 ところが、これ程の大事件であるにも拘らず、実際には犯人ですら無期懲役で済み、知事と警備担当者の罷免はもちろんですが、あとは大臣が3人ほど辞職するだけで終わりました。
 これには、明治天皇御自ら(おんみずから) ロシア皇太子に、お見舞いに行かれたこともかなり効果があったと思われます。
 それは、事件の後ニコライ2世は京都におられたのですが、明治天皇は報告を受けると即座に北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)を見舞い名代のために京都へ派遣された。
 天皇は事件翌日の5月12日早朝、新橋駅から汽車に乗り、同日夜には京都に到着された。
 その夜のうちにニコライを見舞う予定でありましたが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期されました。 天皇はひとまず京都御所に宿泊された。また、威仁親王の兄の熾仁親王(たるひとしんのう)も天皇の後を追って京都に到着された。
 翌13日に天皇はニコライの宿舎である常盤ホテル(現京都ホテル)に自ら赴いてニコライを見舞い、さらには熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸までお見送りをされました。
 天皇が謝罪され、ニコライ2世も「軽傷で済み、陛下や日本人の厚情に感謝している」と穏やかに済ませてくれたのですが、ロシア本国からの指示があり、ニコライは東京訪問を中止して、艦隊を率いて神戸からウラジオストクへと帰還してしまった。
 このため、「事件の報復に大国ロシアが日本に攻めてくる」と当時、日本国中に大激震が走ったようです。
 学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、津田巡査の出身地である山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議したと云うほどの狼狽振りだったようです。
 ところが、結果として大きな問題に発展しなかったのは、明治天皇の素早い一連の行動が、この大事件を穏便に済ませることになったのでしょう。
 昨今、食品会社の異物混入などの不祥事に、トップが直ぐに謝罪しなかったため、問題がより大きくなったケースがあるが、いつの時代においても、不祥事には、まずトップの素早い対応が求められているようですね。
 余談ながら、ニコライが軽傷で済んだことの裏の立役者として、皇太子と王子を乗せた人力車の2人の車夫の活躍がありました。
 2人この事件で警備の巡査より先に犯人とわたりあったという功績を挙げました。
 このため、2人は事件後の18日夜にロシア軍艦アゾバ号に招待された。しかも正装ではなく、法被(はっぴ)に股引(ももひき)の車夫姿で来るようにとのこと、そして軍艦ではロシア軍水兵からの大歓迎を受けたと云う。
 さらに、ニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ2000万円前後)の報奨金と1000円の終身年金が与えられることになった。
 日本政府からもきわめて異例の勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられることになったが、これは、ロシアとのバランスをとるためで、前例などを考慮せずに決めたのではないかと思う。
 現代でも先にノーベル賞が決まり、あわてて文化勲章を授与されるケースがありますね。
 そんなことで、2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなったそうです。
 ただ、その後2人は好対照の人生を歩むことになります。

 また、この大津事件は、司法の独立が守られた大きな事件でもありました。私の覚えでは教科書はむしろ、この事が書かれていたような気がします。
 ロシア皇太子の来日前に、ロシアと日本の間では、ロシア皇太子への不敬の所業に対して皇族に関する刑法規定を準用することが秘密裏に取り決められていました。大審院長であった児島惟謙(これかた)は、この取り決めの存在を知らされていましたが、犯人津田に対して刑法116条(「天皇・三后・皇太子に対し危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処す」)ではなく、通常謀殺未遂を適用するよう担当判事を説得し、その結果、大審院は津田に無期徒刑(無期懲役)の判決を下しました。
 この津田に対する量刑を確定する過程は、当時の日本において、政府からの強い圧力がありましたが、大審院長の児島惟謙はこの圧力に屈することなく、司法権の独立を確立するために奮闘しました。 このことは、司法の独立に大きく寄与し、その意味で大津事件は意義のある大事件でした。

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