寂光院2 よりつづく
「諸行無常の鐘」「建礼門院御庵室跡」「孤雲」
鐘楼は江戸時代の建立で、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっている。
「建礼門院御庵室跡」が本堂北奥に石碑がある。そばに門院が使用したという井戸も残っている。
茶室「孤雲(こうん)」は昭和3年(1928年)の昭和天皇即位の御大典で使用された建物の部材がが京都御所から下賜され、翌年に茶室として建てられ昭和6年に茶室開きされた。床下を水が流れていると云う、ただし非公開とのこと。写真は入口の門
「大原西陵」
建礼門院徳子の陵墓は先にも書いたが、もともと境内地にあったが、明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理下に移り、境内から切り離されてすぐ近くに移されて、宮内庁治定建礼門院徳子大原西陵となった。写真では分からないが、鳥居の奥に五輪塔がある。このような仏経式の陵はめずらしい。
また、大原西陵と西が付くのは、後鳥羽天皇と順徳天皇の大原陵がすでにあるため、これに対して「大原西陵」となった。
阿波内侍(あわのないじ)たち女官の墓
御庵室から草生川まで戻ると鉄柵が見える。この鉄柵は猪、鹿、熊などが入ってくるのを防止するためのものらしい。
橋を渡り細い石段を上がると、建礼門院に仕えた女官たちの墓が5基が寄り添うように並んでいる。
5人の女官は、阿波内侍(あわのないじ)、治部卿局(じぶきょうのつぼね)・徳子の兄知盛室、大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね)・徳子の兄重衡室、右京大夫(うきょうのだいぶ)・平資盛の恋人、小侍従局(こじじゅうのつぼね)・歌人 である。
建礼門院に仕えた女官では阿波内侍が代表であろうと思うのだが墓石の大きさではそれがうかがえないのは、生前の位のようなものが左右しているのだろうか。
以上で寂光院の見学を終えて、次の見学先である三千院までは、徒歩で約30分の寂光院と三千院を結ぶコースがある。
「朧(おぼろ)の清水」
三千院につながる細い道を田畑を眺めながら歩いていくと道沿いに、注意していないと通り過ぎてしまいそうなくらいのひっそりと小さな泉がある。はるか先を行くメンバーも気付かなかったのではないか。
高さ八十センチほどの石碑があった。風化が進み、彫り込まれた字は見づらいが、ひらがな交じりで「おぼろのしみず」とある。奥の岩にできた空洞には透明なわき水がたまっている。
これが有名な「朧(おぼろ)の清水」であった。朧とは、春の季節の月光の意味である。
ここには、建礼門院の悲しいエピソードが残る。徳子が京都からはるばる寂光院へお越しの道すがら、この清水のあたりで日が暮れて、自身のお姿が月光によってこの水溜りに写った。おぼろ月夜の時、水面を通して映るやつれた姿を見て、身の上を嘆いたといわれる。
そうしたことが詩情を誘うのか、朧の清水は古来、歌枕として親しまれている。
吉田兼好「大原やいづれ朧の清水とも知られず秋はすめる月かな」
与謝蕪村「春雨の中におぼろの清水かな」
附・「歴史のアヤ」
これで、寂光院と建礼門院について終わるつもりだったが、ちょっと面白いめぐり合わせに気付いたので、最後に付け加えておく。 きっかけは、私のカミさんがネット上の何かの占いで、あなたは歴史上の誰に似ているかと云うようなサイトがあって、生年月日などを入力したところ、「北条政子」と画面にでた。
因みに、私は「聖徳太子」と表示された(笑)
北条政子のことは、頼朝の正室とか、尼将軍だった程度しか知らなかったのでチェックしたことであった。
それは、建礼門院は1155年生まれ、北条政子は1157年生まれで二人はほぼ同じ頃に生まれていたのだ。
この二人の女性の名前は共に有名であったので知ってはいたが、ふたりが活躍する時代が違っていたのでまさかであった。。
北条家も元をただせば意外なようだが桓武平氏の末裔であるから、なぜ、源氏の頭領となる頼朝の正室なのかも疑問のままであったので、いい機会だともう少しチェックしてみた。
先のブロクにも書いたが、建礼門院は当時は平徳子で、平清盛の子である。父清盛が平治の乱で源義朝を破り、その子の頼朝は死罪を免れて伊豆蛭ヶ小島に流罪となった。徳子は1172年に高倉帝に嫁入した、そのとき高倉帝20歳、徳子15歳であった。
そして1178年に言仁(ときひと・後の安徳天皇)が生まれた。 壇ノ浦で平家が滅亡した1185年から寂光院で余生を仏道に帰依し、58歳にて静かな生涯を終えた。
一方、北条政子は伊豆韮山の北条時政の長女として生れた。北条家は同地にに流罪された頼朝の監視役であった。ところが時政が都の警備を行う大番役にあたり上洛していて不在であった。
その間に政子は頼朝と恋仲になってしまったらしい。
二人の関係を知った時政は平氏一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆の代官、山木兼隆と結婚させようとした。政子は山木の邸へ輿入れされる寸前に、屋敷を抜け出し山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。政子が21歳、頼朝31歳のときである。
こうして政子が頼朝の妻となったが、頼朝はまだ流罪の身である。この頃、徳子は後の安徳天皇を出産している。
政子が頼朝の妻として表舞台に登場してきたのは、それから7年後のことであった。
1185年、源氏の頭領として頼朝は平家を滅ぼして鎌倉に幕府を開いたのだ。
私達の子供のころは、いいくに(1192年)造ろう鎌倉幕府と、語呂合わせしていた が、最近では、1185年を鎌倉幕府の始まりとしているようだ。
徳子は平家の滅亡となった壇ノ浦の戦いで捕らえられたが、咎はなく以後寂光院に入り、平家一門と、我が母、我が子安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの地で過ごした。
このように、平徳子(建礼門院)が歴史の表舞台にいるころは、政子は幕の中で、徳子が幕の中に入ったときから北条政子が歴史の表舞台に登場してきた。
共に平家の同年代の二人の女性がまったく異なった運命を歩くことになったのだが、歴史のアヤの様なものを感じた。
三千院 につづく