超スローカーブ

更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

シニアサークルで鞍馬・大原へ その7 (大原寂光院 3)

2014-05-10 01:45:03 | 旅行


   寂光院2 よりつづく

   「諸行無常の鐘」「建礼門院御庵室跡」「孤雲」   
 鐘楼は江戸時代の建立で、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっている。



 「建礼門院御庵室跡」が本堂北奥に石碑がある。そばに門院が使用したという井戸も残っている。

     

 茶室「孤雲(こうん)」は昭和3年(1928年)の昭和天皇即位の御大典で使用された建物の部材がが京都御所から下賜され、翌年に茶室として建てられ昭和6年に茶室開きされた。床下を水が流れていると云う、ただし非公開とのこと。写真は入口の門



   「大原西陵」
 建礼門院徳子の陵墓は先にも書いたが、もともと境内地にあったが、明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理下に移り、境内から切り離されてすぐ近くに移されて、宮内庁治定建礼門院徳子大原西陵となった。写真では分からないが、鳥居の奥に五輪塔がある。このような仏経式の陵はめずらしい。

     

 また、大原西陵と西が付くのは、後鳥羽天皇と順徳天皇の大原陵がすでにあるため、これに対して「大原西陵」となった。

   阿波内侍(あわのないじ)たち女官の墓
 御庵室から草生川まで戻ると鉄柵が見える。この鉄柵は猪、鹿、熊などが入ってくるのを防止するためのものらしい。
 橋を渡り細い石段を上がると、建礼門院に仕えた女官たちの墓が5基が寄り添うように並んでいる。

     

 5人の女官は、阿波内侍(あわのないじ)、治部卿局(じぶきょうのつぼね)・徳子の兄知盛室、大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね)・徳子の兄重衡室、右京大夫(うきょうのだいぶ)・平資盛の恋人、小侍従局(こじじゅうのつぼね)・歌人 である。
 建礼門院に仕えた女官では阿波内侍が代表であろうと思うのだが墓石の大きさではそれがうかがえないのは、生前の位のようなものが左右しているのだろうか。

 以上で寂光院の見学を終えて、次の見学先である三千院までは、徒歩で約30分の寂光院と三千院を結ぶコースがある。

     

   「朧(おぼろ)の清水」   
 三千院につながる細い道を田畑を眺めながら歩いていくと道沿いに、注意していないと通り過ぎてしまいそうなくらいのひっそりと小さな泉がある。はるか先を行くメンバーも気付かなかったのではないか。
 高さ八十センチほどの石碑があった。風化が進み、彫り込まれた字は見づらいが、ひらがな交じりで「おぼろのしみず」とある。奥の岩にできた空洞には透明なわき水がたまっている。
 これが有名な「朧(おぼろ)の清水」であった。朧とは、春の季節の月光の意味である。



 ここには、建礼門院の悲しいエピソードが残る。徳子が京都からはるばる寂光院へお越しの道すがら、この清水のあたりで日が暮れて、自身のお姿が月光によってこの水溜りに写った。おぼろ月夜の時、水面を通して映るやつれた姿を見て、身の上を嘆いたといわれる。
 そうしたことが詩情を誘うのか、朧の清水は古来、歌枕として親しまれている。
 吉田兼好「大原やいづれ朧の清水とも知られず秋はすめる月かな」
 与謝蕪村「春雨の中におぼろの清水かな」

   附・「歴史のアヤ」
 これで、寂光院と建礼門院について終わるつもりだったが、ちょっと面白いめぐり合わせに気付いたので、最後に付け加えておく。 きっかけは、私のカミさんがネット上の何かの占いで、あなたは歴史上の誰に似ているかと云うようなサイトがあって、生年月日などを入力したところ、「北条政子」と画面にでた。
因みに、私は「聖徳太子」と表示された(笑)
 北条政子のことは、頼朝の正室とか、尼将軍だった程度しか知らなかったのでチェックしたことであった。

 それは、建礼門院は1155年生まれ、北条政子は1157年生まれで二人はほぼ同じ頃に生まれていたのだ。
 この二人の女性の名前は共に有名であったので知ってはいたが、ふたりが活躍する時代が違っていたのでまさかであった。。
 北条家も元をただせば意外なようだが桓武平氏の末裔であるから、なぜ、源氏の頭領となる頼朝の正室なのかも疑問のままであったので、いい機会だともう少しチェックしてみた。

        

 先のブロクにも書いたが、建礼門院は当時は平徳子で、平清盛の子である。父清盛が平治の乱で源義朝を破り、その子の頼朝は死罪を免れて伊豆蛭ヶ小島に流罪となった。徳子は1172年に高倉帝に嫁入した、そのとき高倉帝20歳、徳子15歳であった。
 そして1178年に言仁(ときひと・後の安徳天皇)が生まれた。  壇ノ浦で平家が滅亡した1185年から寂光院で余生を仏道に帰依し、58歳にて静かな生涯を終えた。
 
 一方、北条政子は伊豆韮山の北条時政の長女として生れた。北条家は同地にに流罪された頼朝の監視役であった。ところが時政が都の警備を行う大番役にあたり上洛していて不在であった。
 その間に政子は頼朝と恋仲になってしまったらしい。
 二人の関係を知った時政は平氏一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆の代官、山木兼隆と結婚させようとした。政子は山木の邸へ輿入れされる寸前に、屋敷を抜け出し山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。政子が21歳、頼朝31歳のときである。
 こうして政子が頼朝の妻となったが、頼朝はまだ流罪の身である。この頃、徳子は後の安徳天皇を出産している。
 政子が頼朝の妻として表舞台に登場してきたのは、それから7年後のことであった。
 1185年、源氏の頭領として頼朝は平家を滅ぼして鎌倉に幕府を開いたのだ。
 私達の子供のころは、いいくに(1192年)造ろう鎌倉幕府と、語呂合わせしていた が、最近では、1185年を鎌倉幕府の始まりとしているようだ。
 徳子は平家の滅亡となった壇ノ浦の戦いで捕らえられたが、咎はなく以後寂光院に入り、平家一門と、我が母、我が子安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの地で過ごした。
 このように、平徳子(建礼門院)が歴史の表舞台にいるころは、政子は幕の中で、徳子が幕の中に入ったときから北条政子が歴史の表舞台に登場してきた。
 共に平家の同年代の二人の女性がまったく異なった運命を歩くことになったのだが、歴史のアヤの様なものを感じた。


   三千院 につづく
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シニアサークルで鞍馬・大原へ その6 (大原寂光院 2)

2014-05-01 13:52:43 | 旅行


   寂光院1 よりつづく

   「寂光院本堂」「書院」
 焼失前の寂光院本堂の内陣や柱は、飛鳥・藤原様式および平家物語当時の様式を改修の度ごとに残しながら後世に伝えられたものであった。
 外陣は慶長8年(1603)に豊臣秀頼が片桐且元を工事奉行として修理させた桃山様式のものであった。
また、その後の江戸時代初めには、豊臣秀頼や淀君、徳川家康らが再興に手を尽くしている。
 しかし、本堂は2000年(平成12年)に放火で焼失してしまった。
 当時の住職の「すべて元の通りに」を合言葉に、焼け残った木組みや部材から材木を吟味し、平成17年に再建された。
 なので現在の本堂はまだ新しいが、造りとしては古式通りに忠実に復元されたものであると云う。





 本堂前、西側の風情ある庭園も「平家物語」に描かれていて、ここも放火の前までは「汀(みぎわ)の池」を中心にして樹齢千年の姫小松や汀の桜、苔むした石などののたたずまいが当時もこの様な風情ではなかったかと思わせるものであったようだ。
 私は放火前の寂光院を見学したことはあったのだが、当時はこれ等の歴史的な経緯にあまり興味もなかったので、たぶん何の思いも無かったことだろう(苦笑)

   「汀の池」「姫小松」「汀の桜」
 汀の池の「姫小松」は平家物語の大原御幸に登場する。
  池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 
  中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色
と詠まれた松のことである。
 文治2年(1186年)の春、建礼門院が花摘みから帰って来て、後白河法皇と対面する場面である。
 平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた建礼門院徳子をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れたのだ。
 わずか数年前までは皇后の位にいて何の苦労もなかった方のその後の思いもしなかった数々の辛い思いを、まさにこの世は無常なりと、ひたすら念仏往生をねがう建礼門院の姿に、後白河院も涙した、と云うシーンである。
 この「姫小松」も放火の折りに焼けただれた。それでも、痛々しい姿ながら何とか頑張って立っていたが、2005年に遂に枯れ死してしまった。
 現在は御神木としてそのままの位置で祀られている。
 この松に「藤(フジ)が紫色の花をつけからまっていた」と描かれているのだが、今はとても想像出来ない。
 すでに枯れ死しているので、何らかの処理をされていて、少しは御神木らしいが、まだまだ痛々しい姿に思えた。

 

 「汀の桜」は汀の池畔に立つこれも平家物語ゆかりの桜である。後白河法皇が建礼門院を訪ね、「池水に汀の桜散りしきて 波の花こそ盛なりけれ」と詠んだ。
 この「汀の桜」も本堂火災で被災してしまった、現在はその子孫の桜が元の位置に植えられている。
 なお、「汀の池」はこの池の形が「心」の字になっていて、「心字の池」とも呼ばれている。

   「四方正面の池」「玉だれの泉」「雪見燈籠」
 「四方正面の池」は本堂の東側にある池で、四方どこから見ても正面となるように作庭された回遊式庭園となっている。
 この池には黄や緋、白色の鯉が悠々と泳いでいた。苔の生えた岩と赤い南天の実がひときわ鮮やかであった。



 「玉だれの泉」は岩清水を引いて三段の滝にして落としている。滝は一段一段高さと角度が異なっていて三つの異なる音色が一つに調和するようにできているとのこと。
 だが私には音色はよく分からなかった(苦笑)

 本堂ナナメ前の「雪見燈籠」は豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から移したものと云われている。



 上から順に宝珠、軒先が花咲形の笠、五三の桐紋透し彫り、上部に欄間、格狭間の煙出しの火袋、円形の台、そして猫脚と云われる三脚の脚になっていて凝った造りになっている。


 本堂の周りだけでも、いろいろと謂れのあるものが多い。

   「本堂」「六万体地蔵菩薩」「勅額」
 次に本堂の中へ入った。
 旧本尊の木造地蔵菩薩立像(重要文化財)は、寛喜元年(1229年)の作で、像高256.4センチの大作であった。
 像内に3,417体の地蔵菩薩の小像ほか、願文や経典5巻など多くの納入品が納められていた。
 また、像の周囲にも3,210体の小さな地蔵菩薩像が安置されていた。かつては約6万もの地蔵に囲まれていたといわれ「六万体地蔵菩薩」とも称されていた。

 2000年に心ない者の放火により、本尊は大きく焼損してしまった。 本尊の周囲を埋めつくすように並んでいた小さな地蔵菩薩像も9割ほどが焼けてしまった。
 一方、本尊の中に納められていた「像内納入品」は、いわゆる「胎内仏」を含めてすべて無事であった。

 本尊は財団法人美術院において劣化を防ぐために3年がかりで樹脂を塗るなどの修理を施されて、こんにちも「木造地蔵菩薩立像(焼損)」の名称で、像内納入品ともども重要文化財に継続して指定されている。
 そして現在は本堂よりも奥の高台にある耐火構造の収蔵庫に安置されていて、特定日のみ一般に公開されているとのこと。
 
 新しい本堂には、国宝修理所の小野寺久幸仏師によって、形や大きさはもとより、鎌倉時代の制作当時そのままの美しい彩色を施されて元通りに復元された新たな木造地蔵菩薩立像が安置された。  そして本堂の落慶式と同時に、地蔵菩薩に魂入れの儀式として入仏式が厳修された。



 
 また、堂内にあった建礼門院徳子の像と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものと云う)も焼けてしまったが、現在は本尊と同様に建礼門院徳子と阿波内侍の像も新しく木造で作り直されて、本尊の左奥の厨子には建礼門院が、右奥には阿波内侍の木像が安置されている。

           

 
 建礼門院坐像は、木造、ヒノキ材の寄木造で、女性像には珍しく結跏趺坐(けっかふざ)の座り方で、浄土宗の墨染めの衣を着している。現在の寂光院は天台宗であるが、中近世には天台・浄土兼修の尼僧寺院であったからだそうである。

 建礼門院が臨終に際し、阿弥陀仏の御手にかけてある五色の糸の一端を持って念仏を唱えたと云う五色の糸も作られていた。
 順に移動して私もその先を握り手を合わせた。

 本堂内陣の正面に掲げられた「勅額(ちょくがく)」には、淀殿の寄進により寂光院が再興されたとの意味のことが書かれているらしい。元もとの扁額は豊臣秀頼が寄進したという。ただ、これも本堂焼失の際に失われたため、現在のものは復元されたものが掛かかっている。

   

   「鳳智松殿」「胎内仏」「六字名号髪繍」「御船板」「能面」
 鳳智松殿(ほうちしょうでん)は平成18年に本堂復興を記念して建てられた宝物殿であって「平家物語」ゆかりの文化財などを数多く展示公開している。
 焼け残った元の本尊の胎内にあった小さな地蔵菩薩の像は3417体全部が無事であった。また内陣壁面や本尊脇にも多数の小仏が並んいたが幾つかの小仏は焼失を免れた。
 これ等の小仏や災いを逃れた教典等貴重な品々が展示されていた。





 その他に、建礼門院の髪を用いて刺繍にしたと云われている「六字名号髪繍(はっしゅう)」があった。六文字すべてが髪で刺繍されていると云う。
 安徳天皇が壇ノ浦で乗っていた御座船(龍船)の船板の一部とされる「御船板」なるものがあった。
 また、火災により枯死した姫小松を用いて、大原御幸ゆかりの「能面」が3種作られて展示されていた。

   

   



 そして、先のブログに載せた、放火事件を報じる新聞記事や火災の時の写真なども展示されていた。

   寂光院3 につづく
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