超スローカーブ

更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -日野町-

2013-07-30 13:22:37 | 歴史探訪

             

 前回のAコースにつづいて、6月30日に 歴史探訪情報発信 Bコースの「本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -日野町- 」のツアーに参加してきた。
 このツアーも前回同様、ブロガーによる滋賀の紹介をテーマに滋賀県教育委員会が主催されたもの。

 近江八幡駅に10時集合で県庁バスで今回のキーワードである、蒲生氏郷の里である日野町に向かった。

 このバスが走る道が昔の街道で八風街道、それから、御代参街道と云う昔からある街道をを通って日野町に入った。
 その他にも今回は通らなかったが、八幡・日野の近くには、安土街道や千草街道や山街道などが走っている。

 今回のテーマにある「本能寺の変」はご存知、天正10年6月2日未明明智光秀が主君織田信長を京都本能寺で殺害したあの事件である。
 この歴史上あまりにも有名な出来事であるが、未だに多くの謎が残されている。
 たしかに「なせ光秀が謀反を…」という動機についての謎が最大であって、先日発売された朝日出版の日本の歴史、創刊号の見出しに「光秀謀反の理由は四国攻めにあった!!」と大きく書いて特集を組んでいたが、今もって人気(?)のある題材である。

 日野城城主として、この歴史上の大きな出来事「本能寺の変」にかかわった、蒲生賢秀・氏郷 を中心にして、日野の町を取り上げてみた。
 以下の6ブロックにわけて、もう少し詳しく書いてみた。

   本能寺の変 前後の織田信長と周辺(お浚い)

   本能寺の変 前後の蒲生賢秀と周辺

   本能寺の変 前後の蒲生氏郷と周辺

   日野の名所・旧跡

   日野周辺の街道

   日野の町とその他

 今回は「本能寺の変」と蒲生氏郷がテーマであって、その様な関係のところばかりの見学であった。
 ところが日野にはもうひとつの顔がある。ご存知「日野商人」の町なのだ。
 こちらに関係する名所・旧跡も多い。いずれ、この「歴史探訪」でも取上げられると思うので、「日野商人」については、その時に書いてみたい。

 今回の見学にお世話になった、皆さん本当にありがとうございました。


    ★★★ お知らせ ★★★

 滋賀県教育委員会が行っている 一般参加の「歴史探訪]のイベントが今年も数多く予定されています。

 下記のURLにて近江歴史探訪のイベントがリストアップされています。
     近江歴史探訪イベントは ここ 

        興味のある方はチェックしてみて下さい。


 また、この様なメールも届きました。
  興味のある方はチェックしてみて下さい。

【探訪】長浜歴史見聞学シリーズ(横山丘陵北部の古墳群)

標記の探訪会が開催されますので、お知らせします。
詳しくは別添のPDFおよびURLをご覧ください。

●申し込み・問い合わせ先(平日9:00~17:00)
長浜市教育委員会 文化財保護センター
電話:0749-64-0395
FAX:0749-62-6357

【日時】8月3日(土)午前8時30分~(2時間程度)※荒天中止
【集合場所】:長浜市文化財保護センター(長浜市東上坂町981)
【定員】30名(事前申込先着順)
【申込み】8月1日までに住所・氏名・電話番号を電話で文化財保護センターまでお知らせください。
【持ち物】水筒、タオル、ハイキングに適した服装・靴、虫よけ(山の中に入ります)

★長浜市HP
http://www.city.nagahama.shiga.jp/index.cfm/8,28805,12,109,html?20130621093041734

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 近江歴史探訪
 
  担当:北村圭弘

・滋賀県教育委員会文化財保護課
TEL 077(528)4674/FAX 077(528)4956
・滋賀県商工観光労働部
 観光交流局しがの魅力企画室
 TEL 077(528)3741/FAX 077(521)5030

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8月3日(土)【探訪・講座】小谷城の最後の数日を追体験する~水の手道から京極丸へ~

標記の探訪・講座が開催されますので、お知らせします。
詳細は別添のPDFもしくはURLでご確認ください。

【参加申し込み・問い合わせ】
〒529-0312
滋賀県長浜市小谷郡上町139
小谷城戦国歴史資料館
TEL/FAX:0749-78-2320
E-mail:odanijou-s@maia.eonet.ne.jp

日 時:平成25年8月3日(土)10:30~16:00
場 所:長浜市小谷郡上町草の根会館および小谷城跡周辺
講 師:北村圭弘氏(滋賀県観光交流局・併任 滋賀県教育委員会文化財保護課)
定 員:50名(事前予約必要)
参加費:500円(企画展観覧料、保険料ほか)
【詳細】小谷城戦国歴史資料館HP
http://www.eonet.ne.jp/~odanijou-s/

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【探訪】湖東に残る城跡と武将を訪ねて

標記テーマで、下記4回の探訪会が開催されますので、お知らせします。
詳しくは別添PDFをご覧ください。

★お問い合わせ・お申し込み(4回とも)
【多賀観光協会】
〒522-0341滋賀県犬上郡多賀町多賀389-1
TEL/FAX:0749-48-1553
メール:taga-kankou@iris.eonet.ne.jp

●9月28日(土)多賀町
寺院勢力が築いた敏満寺城跡と近江源氏・佐々木氏の四天王楢崎氏の館跡高源寺を訪ねて

●10月12日(土)彦根市
近江境目の城佐和山城跡を訪ねて

●10月26日(土)豊郷町
戦国の激変の中で生き残りを求めた那須・高野瀬・吉田・目加田・赤田城跡を訪ねて

●11月9日(土)甲良町
バサラ大名佐々木道誉築城の勝楽寺城跡を訪ねて

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 近江歴史探訪
 
  担当:北村圭弘

・滋賀県教育委員会文化財保護課
TEL 077(528)4674/FAX 077(528)4956
・滋賀県商工観光労働部
 観光交流局しがの魅力企画室
 TEL 077(528)3741/FAX 077(521)5030

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日野の名所・旧跡

2013-07-28 16:36:16 | 歴史探訪

                                  




6月30日に 歴史探訪情報発信のBコース「本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -日野町-」のツアーに参加してきた。
 今回のテーマ「本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -日野町-」であり、先のブログで「本能寺の変」、「蒲生氏郷」、それに父親の「蒲生賢秀」について、お浚い(おさらい)をおこなった。
 それで、今回は蒲生氏郷の生まれ育った日野町のゆかりのある所を順に紹介してみる。
 ただ、見学したところは時間的なことも考慮されてのことと思うが、主催者の方で決められた所なので、日野町の数ある名所・旧跡の一部であることをお断りしておく。
 いずれ、また別のテーマで日野町を探訪する企画があれば、参加させて頂き、今回漏れたところをじっくりと見てみたい。


 「佛智山信楽院(ぶっちさんしんぎょういん)」

 奈良時代に聖武天皇の勅願により開創されたと伝えられているが詳細は定かでないらしい。
 中世この地の領主で、後に日野城主となった蒲生家の菩提寺として、また蒲生貞秀の廟所として1349年に蒲生高秀が再興した。

 貞和5年(1349年)蒲生高秀が信楽荘内の牧(現滋賀県信楽町)にある「紫香楽寺」の古仏をもらい受け、小御門(こみかど)城の馬場に小堂を建て安置したのが始まりで、明応7年(1498年)貞秀がこれを音羽城内に移し阿弥陀寺(栗東市)の宗真を迎えて中興開山した。
 天正12年(1584)蒲生氏氏郷が伊勢(松阪市)、会津黒川(会津若松市)へと転封されて、大檀那を失い寺院は荒廃した。
 そこで慶長12年(1606年)旧臣が氏郷の祖父定秀の隠居所のあった現在地に再興した。

 先ず入口から驚かされた。表門が見事である。
 四脚門で柱は円柱、精緻な透かし彫りの彫刻で埋め尽くされている。
 表門をくぐると、境内はそんなに広くはないが県指定の有形文化財の本堂や鐘楼、書院などがあり、閑静な中に落ち着いた雰囲気であった。

                            

 本堂への上がり框のところが前土間形式になっていて、あまり見かけないものだったので写してみた。
このような土間に入って履物を脱ぎ、階段数段を上がると云う形の浄土宗の本堂である。
 この本堂の天井には狩野四代永敬の下で画法を学んだ日野出身の江戸期の絵師高田敬輔(たかだけいほ)が揮毫する、「雲竜」、八大龍王、韋駄天などの水墨画が描かれている。

 雄渾な筆力で描かれた雲竜には大きさもあるがその迫力には圧倒された。
 本堂の須弥壇中央には木造阿弥陀如来坐像が安置されている。
 本尊の阿弥陀仏は、蒲生貞秀が戦いに出るとき、阿弥陀仏を槍の先にひっかけ念仏を唱えながら戦ったことから「槍かけ本尊」とも呼ばれているらしい。
 蒲生氏郷は文禄4年(1595年)に京都で没したので大徳寺に葬られた。お墓は大徳寺黄梅院にある。
 ここ「信楽院」の境内墓地にはには「蒲生氏郷の遺髪塔」がある。(会津若松の興徳寺にも空風火水地の五文字を刻した五輪塔がある)

                                   


 「馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)」

 当社は欽明天皇6年(545年)、北後方にそびえる綿向山の山頂に創建され、延暦15年(796年)に現社地に遷座されたという。
 現在も綿向山上にある大嵩(おおだけ)神社を奥宮としている。
 延喜式内社の馬見岡神社二社の一社で、もう一つは近江八幡市馬淵町の馬見岡八幡であるとのこと。
 後白河天皇、後鳥羽天皇などの勅額(ちょくがく)を受け、中世から近世初頭にかけてこの地を支配し城下町を築いた蒲生家が氏神として代々庇護してきた。
 さらに、江戸期に全国に雄飛した日野商人の崇敬も厚く、とくに18世紀初頭の祭礼から登場した二層露天式の曳山19基(現在は16基)は、日野商人の財力によるものである。

本通から延びる約300mのまっすぐな堂々たる参道の途中に松の木が何本か生えているところがある。
 これが「若松の森」と呼ばれ、氏郷が会津黒川に移った時、この森にちなんで、黒川の地を若松と名づけたと云われている。

 そして、正面、老杉巨木の茂る森の中に鳥居と社殿が見えてきた。

                                          


 御手洗川が中程を東から西に流れ、後方に拝殿本殿が、その東側に神楽殿、西側に手水舎・神馬舎・絵馬殿が並ぶ。
一隅に、鎌倉時代の様式をとどめる石燈籠(国重文)が建つ。

 神社内は宏壮で、拝殿・本殿をはじめ、石橋や石燈籠はその造りが立派なものであった。これもすべて江戸時代の日野商人が寄進したとのこと。

                             

 今年はもう終わったが、毎年神社の春の例祭が、5月2~3日にかけて行われる。
 豪華な曳山が登場する日野祭で、各町内から囃子にのせて繰り出した曳山が神社に向かう。通りに面した塀の透かし窓からその祭りを見るのも、昔ながらの日野の風物詩である。この祭りは県の無形民俗文化財に指定されている。
 このお祭りも機会があればぜひ見てみたいお祭りである。


 「中野城跡(日野城跡)」

 最初は音羽城の支城砦(とりで)として築かれ、天文2年(1533年)より蒲生定秀が当主となり、ここを本城とし3年ほどかけて拡張・改築し本格的な城とした。
 史的には日野城というが、日野町には中世蒲生氏が築いた音羽城もあるため区別する必要があり、日野の地域名をとって中野城とも呼ばれる。

 蒲生定秀・賢秀・氏郷の3代にわたる蒲生家の居城となった。
 現在の日野市街地は中野城の城下町として、町づくりされて発展してきた。

 江戸時代以降の開墾によって、城址の南側・西側は日野ダムに水没しているため、現在では本丸跡の北側を中心に土塁や堀の一部が残るのみである。
 なお、土塁上に立つ神社や石垣は江戸時代のものらしい

 本丸は現在の神社南側から旅館・駐車場のあるところあたりで、城域は本丸のさらに南側に展開されていたがダム湖により消えてしまった。

 城址であるが、周辺を含めて大きく変貌していて現在残っているものが土塁(どるい)と堀の一部のみで印象的にはあまり城跡という感じがしなかった。
 この写真のところも林のようで、ガイドさんの説明がなければ、何も気付かないが「空堀跡」とのこと。説明をされてもイマイチ、ピンとこない風景であった。
 また本丸には復元整備された「蒲生氏郷公産湯の井戸」があった。
 蒲生氏は蒲生賢秀の代に織田信長の臣下となり、天正10年(1582年)、「本能寺の変」が起こった時に、賢秀とその子氏郷は安土城二ノ丸の女衆(信長の妻子、側室たち、皇女、乳母)を迎え入れ、明智光秀と応戦の準備をしたのがこの城である。

                            


 天正12年(1584年)氏郷は伊勢国松ヶ島に移った後は、田中吉政、長束正家と城代が代わり、慶長年間に廃城となった。

 その後江戸期に入った、元和6年(1620年)に、市橋長政が蒲生郡・野洲郡と河内国の一部の2万石を与えられ、日野中野城の一部を利用し仁正寺(にしょうじ)藩の陣屋を築いた。
 陣屋を中心として陣屋町が広がっていった。藩主市橋氏は江戸全期に渡り配置替えなく仁正寺藩を領した。
 文久2年(1862年)には仁正寺藩から西大路藩へと名称を改めた。
 そして、第10代長和の時に明治維新を迎えた。

 近代においてもさほど都市化が進まなかったため、現在でも西大路市街地一帯は城下町としての風情が色濃く残っていた。 

 市橋氏は鎌倉幕府のもとで美濃池田郡市橋庄の地頭となり市橋氏を称したのが始まりで、戦国期になると斎藤氏、織田信長に仕え、豊臣秀吉が天下統一を果たすと美濃今尾1万石で大名に列した。

 関ヶ原では東軍に従い功績により伯耆矢橋2万1千石に、大坂の陣でも功をあげ譜代並に優遇されて越後三条4万1千石に加増された。
 市橋長勝のとき、嫡子が居らず改易(かいえき)の危機となったが、徳川家の信任が厚く長勝の甥である長政が相続することを許されて近江仁正寺2万石で存続した。この差配によって仁正寺藩がはじまった。

 明治維新後の廃藩によって藩主や重臣は東京へ移住し、御殿と呼ばれていた藩庁の建物は西大路村の朝陽学校として使用されたが、大正5年(1916年)京都の相国寺塔頭林光院へ売却・移築され同寺の方丈・庫裏として現存していると云う。

                            


 「興敬寺(こうきょうじ)」

 興敬寺と正崇寺(しょうそうじ)という寺は、今は二つに分れているが、もとは一つの寺であり、寺号を興正(性)寺と云ったらしい。
 この興正寺について、興敬寺の寺伝では、開基は五条西洞院で、、親鸞聖人より興正寺の寺号を下されたとあり、はじめは京都にあったようだ。
 16世紀、信長と石山本願寺の11年にもわたる石山合戦では、興敬寺・正崇寺・本誓寺・明性寺・照光寺の周辺の五ヶ寺が結束して、石山本願寺に信徒等の従軍や、軍資兵糧を送る後援を行う、いわゆる後方部隊であった。
 また、興敬寺配下の門徒集団が織田信長に立ち向かった一向一揆の拠点としての働きもした。
 この働きで後年、"日野牧五ヶ寺" として、本願寺の第11世顕如(けんにょ)法主やその子教如(きょうにょ)法主の信任を受けた。

                            

 興敬寺文書にはこれら石山合戦に関する資料が多く含まれていて、県指定文化財となっている。

 石山合戦だけでなく天正10年6月5日付けで、本能寺の変に関する情報として「蒲生氏郷、顕如へ、光秀近江下向を通知、一向宗徒の協力を得て光秀に抗する意思を告げ、まもなく織田信雄・信孝・家康らも集結予定と通知(「興敬寺文書」)」があり、氏郷が興敬寺を介し顕如と連絡をとりあっていた事がうかがえる。一見対立する関係なのだが、近江日野の地の誼(よしみ)からか興敬寺が仲介していたようである。

 また、今回は見ることが出来なかったが、古くから日野の名水として有名な「落葉の清水」がある。


 「清源寺(せいげんじ)」

 仁正寺藩(後に西大路藩へ改称)藩主市橋氏の菩提寺で祥雲山(しょううんざん)清源寺。もとは蒲生定秀の別邸、桂林庵であったが没後に寺となったもの。定秀の位牌が安置されている。

 江戸時代に入り、越後(新潟県)三条より近江仁正寺(にしょうじ)藩に移ってきた市橋長政が衰微していたこの寺を再興して、菩提寺として宝永元年(1704年)臨済宗永源寺派の寺として「清源寺」の寺号を称した。
 宝暦4年(1754年)第8代藩主直擧の時それまで本堂であった建物を庫裏とし新しい本堂として建立したのが現在の本堂である。
 江戸期を通じて市橋氏は10代にわたり藩主がここに住んだがその内こちらで亡くなった3代の墓が静かに並んでいる。
 3代市橋信直、6代長(ながてる)、8代長發(ながはる)の三基の墓がある。墓地には約200人に及ぶ藩士の墓石が並んでいるらしい。
 また、境内の一画にはりっぱな鐘楼と本堂の屋根を葺き替えた記念に元の鬼瓦が展示されていた。市橋家の家紋「菱の三つ餅」がはいっている。

                                                     


 本堂には市橋氏歴代藩主の肖像画や永源寺開山寂室元光(じゃくしつげんこう)の肖像画(県指定文化財)が掲げられている。

 本堂の襖絵で「龍虎之図」の虎の方の絵である。対面側の襖には龍が描かれていたが、一部が物の陰となり写真を撮る気がなくなり写し洩れてしまった(苦笑)

 また、厄除けで有名な「奥山半僧坊大権現(だいごんげん)」の分身も祀られていた。

                            


 日野町と言えば、蒲生氏郷を輩出したことで知られ、銅像が建ち、道の名となり、お土産品にもなったりで町民に愛されていることがよく分かるが、一方、江戸期の市橋氏のことは私も含めあまり知られていないようだ。
 賢秀、氏郷等に比べ地味ではあったが、江戸期の長い期間を転封されることなく当地を領していたので、もう少し評価されてもいいのではないかと思った。
 江戸期に入ってからなので、ひょっとすると日野商人関係の旧跡を廻れば、もっと表舞台に名前が出てくるのかもしれないが…。今回のコースでは影がうすかった。


 「音羽城跡」

 音羽の地は、近江と伊勢を結ぶ山越え9道のひとつ「仁正寺越え」(大河原越えとも云う)が通る交通の要衝(ようしょう)である。この地に応仁の大乱のころ蒲生貞秀(さだひで)が築いた城である。
 日野川を眼下にする要害堅固な典型的な山城であった。
 なお、貞秀は蒲生家 "中興の祖" とされた人である。

 この城で最初の戦は、明応年5、2回目は文亀2年にあり、共に守護六角高頼を助けての戦いの舞台であった。2回目の伊庭の乱は伊庭出羽守貞隆が守護佐々木六角高頼に背いたので、高頼は兵を出して伊庭氏に応戦したが敗れた。
 高頼が頼ったのが蒲生貞秀で音羽城に逃れた。
 伊庭貞隆は援軍細川政元(まさもと)の家臣赤沢朝経(ともつね)と共に音羽城を包囲したが、堅牢な音羽城は落とすことができなかった。

 そして3度目の戦はお家騒動であった。
 貞秀は、嫡男秀行(ひでゆき)は惣領ということで将軍家に、二男高郷(たかさと)は佐々木六角氏に、三男の音羽秀順(しゅうじゅん)は細川氏にそれぞれ出仕させていた。
 貞秀はその後、家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去してしまった。その子秀紀(ひでのり)はまだ幼かったために秀行の弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。

 そして貞秀の死後、高郷は所領配分が少ないのを不服として主君六角定頼の後押しを得て秀紀との間で相続争いが起きた。

 この争いは六角氏と将軍家の争いを根底に持ちながら、六角定頼の家臣となっていた高郷が甥の秀紀を攻めたもので、大永3年(1523年)3月のことであった。
 六角定頼は自分の家臣である高郷の側にたち、秀紀の音羽城を大軍で包囲して攻めた。
 籠城が8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。
 この時に音羽城は破却され、以後、音羽城は廃城となった。 秀紀は鎌掛城仁移り、蒲生宗家を継承した高郷とその子定秀は、その後居城を日野中野城へと移した。

 余談ながら、六角定頼は音羽城を破却するのは惜しいとしながらも、音羽城を廃城とした。
 これは、一国一城令の先駆を為すとされる「城割」と云う政策であった。
 「他の城郭を破却すること」で一国一城にして、自領内の家臣団を統制するための有効な政策らしい。なせなら、家臣等を本城に集めることができるからである。
 音羽城がこの「城割」政策をはじめて実施された城で、定頼はこの「城割」を初めて行った武将である。

 素人目にも両城址を比べてみて、、中野城に比べ、位置的にも周辺環境的にもよほどこの音羽の地の方が優れていると思った。
 世はまだ戦国期で戦は日常茶飯事である、なのに、強固な音羽城を「廃城」としたのはなぜか。
 私は六角定頼が家臣とは云え蒲生高郷に対する警戒も含まれているような気がした。

 秀紀は大永5年、高郷・定秀父子の刺客によって毒を盛られて暗殺されたと云う。秀紀には子がなかったため蒲生家嫡流は滅んだ。
 この後、高郷の子、定秀が蒲生家の家督を継ぎ、以後、蒲生氏の嫡流は高郷の系統へ継がれていくことになった。
 だから、その後の蒲生賢秀、氏郷等はこちらの系統である。
 お家騒動がなければ蒲生氏郷はいなかったかも…。松阪、会津若松もなかったかも…。
 ひとつの事件から意外か展開、まさに歴史の綾(アヤ)である。
 
 現代の音羽城跡は、本丸・二の丸・南の丸を合わせた広々とした芝生の公園となっている。

 城の遺構は、空堀が公園の北・東・南に良く残り、特に南から東にかけての空堀は見応えがある。 公園内南丸と南帯曲輪との間に低いが土塁があり、北側の虎口付近にも土塁がある。
 また、今も水が涌く井戸跡が残っている。この井戸は籠城戦のときには水源として必要不可欠なものであった。
 高郷との戦で落城する前夜に、秀紀の妻(奥方)が、この井戸に投身自決したとの言い伝えがある。この投身自決した奥方とは高郷の娘なのだ。
 父・高郷に対する抗議の自決なのか、それとも…。

この井戸は「お方の井戸」とも呼ばれている。また、この井戸から城の抜け穴につながっているとか…の説もあるらしい。

                             


  過ぎ去りし往時の堅牢さを十分に感じさせてくれる山城であった。


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本能寺の変 前後の蒲生氏郷と周辺

2013-07-25 13:30:24 | 歴史探訪
                               

 6月30日に 歴史探訪情報発信のBコース「本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -日野町-」のツアーに参加してきた。
今回のテーマは「本能寺の変直後の蒲生氏郷…」と云うことなので、先のブログで「本能寺の変」のお浚いを書き、次のブログで氏郷の父「蒲生賢秀」を取上げた。
 よって、今回は「蒲生氏郷」について、お浚いをしてみる。

 信長により主家の六角氏が滅ぼされると、父の賢秀は織田氏の家臣となり、三男の鶴千代(後の氏郷)は人質として岐阜の信長の元に送られ小姓の一人として仕えた。

 信長は鶴千代をとても気に入り可愛がった。そのときすでに鶴千代の才を見抜いていたようで、娘の冬姫と結婚させた。信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗った。

 こうして蒲生賦秀(ますひで・後の氏郷)は織田一門となった。

 その後、賦秀は信長に従い、功績を挙げていくのである。武勇に優れ、北畠具教(きたばたけとものり)や具房(ともふさ)親子との戦いにて初陣を飾る。
 伊勢大河内城攻めや姉川の戦い、朝倉攻めと小谷城攻め、伊勢長島攻め、長篠の戦いなどに従軍して武功を挙げていった。

そして天正10年(1582年)、信長が「本能寺の変」により横死すると、安土城にいた信長の妻子等を居城・日野城(中野城)に保護し、父・賢秀と共に、明智光秀からの法外な恩賞をもった勧誘にも毅然と拒否して対抗姿勢をつらぬいた。

 その後は清洲会議で優位に立ち信長の全国統一事業を引き継いだ秀吉に仕えた。
 賦秀は秀吉よりに伊勢松ヶ島12万石を与えられた。織田一門としての先の功績を考慮した恩賞と思われるが、これにより先祖代々親しんできた故郷・日野を離れることとなった。

 秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍。 このころ、高山右近らの影響で大坂においてキリスト教の洗礼を受け、洗礼名をレオンと云った。
 戦国時代のキリシタン大名は信仰よりも海外貿易をする上でのキリシタン保護や西洋の新しい知識を得るという計算もあった。
 彼の場合は果たしてどうであったか。

 その後、紀州征伐(第二次太田城の戦い)、九州征伐や小田原征伐などにも従軍する。

 この松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷と名乗りを改めている。これは羽柴秀吉の「秀」の一字を下に置く「賦秀」という名前では秀吉に対して不遜であろうという気配りからであった。

 天正16年(1588年)には松坂城を築城。そして松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。
 この地を「松坂」と命名したのも氏郷で、「松」は松ヶ島からとり(日野の「若松の森」からとの説もある)、「坂」は秀吉から大坂の「坂」の字の使用を許可されたもの。(坂が阪となったのは大阪と同様、明治になってからのこと)

 だが、小田原攻めの直後に、奥州の押さえとして会津に移されたため、松阪城の全ての完成は目にすることはできなかった。

 天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。
 これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であるとされているが、関東の徳川家康に対しても重要な抑えとなったはずである。

 会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。
 「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社、(蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来している。
 7層の天守(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、また蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けた。

 また、築城と同時に城下町の開発も実施した。
 具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘(しょうへい)、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。

 文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へ出陣している。この陣中にて体調を崩した氏郷は文禄2年(1593年)11月に会津に帰国したが病状は快復することはなかった。。
 文禄3年(1594年)伏見城完成を祝うために上洛した。
 しかしこの頃には病状はかなり悪化が進行している状態であった。その後会津に戻ることはなかった。

 秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも京の名医、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)を派遣している。

 文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において病死した。 氏郷の死の床には同じキリシタン大名の高山右近が付き添って最後を看取ったと云われている。
 享年四十歳という若すぎる死であった。

 氏郷は将としても武士としてもその名を知られているが、実は「利休七高弟」の一人に数えられていて、文化人としての素養も持ち合わせていた。
 また、城造りにも優れ、城下の工業、商業の発展にも強力なリーダーシップでもって豊かな城下町をつくり上げた。
 彼は信長、秀吉、家康に比べ、その名はあまり知られていないが、その能力はオールマイティで彼等とかわらない実力者であると思う。
 ただ、惜しむらくは、その早すぎる、若すぎる死によって、その力を半分も発揮することができなかったことだ。

 早すぎる死さえなければ、ひょっとして天下を仕切る事も出来た武将であったと思う。


辞世の句は

『限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風』

 まだまだこれから、悔しかったにちがいない。


 氏郷の死後、蒲生家の家督は、秀吉の命で徳川家康の娘・振姫を正室に迎えることを条件に、改めて会津領の相続が許された。
 しかしまだ若年の秀行には家中を上手く統制できず、ついには重臣同士の対立を招き、御家騒動(蒲生騒動)が起こった。これら家内不穏の動きから宇都宮に移され18万石に減封された。
 会津にはその後、上杉景勝が入った。


 余談ながら、その後、秀行は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、家康の娘と結婚していることもあり東軍として、本拠の宇都宮で、西軍の上杉景勝の軍を牽制する役を命じられた。
 戦後、その軍功によって、没収された上杉領のうちから陸奥に60万石を与えられて会津に復帰した。
 秀行は家康の娘婿でもあり、江戸幕府成立後も徳川氏の一門衆として重用された。

 しかし、会津地震や家中騒動の再燃なども重なり、その心労のためか、慶長17年(1612年)5月14日に死去した。
 享年三十歳で父・氏郷よりもさらに早い死であった。
 跡を長男の忠郷が継いだ。
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本能寺の変 前後の蒲生賢秀と周辺

2013-07-25 11:12:27 | 歴史探訪

                           

 6月30日に 歴史探訪情報発信のBコース「本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -日野町-」のツアーに参加してきた。
 今回のテーマは「本能寺の変直後の蒲生氏郷…」と云うことになっているが、本能寺の変が起きたのは天正10年6月2日未明で、この頃なら父親の蒲生賢秀がバリバリの健在で、信長と同い年の49歳でまだ実権は握っていた。
 と云うことで、先に父親の「蒲生賢秀」についてお浚いをしてみる。

 蒲生賢秀は天文3年(1534年)、六角氏の重臣・蒲生定秀の長男として生まれる。母は同じく六角氏の重臣馬淵氏の女。主君である六角義賢の偏諱(へんき) をうけ、賢秀と名乗った。

 永禄11年(1568)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛の途中、六角氏に協力を求めてきた。これを拒否した主君の六角氏は信長によって滅ぼされた(観音寺城の戦い) と云うより逃亡した。
 賢秀は日野城で少数の兵ながら奮戦して信長軍を苦しめた。
 困った信長は賢秀の妹婿・伊勢の神戸友盛(かんべとももり)を呼び、三男の信孝を友盛の養子にすると云う約束を結び、友盛から説得してもらった。 それでようやく賢秀は開城した。
 降伏した賢秀は 嫡男・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となり、父祖以来の近江蒲生郡の知行安堵を受けた。
 当初は蒲生郡長光寺城を預けられた柴田勝家の与騎(よりき)の身分だったが、天正3年に寄親(よりおや)の勝家が越前に移封されたが、その後も近江に留まり、以後日野城主となった。
 信長は賢秀・氏郷父子をたいへん気に入り、氏郷に娘の冬姫を嫁がせて娘婿に迎えている。
 後に信長包囲網が敷かれたときは六角氏から味方に誘われたがこれを断り織田方として戦った。

 「誠実」、「信義」の人として定評があり、信長の信任厚く、自身が不在の折は好んで賢秀を安土城の留守居役に起用した。 
 しかし出身の序列上から連枝衆の津田源十郎が留守居役のトップで、次に山崎志摩守がつづき、賢秀は3番目の留守居役大将であった。

          

天正10(1582)年6月2日、「本能寺の変」勃発時にも、蒲生賢秀は津田(織田)源十郎信益(本丸留守居役)や木村次郎左衛門らと共に安土留守居役を務めており、賢秀自身は二ノ丸に入っていた。

 「惟任(明智光秀)ご謀反」「お屋形(信長)さま宿所・本能寺炎上中」の知らせは、2日の巳の刻(午前10時頃)に早くも噂話として安土にもたらされていた。だが事実かどうかはっきりしないため多くの領民はじっと事態を見守っていた。
 流言飛語は茶飯事のご時世なので、これまでにも誤報騒動はよくあったらしい。
 ところが隣接する観音寺城の在京の旗頭、堀伊賀守よりの書状で、これは事実だと判断するに至った。

 凶報が事実と分かり、尾張や美濃出身の者はそれぞれ出身地を目指しはじめ、城内は蜂の巣を突付いた様な騒ぎになった。
 夜には留守居役 No.2 の山崎秀家までもが安土の邸宅に火をつけて領国に逃亡した。

 本丸留守居の津田信益の動静は不明だがすでに姿は見えない。

 賢秀は上位留守居役二人が消えてしまった今となっては自分がこの危機に立ち向かわざるをえないと悟った。

 賢秀はまず城内の騒ぎを鎮めてから、安土城二ノ丸にいる信長の妻子を保護するため、日野城にいた息子・氏郷に護衛の兵を送るよう指示。

 賢秀等にとって幸いなことに、明智軍が攻めてくる東海道の勢多(瀬田)橋を勢多城の山岡氏が城もろとも焼き落とした。
 このため光秀が橋を修理して渡れるようになるのは早くて5日。 賢秀等が安土城を脱出して日野城で応戦の準備をする時間かせぎができた。

 明けて3日、当初、安土城から落ち延びることを一部の婦人らが拒んだり、賢秀に対し安土城を退去するのであれば城内の金銀財宝を運び出し城に火をかけるようにと云うものまでいた。
 しかし、賢秀は「上様(信長)が心血注ぎ作り上げた天下無双のこの城を焼くのは恐れ多く、金銀などを持ち出すことは天下の嘲り(あざけり)を受ける」と、これを拒否した。
 結果として、安土城は無傷のまま一旦は明智軍の手に渡ることになった。
 二ノ丸の女衆(信長の妻子、側室たち、皇女、乳母)を連れて安土城を退去した賢秀は、居城・日野城に向かった。息子の氏郷が日野城から南腰越えまで迎えに出てきていた。
 このとき、賢秀一行が通った道が、安土街道で、八日市からは御代参街道を通ったと思われる。

 そして居城の日野城で信長の妻子・側室らを匿い、息子の氏郷と共に明智軍を迎え撃つ準備にかかった。

 私は日野城が秀郷の居城だから日野城に連れてきて匿ったと思っていたのだが、日野町のガイド(職員)さんの話では、安土城周辺の他の城も検討した結果、例えば長浜城へはすでに光秀の兵やシンパによって街道を封鎖されていてダメとかの状況になっていたらしい。そこまで考えた上での日野城への脱出だったとのこと。

 この動きに対し明智光秀は蒲生父子に法外な恩賞をもって勧誘したが、賢秀は信長の恩を忘れることはできないと敢然と拒絶したという。
 このため光秀は日野城攻撃を決めたようであったが、日野に攻め入る前にあの「中国大返し」で急遽戻ってきた羽柴秀吉に「山崎の合戦」で敗れた。

 この様なタイミングで蒲生家はこの最大の危機を乗り越えた。

 山崎の合戦は主戦場となった地点の名をとって天王山の戦いとも呼ばれている。
 よくスポーツ新聞紙上て「天王山の戦い」との見出しをよく目にするが、これは頂上決戦を表す言葉で、語源はこの戦いからきている。

 13日の夕刻、明智軍の敗戦が決定的となると、明智軍の武将 御牧景重(みまきかげしげ) は 明智光秀 に撤退して再起を計ることを進言、これを受けて明智光秀は戦場から逃走した。
 御牧景重は殿(しんがり)となって戦ったが討ち死にした。
 逃走した光秀であったが同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民の落ち武者狩りに竹槍で襲われて、あえなく落命した。

 本能寺の変からわずか11日で、明智光秀の天下は終わることとなった。
 このことが、いわゆる「光秀の三日天下」であり、三日天下の語源とされる所以である。

 明智光秀は死したが、まだ居城の坂本城まで危険な道中が続くため、家臣の溝尾茂朝(みぞお しげとも) は光秀の首を城まで持って帰ることは出来ないと判断して、その付近の藪の中に埋めて弔ったと云う。
 このため、明智光秀のものだとわかる遺体も、首も見つかっていない。

 奇しくも信長、光秀ともに遺体も首も見つから無いと云う結末となった。

 その後、家臣の溝尾茂朝と、安土城を守っていた明智秀満は明智家の居城 「坂本城」 に帰還した。
  そして、城に火を放ち、明智光秀の家族と共に自害した。

 明智光秀の一族は滅亡し、光秀の野望はここで終わりを迎えた。

 余談ながら、天下無双の「安土城」も炎上した。誰が火を放ったかは、今も「謎」で、これについても諸説いろいろ取上げられている。

 話しは、蒲生賢秀だけでなく、その周辺以上に拡大してしまったが、これも大きな事件の顛末ゆえ致し方ないか。

 蒲生賢秀は、「本能寺の変」の二年後の天正12年(1584年) 4月、51歳で死去した。
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本能寺の変前後の織田信長の周辺

2013-07-24 23:17:33 | 歴史探訪
                        
              
 6月30日に 歴史探訪情報発信のBコース「本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -日野町-」のツアーに参加してきた。
 まず、はじめに「織田信長]と「本能寺の変」について、共にメジャーなキーワードであるが少しお浚い(おさらい)をしてみる。


 「本能寺の変」とは、敵対する勢力を次々と攻め滅ぼし、天下統一まであと少しのところまで来ていた 織田信長 が、家臣の 明智光秀 の謀反によって、本能寺で急襲された戦国時代最大の事件である。
 この事件についてもう少し詳しく背景と本能寺の変が起きる前の状況について書いてみる。、


 この事件が起こったとき、織田家の主要な軍団は各地を制圧するために出陣中であった。

 羽柴秀吉は中国地方で、敵対している戦国大名「毛利家」と戦闘中で「備中高松城」という毛利家の城を包囲して、城の周囲に水を入れる「水攻め」を行っていた。

 柴田勝家は北陸地方で「上杉家」の「魚津城」を攻略中で戦いは大詰めに入っていた。

 滝川一益は「武田家」を攻める戦いに参戦した後、そのまま信濃に駐留して関東の雄「北条家」と睨み合いをしていた。

 丹羽長秀は織田信長の子 信孝 を大将として四国の 「長宗我部家」 への攻撃準備で大阪に集結していた。
 後で触れるがこの軍事行動が「本能寺の変」に結びつくとする考え方が最近もちあがっている。

 この様に、各方面で信長の家臣団が、織田信長の「天下布武」に向かって進行中であり、信長は天下統一への総仕上げに入っていた。

 「武田軍団」は戦国最強と呼ばれていたが、信玄が病死してから4男の勝頼が跡を継いだ、そして徳川・織田連合軍との「長篠の戦い」で、武田の騎馬隊が織田の鉄砲三段撃ちに敗れ、武田軍は壊滅し、多くの将兵を失ってしまった。
 その後は 家臣達 の離反が相次ぎ、武田家は急速に衰退した。
 最後は裏切った家臣に追い詰められて、一族と共に 「天目山」 という山で自害し、武田家は潰えた。

 この戦の後、信長は徳川家康に武田攻めの功績として武田家の領地であった駿河の国を与えた。
 さらに「安土城」と京都の見物をする接待の誘いまであった。
 家康はその誘いに応じ、徳川家の重臣を含む30人ほどで、安土城へ向かった。

 信長は、その家康の接待役を明智光秀に命じ、3日間にわたっていろいろな催しを行い歓迎した。

 ところがこの接待に不手際があって、信長は光秀の接待役を途中で解任した。

 その顛末は、一般に知られている話として「光秀が家康のために用意した鯛が腐っていた。それで信長が激怒し、光秀を罵倒した挙げ句、接待役を途中で解任した」 と云われている。

 そしてさらに、光秀は信長にすぐ羽柴秀吉への援軍をするよう申し付けられた。
 これ等の事で明智光秀の自尊心は大きく傷つけられた。
 だから、この一件は 「本能寺の変」 の原因として大きなものと云われてれている。

 私も光秀のこのタイミングでの「本能寺の変」に至る行動から考えると、これが本能寺の変の引き金になったという説には十分な説得力があると

 別の考えとして光秀が途中解任されたのは何も粗相(そそう)をした訳ではなく、ただ秀吉から援軍を求める手紙が届いたからで、不始末を起したから途中解約されたのではない、という説もある。
 だが、私はこれだけでは「本能寺の変」を引き起こすには弱いように思う。

 先月発売された、「日本の歴史」創刊号に「光秀の謀反の理由は四国攻めにあった!」の見出しがあった。
 これは、信長はもともと、土佐の長宗我部氏と友好関係を結び、同氏による四国制圧を容認していた。
 この関係の媒介役をしていたのが光秀とその重臣の斎藤利三だった。
 ところが、そこへ秀吉を媒介とした三好氏に乗換えようとする状況になり、信長も子の信孝を三好氏の養子に入れて四国の一部を委ねようと三好氏に肩入れするようになった。

 よって四国政策の方針を転換して、長宗我部氏を攻撃することになった。
 これではこれまで長く長宗我部氏の窓口となってきた光秀の立場はすっかりなくなってしまう。
 この政策転換が彼に信長を討つ決意をさせたというものだ。
 この説も光秀の立場に立てば十分納得のいくものだ。

 この他にもいろいろな理由や光秀のこれまでの怨念などがあって本当のところはどういうものだったのかは解らない。

 ただ私は動機はひとつに絞り込まず、いくつもの要素が絡み合って光秀が決起したものと考えている。
 やはり主君に反旗を向けるにはそれ相当の大きなものがいくつもあったからこそと考えている。

 とにかくこの後、明智光秀は秀吉への援軍を命じられ、丹波にある自分の城に戻り、中国地方へ出陣する準備を進めた。

 ここで問題となるのが、徳川家康の接待を途中解任されてから、この日に丹波の城に入って出陣の準備を始めるまでの10日間、光秀がどこで何をしていたのかの記録がなく、これも「謎」となっている。

 また、この翌日、光秀は 京都の「愛宕神社」 に行き、おみくじを引いたそうだ。さて何と出たのか?

 本能寺の変まで後2日となる5月29日、信長も秀吉からの援軍要請に応じるため、安土城で中国地方に自ら乗り込む準備を進めて、この日の夕方、京都で定宿としている「本能寺」に入った。
 今回は、多くの名物茶器も本能寺に運んでおり、大きな茶会を開催する予定だったと云われている。
 この茶会の開催を進言したのは、高名な茶人であり堺の町の会合衆(えごうしゅう)でもあった 千利休 のようだ。

 一方、徳川家康は安土城の接待の後、京都を観光中であったが、この日はお供の武将と共に堺の町へ見物に出かけていた。
 茶人であり堺会合衆の一人でもある 津田宗及(そうぎゅう) の接待を受けていた。

 このように織田軍は各方面に軍勢を派遣していたため、織田信長本人がいる本能寺周辺の守りは、ことのほか手薄になっていた・・・。

 「本能寺の変」 の前日には、京に入った信長にお公家様が何人か訪ねてきた。お茶会の段取りなどについての打ち合わせもあっただろう。
 一方、光秀はこの日の夕方、13000人の兵を率いて「丹波亀山城」 を出発した。
 出発前には、家臣である 斎藤利三、明智秀満、藤田伝五 等と「本能寺の変」 のための作戦を練ったと云われている。この時点で初めて主要な家臣に打ち明けたのだ。
 打ち明けられた家臣はさぞ驚き戸惑ったことと思うが、これまでの状況からすれば、家臣も少なからず同様の思いがあった筈、特段反対する者もいなかったのではないかと思う。

 一路中国地方に向かって山陰道を南下、その日の夜沓掛あたりで、行軍中の明智光秀が突然 「敵は本能寺にあり!」 の号令をかけ、軍勢を丹波街道にとらず、そのまま山陰道を京都に向かって行軍したのだ。
 ついに明智光秀が織田信長を撃つ「号令」を発したのだ。

 この 名セリフ「敵は本能寺にあり」 の号令は後世の創作だとも云われているが、信長の名は秘めたままの簡潔明快なすばらしい号令であったと思う。、
 明智軍は山陰道をそのまま京都に近づくと、軍勢を二手に分け、密かに本能寺を包囲した。
 このため、それでもまだ兵士たちの多くは「討つ相手は徳川家康だ」と思っていたようだ。

 「敵を欺くにはまず味方から」の格言どおりの采配であった。

 そして寺を包囲した明智軍は明け方になる頃、鉄砲を撃ち放ち、同時に四方より本能寺に一斉になだれ込んだ。

          
 これが戦国の大事件 「本能寺の変」のはじまり。
 
 物音で目が覚めた織田信長はすぐ騒動に気付いた。
そして小姓の森蘭丸に 「これは謀反か? 如何なる者の企てぞ!」 と聞き、森蘭丸が 「明智が者と見え申し候」 と答えると、一言 「是非に及ばず」 と答えたと云う。

 さすがに信長、すぐ弓を持って応戦し、弓が折れたら、薙刀に持ち替え、敵と戦ったが、槍傷や鉄砲の銃撃を受けて、もはやこれまでと応戦するのを断念。
 蘭丸に火を放たせ、燃え上がる奥の間の炎のなかで自害したと云われている。

 光秀が本能寺討ち入りをはじめて、僅か二刻余り(4時間)で信長の近習はことごとく討ち死にし本能寺は炎上。

 本能寺は寺とはいえ、信長の京での定宿、造りは城砦のように強固にできていたが、敵の指揮官が百戦錬磨の光秀で13000人の大部隊、そして急襲とあってはいくら信長でも勝ち目はなかった。
 その後、光秀は織田信長の遺体を探すのだが、信長の遺体はなぜか最後まで見つからなかった。

 一方、妙覚寺に泊まっていた信長の長男 信忠 が少数の兵で、本能寺に救援に向かおうとしたが本能寺は炎上、すでに遅しであった。 
 信忠は一緒にいた信長の弟 長益(有楽斎) に息子の 「三法師」 を預け、京都から脱出するよう命令する。
 信忠と共に居た次男・信雄は明智軍の包囲を掻い潜り所領の伊勢に逃げ帰った。
 信忠はすぐさま「二条城」に入って応戦するも、13000の兵を持つ明智軍が相手では多勢に無勢、攻撃を受けて信忠も戦死した。

 光秀は戦闘終了後すぐに堺の町にいるはずの徳川家康にも追っ手を差し向けた。
 そして各地の街道を封鎖し、さらに朝廷に使者を出し、京でこれ以上の戦闘を行わない事、朝廷や公家に危害を加えない事などを告げたと云う。

 また、親戚筋の細川藤孝や、京都の南を支配している、親しい 筒井順慶に協力を求める手紙を書いたり、各武将へ協力を要請する旨の書状を送ったりした。

 こうして、織田信長、信忠は戦死して「本能寺の変」は終わったが、その後もいくら探しても信長の遺体は見つからなかった。
 見つからなかった「謎」についても諸説いろいろあって、判然としないが、結果として光秀にとって「遺体がみつからなかった」ことは大きな誤算であった。
 このことがその後の光秀の描いたプログラムに大きく不利に働いたことは確かだ。
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滋賀歴史探訪 英雄伝説 継体天皇と織田信長の足跡周辺を訪ねて

2013-07-12 13:29:25 | 歴史探訪

                  

 
 15日(土)は滋賀県教育委員会主催の歴史探訪情報発信のAコースに参加してきた。  
 このツアーは、後日同内容で催される一般募集の歴史探訪に先行して、
各コースをいくつかまとめてバスで一気に探訪して、ブログで紹介することを兼ねて企画された。  
 Aコースのテーマは「英雄伝説・継体天皇と織田信長の足跡周辺を訪ねて ―高島市―」だ。
 ちょっと時代が違う、継体天皇と織田信長ではあるが、たまたまこの地の周辺に足跡があるからだ。
 私もたまたまこのお二方には興味があったのでいい企画であった。

 
 「天皇家の万世一系」は、愛子さまの「女性天皇」とか「皇位継承」が議論されたころに
よく取り上げられたことがあった。  
 そんな折に天皇の系図を眺めていてわかったのだか、
26代継体天皇が即位されたところがこの万世一系が一番危うく感じられた。  
 そこで、継体天皇が気になり少し調べたところ、やはり専門家のあいだで今も議論の分かれる
ところであるらしい。
 第26代の継体天皇の即位を王朝交代とする説(継体天皇は第25代までの天皇とは
血のつながりがない)がある。
 応神天皇以後は、架空の人物と思われている天皇はひとりもいない。
 とくに第26代継体天皇からは、現在まで約千五百年にわたって皇統が連綿として続いている
とする学者は多い。

 そんな継体天皇が近江の国に生まれたと今回の案内で知り余計この継体天皇に興味が沸いた。

 
 織田信長は小説などでそこそこ知っている。
 信長は越前の朝倉攻めにおいて浅井長政の寝返りにあい、朝倉と浅井両軍にはさまれた。
 信長が長政の裏切りを知ったきっかけは、お市の方が信長の陣地に陣中見舞いとして
送った小豆袋であると言われている。
 両端を紐で結んだ小豆袋」を見た信長は、自軍が長政の寝返りによって
挟み撃ち状態になることを察知した。
「袋のネズミ」と云うことを暗に仄めかしたという逸話はこのときのことである。
信長は即座にその場で撤退を決め、わずかの馬廻り衆を従えて越前敦賀から朽木を越えて
京都に逃げた。
 その時に朽木氏の助けを受けた。
 ここまでは知っていたが、以下の顛末までは知らなかった。
 このルートの一番の懸念は途中の朽木谷の領主・朽木元綱の出方であった。
 身分としては幕府奉公衆であるが、実質的には浅井氏より知行を受ける形となっていたからだ。
 信長が来る事を知った元綱は甲冑姿で出迎えようとした。
 この武装姿に驚いた信長は、同行の松永久秀等に元綱の真意を確かめに行かせた。
 そして元綱に敵意が無いことを確認できるまで、三ツ石の岩窟に身をひそめて待機していたと云う。
 久秀の説得もあって元綱は平服に着替えて信長をもてなした後、朽木城に宿泊させ、
翌日京都までの警護役まで務めた。
 その時の身をひそめた岩窟「信長の隠れ岩」と朽木元綱の屋敷「朽木陣屋跡」などの見学があった。
 余談ながら、織田、徳川軍を無事に返すために、殿軍(しんがり)を務め、名を挙げたのが秀吉だった。
 秀吉は、浅井、朝倉軍から攻撃を一身に受けて、一ケ月もかかって辛うじて逃げて帰った。
 信長の元に戻ったときは、飲まず食わずの必死の逃走だから、げっそりとやつれていたという。


       Aコースの行程
三重生(みおう)神社
     継体天皇の両親である彦主人王と振姫の2神が祀られる。
伝信長の隠れ岩
     越前朝倉氏攻めにおいて浅井長政の寝返りにあい撤退する途中で一時身を隠したと
     伝わる岩窟。
興聖寺と旧秀隣寺庭園
     両寺とも当地の領主朽木氏にゆかりの深い寺院。
     12代将軍足利義晴が三好松永の乱から逃れてこの地に長く滞在した。
道の駅  くつき本陣
     ここで昼食、季節の食材を使ったバイキング料理あり。
朽木資料館
     朽木氏の陣屋跡の近くにある。朽木に残る文化財を中心に山仕事の道具や生活用具を展示。
田中王塚古墳
     継体天皇の父である彦主人王の御陵と伝えられ、陵墓参考地に指定されている。
安産もたれ石
     彦主人王の妃である振姫が出産の際もたれたとされる石。安産祈願の慣わしがある。
鶴塚
     鎌倉時代の宝塔で、高さ4m。県内の石造宝塔では最大級。
安閑(あんかん)神社
     祭神は継体天皇の長子、27代安閑天皇。
     境内には「神代文字」とも云われる謎の図像が印刻された石がある。
胞衣塚(えなづか)
     振姫がお産のあと継体天皇の「へその緒」を埋めたと伝わる円墳、胞衣とは胎盤のこと。
鴨稲荷山古墳
     明治時代に後円部の横穴式石室から家型石棺が見つかり豪華絢爛な副葬品が出土した。
     副葬品から大陸と交流あった地域の王が葬られたとみられている。
高島歴史民族資料館
     鴨稲荷山古墳の近くにあって、鴨稲荷山古墳関係の資料や副葬品(レプリカ)など、
     他にも高島市域の歴史、民族、考古資料を収蔵、展示している。
白鬚神社
     祭神は猿田彦命だが、本来は背後にそびえる比良山をご神体とした。
     湖中の朱鳥居が印象的で重要文化財の社殿は湖水に面している。
鵜川四十八体石仏
     戦国時代に観音寺城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うために建立した。
     高さ1.6mもある花崗岩石製の阿弥 陀如来像群。

  以下に、各見学先についてもう少し詳しく写真と文でまとめてみた。

次の4つのグループにまとめてみた

    継体天皇の周辺と足跡

    織田信長の隠れ岩と朽木氏周辺

    白鬚神社と鵜川四十八体石仏群

    鶴塚など 




   ★★★ お知らせ ★★★

滋賀県教育委員会が行っている 一般参加の「歴史探訪]のイベントが今年も数多く予定されています。

下記のURLにて近江歴史探訪のイベントがリストアップされています。
      「近江歴史探訪のイベントリストはここ
興味のある方はチェックしてみて下さい。


また、本日この様なメールもありました。
興味のある方はチェックしてみて下さい。

【探訪】長浜歴史見聞学シリーズ(横山丘陵北部の古墳群)

標記の探訪会が開催されますので、お知らせします。
詳しくは別添のPDFおよびURLをご覧ください。

●申し込み・問い合わせ先(平日9:00~17:00)
長浜市教育委員会 文化財保護センター
電話:0749-64-0395
FAX:0749-62-6357

【日時】8月3日(土)午前8時30分~(2時間程度)※荒天中止
【集合場所】:長浜市文化財保護センター(長浜市東上坂町981)
【定員】30名(事前申込先着順)
【申込み】8月1日までに住所・氏名・電話番号を電話で文化財保護センターまでお知らせください。
【持ち物】水筒、タオル、ハイキングに適した服装・靴、虫よけ(山の中に入ります)

★長浜市HP
http://www.city.nagahama.shiga.jp/index.cfm/8,28805,12,109,html?20130621093041734

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白鬚神社と鵜川48体石仏群

2013-07-04 14:53:25 | 歴史探訪
 朝から心配していた雨は、鴨稲荷山古墳を見終わった頃から遂に降り始めた。高島歴史民族資料館は建物の中なので雨の影響はなかったが、次に向かった白鬚神社に着いたときは本降りになっていた。 このため傘をさしての行動となった。

 「白鬚神社」は琵琶湖の西岸、高島市鵜川に鎮座していて、通称「白鬚さん」とか「明神さん」の名で親しまれている。
 社名の通り、延命長寿の神として知られ、全国各地に分霊社がありその総本社である。また近江国最古の神社とされている。

 湖中に朱塗りの大鳥居が建っているので遠目にもすぐわかる。湖中の鳥居は 湖から船で参拝する人のためとも云われている。水上の朱塗りの鳥居と云うことで近畿の厳島神社とも呼ばれている。

 社殿は湖岸のすぐ傍を走る国道161号線をはさんですぐにある。神社側からすれば国道は邪魔物以外の何物でもないだろう。
 昔は車も通らない細い道であったのだろうが、現在は京都・滋賀と若狭を結ぶ動脈なので交通量は多い。実際湖中の大鳥居を見ようと国道を横断しょうとしたが、左右から来る車の列の切れ目に時間差があって、両方の切れ目があうまでしばし待機するしかなかった。
 社殿は慶長年間に豊臣秀頼による境内整備にともない、片桐且元(かつもと)が奉行として造営したもの。本殿は慶長8年の1603年に建立されたもので重要文化材に指定されている。
                           
 秋の例大祭は「白鬚まつり」とか「なるこ参り」と呼ばれて、子供が数え歳で2歳になると、その子を連れて白鬚さんに参拝する。
 神社から本名とは別の名前を授かり、この名前で数日間その子供を呼ぶと無事に一生幸福の御守護があるとされていて、県下のみならず京阪神からも多くの参拝客があり賑わうという。

 白鬚神社の祭神は「猿田彦命(さるたひこのみこと)」とされるが、社殿の背後にそびえたつ比良山を神体山とする「比良明神」である。

 本殿の後ろの石段をのぼると上の宮があり、天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ)・豊受大御神 (とようけのおおみかみ)が祀られていた。
 上の宮には 紫式部の歌碑と羽田岳水の句碑、大津の歌人中野照子の歌碑などがあった。ここから眺める琵琶湖はきれいだろうと思われるがあいにくの雨でかすみ湖の色合いがもうひとつで残念であった。
       
 白鬚神社は琵琶湖に永く住まう神様で、まさに湖国、近江を象徴する地主神と云えるのではないか。

 白鬚神社のすぐ近くではあるが、パスで移動して、雨のなかを最後の見学地「鵜川48体石仏群(うかわしじゅうはったいせきぶつぐん)」へ向かう。
 国道でバスを降り、雨にぬれた山道を少し歩くと草深い山中に共同墓地があった。

 その墓地の最前列に花崗岩で作られた、高さ1.6mの阿弥陀如来像がかたまって並んでいた。これが「鵜川48体石仏群」である。
 この石仏群は、室町時代後期に観音寺城(現安土町)城主の六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見て琵琶湖を挟んだ西方の高島市鵜川のここを極楽浄土に見立てて造立したと伝えられている。
 また石仏はいずれも東を向いて、すなわち観音寺城の方を向いて静かに並んで座っていた。
 このとき義賢は32歳であった、その後1568年織田信長に観音寺城を攻められ、義賢は観音寺城を放棄して甲賀に退き、その後観音寺城へは戻ることはなかった。
 これも歴史のアヤではある。
 当時はここは墓地ではなく、また今のようにかたまって並んでいたのではなくこの周辺にゆったりと立てられていたとのこと。 
 その後に鵜川地区がこの地を共同墓地とするために。点在していた石仏を今のところにまとめて並べられた結果である。
 石仏は、大きさも形も少しずつ異なり、あどけない顔・やさしさに満ちた顔・凛とした顔など個性豊かな表情をしている。
                 
 幾つかの石仏の中には首が取れて補修されているのがあったが、そのときは何も思わなかったのだが、今考えるとこれは多分、積年の傷に水が入り、これが冬の寒さで氷となり膨張することで徐々に破壊させていったのではないだろうか。

 現在石仏はここ鵜川には33体しかない。残りの15体のうち13体は大津市坂本の慈眼堂に安置されているとのこと。残り2体はなんと残念なことに昭和に入ってから盗難にあい今も行方知れずになっているとのこと。何ともバチあたりな泥棒もいたものだ。

 これをもって今回のAコースのすべてを見て回った。後の方で雨に見舞われ残念ではあったが予定通りに見学することが出来た。
 詳しくガイドしていただきありがとうございました。
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信長の隠れ岩と朽木氏周辺

2013-07-04 10:54:16 | 歴史探訪
 元亀元年(1570)4月20日、信長は徳川家康や羽柴秀吉ら3万余の軍勢を率いて、朝倉氏を攻めるために京都を出発した。
琵琶湖西岸を通り、 田中(現安曇川町)の城に宿泊した後、九里半街道を通って敦賀に進攻した。
 朝倉氏の出城であった手筒山城・金ヶ崎城・疋壇城を陥落させた。 そして、さらに北上して朝倉氏の本拠一乗谷に向かおうとしていたときに、妹婿で同盟だった浅井長政が朝倉氏方に寝帰り、信長軍を前後からはさみ打ちにしようとした。

 なぜ信長は長政の寝返りを察知したかについてであるが、浅井長政が妹婿とはいえ、浅井家と朝倉家は親の代からの長い親交があることは知っていた。
 故に、たえず後方を警戒しながらの朝倉攻めであったはず、なぜなら自身も長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破っての今回の出兵であったからだ。
 だから、松永久秀に命じて浅井長政の動きをたえず警戒させていたようだがもっともなことだ。
 なので彼らからの情報ですぐに長政の寝帰りを知ることができ、、すばやい対応をとることができた。
 
 27日、信長は京都への撤退を決意すると、10人ほどのわずかな兵をつれて丹後街道を南下し、保坂(現今津町)から朽木街道に入った。
 信長は京都への退路になぜ朽木街道を選んだのか。
 小浜から南は、当時守護武田氏の一族で、信長とは敵対する武田信方や大飯の石山城主武藤友益の支配地である。
 琵琶湖方面は当然浅井・朝倉の手が回っているはず。
 したがって、朽木街道しかなかった。

 それに、この街道を掌握している朽木氏は、室町幕府に対して永年にわたり忠節をつくしてきた奉公衆である。
 信長もこの時点では表むきには将軍足利義昭を支持する者とされていたので、彼とは敵対関係はないとの思いもあったかも。

 たたひとつ気がかりは、朽木元綱は実質的に浅井長政から知行を受ける形になっていたことだ。云わば浅井グループの一員のようなもの。
       
 ある資料では、元綱は実際 "信長を殺す" 気で待ち構えていたとの説もある。
 彼らの武装した姿を遠目で見た信長が武士としてのカンで殺気を感じ、これはまずいとまず松永久秀に彼の真意を確かめに行かせたのは正解だっただろう。
 元綱の真意が確認されるまでの間、信長は三ツ石の岩窟に身をひそめて待機していたと云う伝承がある。通称「信長の隠れ岩」と呼ばれている。
 今は隠れ岩までの登山道が整備されていて歩きやすいが、当時は山の中腹にある岩窟まではたいへんだったことだろう。
 途中の木にビニール紐が巻いてあるのは、クマが木を痛めないためとのこと。今でもクマが出るところなのだ
                           
 実際、久秀の長い説得でやっと元綱は平服に着替えて信長に手を貸すことになった。
 元綱は、信長の領内通過を認めただけでなく、手厚く接待した。 その晩は朽木城に宿泊させ、翌日は京都までの警護役まで務めた。 その結果信長は葛川(大津市)・大原(京都市)を経て、30日には清水寺まで無事に帰還することができたという。

「信長の朽木越え」と呼ばれる有名な史実である。

 元綱はその後、信長麾下(きっか)として仕えてはいたが、やがて代官を罷免されている。

 信長といえども「隠れ岩」で待つ間の恐怖が後々まで尾を引いたのか、信長からはあまり厚遇されていなかったようだ。

 また、信長軍の最後尾にいた秀吉と家康も、朝倉軍の追撃をかわしながら秀吉は木地山を越え、家康は針畑を越えて京都まで撤退したと云われている。



「信長の隠れ岩」のあと、朽木氏にゆかりの深い寺院「興聖寺」へ

興聖寺は、滋賀県高島市朽木岩瀬にある曹洞宗の寺院。
京都・滋賀から福井県の若狭を結ぶ「鯖街道(国道367号線)」沿いにある。
 あの司馬遼太郎の  「街道をゆく」の中に「むかしは近江における 曹洞宗の巨刹としてさかえたらしいが…」と紹介された。  その後を「いまは本堂と庫裡それに鐘楼といったものがおもな建造物であるにすぎない」と続くのだが、見た目はその通りのお寺であった。

この場所は、室町時代末期の政治混乱期に第十二代足利義晴と第十三代義輝が、京都の戦乱を避け、朽木稙綱(たねつな)を頼ってこの地に数年間身を寄せたと云う「岩神館(いわがみやかた)」があったところである。

 その跡地に1606年に朽木宣綱(のぶつな、元綱の子)が亡き妻(京極高次の妹)のために寺をたてた。その寺を秀隣寺と号したが、後年火災に遭った。このため現在の朽木村資料館の方に移して再建された。

「興聖寺」は、鎌倉時代に近江守護佐々木信綱が"承久の乱"て戦死した一族の供養を願って建立された。当初は安曇川を挟んだ対岸の指月谷にあった。ところが、江戸時代に大火に遭い、1729年に秀隣寺の跡地に移して再建された。
 ところがこの建物も1828年の火災で本堂を喪失した。
 現在の建物は1857年に朽木大綱の寄進で再建したもの。
                           
 佐々木氏は、宇多天皇の直系で、佐々木信綱の次の代で、六角氏・京極氏・大原氏・高島氏と4つに分かれ、さらに高島氏から朽木谷を分与され、佐々木信綱の曾孫にあたる義綱の代から朽木氏を名乗り朽木家が誕生し、そして廃藩置県まで続いた。

 興聖寺には、国の重要無形文化財である「本尊釈迦如来坐像」がある。平安後期の後一条天皇の皇子が幼少の時に亡くなられ、天皇の叔父頼道がその供養に三仏彫らせた内の1体である。桧の寄木造りで作者は不明だが定朝様式と云われている。
       
 他にも、朽木時津経が北条高時の命により、千早城焼き討ちの際楠木正成の念持仏である不動明が兵火にあわんとするを捧持して帰館、以後当山の鎮守として祀られている「縛り不動明王坐像」などがある。
       
 先ほどの岩神館に将軍義晴が身を寄せたとき、稙綱は自らの居館であった岩神館を将軍の居所として提供した。将軍御所となった岩神館には防衛のため土塁と空堀が造られた。これらの遺構は現在の興聖寺境内の外れに残っている。

 また、その時同行した管領細川高国が佐々木一族京極高秀や浅井亮政、朝倉孝景等の協力で将軍の無聊を慰めるため庭園を造って贈ったといわれている。
 小規模ではあるが曲水の様式を取り入れた池泉庭に鶴島、亀島を配し流れの中央には楠の化石とも云われる石橋を架け、石組を随所に組み入れた中世の庭園らしい豪快な造りに仕上がって、今もなお築庭当時の姿を残していると云われている。

 これが「足利庭園」とも呼ばれる「旧秀隣寺庭園」(国の名勝指定)である。 数少ない中世の庭園のひとつに数えられている。
岩神館の庭園として作庭されたので岩神庭園とか、現在は興聖寺の庭園なので興聖寺庭園と呼んでもおかしくないのだが、江戸時代に秀隣寺の庭園であったので、今も旧秀隣寺庭園と呼んでいる。


 朽木元綱は関ヶ原の戦いでは、家康に内応し、所領を安堵された。その子の時代に所領は三人に分割されたが、長男は、準大名格で当地を領有し、明治維新を迎えている。
 江戸時代には朽木元綱の屋敷跡に「朽木陣屋」が置かれた。
 関ヶ原の戦い以後、徳川幕府の譜代大名格の待遇を受けた朽木氏が領地内に設けた館舎で、当時は9万3000平方メートルの敷地に本丸・二の丸・三の丸をはじめ、御殿・侍所・剣術道場・馬場・倉庫など戦陣拠点としての諸施設が建っていたと云われている。
 残念ながら、明治維新とともにすべての建物が取り壊され、現在は、堀・土居・石垣の一部と2ヵ所の井戸がわずかに残っているだけであった。
 しかし、近年になって、植物・樹木が植えられ、わら葺きの民家が移築されて史跡公園となっている。
       
 また、公園内には、「郷土資料館」もあり、木地用具や製品をはじめ、杣の人々の歴史や文化を中心に朽木を紹介している。
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