松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

秋田県大館市・・・・・安藤昌益の生家

2014年08月14日 06時55分10秒 | 日記
大館市を東から西に流れる米代川はいくつかの支流をもっている。そのひとつが犀川である。ふたつの川は扇田あたりから並行し、しだいに幅をせばめながら二井田付近でついに合流する。地図でみれば、扇田が「天」、合流地点の二井田付近が「要」の位置を占める逆扇状地になっている。ふたつの川が運んだ泥や養分はこの地域に集積した。このあたりは江戸中期すでに北秋田のなかでも指折りの米作地帯だったに違いない。そこに安藤昌益は生まれ育った。

さて山田福男隊長のもとわれわれは昌益の生家をめざしている。隊長は「右だ」「左だ」と矢つぎばやに指示をくだす。狭い道路にすこし走ると「車、停め」。ゆるやかな坂の途中に生家があった。跡地ではなく末裔が住んでいるらしい。ずいぶんとあっけなく生家にたどりついてしまって、拍子抜けした。これが数十年前から関心を持ちつづけてきた人の原点なのだろうか。梅雨明けの空は青く、1年限りの命を惜しむように蝉の声が高く響く。

道路の反対側に大きな石碑が建つ。昌益顕彰碑である。その後ろ側すぐに堤防がある。立ってみた。下を流れるのは犀川、その向こうの中洲のようにみえるのが逆扇状地、さらにその向こうには米代川が流れているはずだが、見えない。広い。右手、すなわち犀川の上流に、すっくと一人で立つ山がみえた。「あの山は何ですか」、山田隊長にたずねると、よくぞ聞いてくれたとばかりににっこり笑って「たっこもりだ」と答えてくれた。



ああ、あれが達子森か。達子森はずっと昔は葬送の地だったらしい。独特なかたちをした平地の孤山だから目だつ。死者の霊魂は山の上にとどまり子孫の姿をみまもりつづけているという柳田国男の指摘にしたがえば、この地域の祖霊はみなこの山上にとどまっているだろう。いや死者だけではなく、神が降りてくる聖地とも長く信じられてきたのではないだろうか。山じたいが依り代のようだ。仏教が伝わりそれに刺激された神道が宗教的体裁を整えるずっと前の時代から、達子森はこの地域の人々にとってのアイデンティティであった。そう考えたからだろう、山田さんは長く達子森を写真に撮り続けてきた。写真集にもなっているという。

「達子森ってどういう意味ですか」、T先生が聞いた。「たっこもり、たっこもりって何度も言ってみな」と山田さん。「どうだ、たんこぶって聞こえるだろう」。なるほど、たしかに聞こえる。もともとはアイヌ語が語源らしい。

昌益が少年だったころからすでに300年以上がすぎる。今もちろん昌益はいない。しかし昌益の生地があり、昌益が立った堤防があり、昌益が遊びまわった地域とお寺がある。360度ひろがる水田も、犀川の流れも、達子の森も光景は大きく移り変わってはいないだろう。昌益はここで何を見て、何をだれから得たのか。昌益の説いた理想社会としての「自然世」のモデルには、この二井田での体験が色濃く影を落としているだろう。そうでなければ、青森の八戸に妻子を捨ててまで二井田に帰った理由がわからない。昌益にとっての二井田の意味を明らかにしていくことが、今後の研究課題ではないか。

山田隊長は腰をおろして米代川のほうをみつめ、T先生の質問に答えている。青空教室のようで、いい光景だ。晩年の昌益もこうやって弟子たちにこたえていたのではないだろうか。

「つぎは狩野亨吉先生のところだ」と山田隊長が元気よく立ちあがった。

秋田県大館市・・・・・安藤昌益の墓

2014年08月10日 07時12分15秒 | 日記
わたしたちは(というのは青森公立大学のT先生と同行している)まず大館市比内の山田福男さんの家をたずねた。山田さんは本職の写真家のかたわら、安藤昌益や狩野亨吉を調べてきた郷土研究者でもある。あらかじめ案内をお願いしてあった。

山田さんはさっそく車に乗り込み「まず昌益の墓に行こう、まっすぐに行け」と指示を出した。はいとT先生は素直にハンドルを握る。すこし走ると水田が広がっている。北秋田は稲作には不適な山間地域だという先入観があったのだが、まったく違う。米代川沿いに発達した豊かな穀倉地帯である。「1反あたり何俵とれるんですか」と山田さんに聞くと「さあて」という答えが返ってきた。山田さんは10代のときに土門拳に認められてからずっと写真家稼業で、どうやら農業の経験はないようだ。80歳近いというのに会話のテンポが速く、愉快だ。「団体や観光客からは案内を頼まれても断る。個人は事前に勉強してくるから引き受ける」。思わずうなずいた。大館市の職員は「変わった方ですよ」と山田さんのことを評していたが、こういう偏屈は好きである。いい人に出会えた。勝手ながら、今日のミッションの隊長と定めた。狭い道をいくつか曲がると、田んぼの真ん中に大きな建物が眼に入った。「あれだ、あれが温泉寺だ、駐車場ではなく山門から入れ」と山田隊長。「はい」とわれら二人。


秋田県HPより

「これを見ろ」と隊長が石塔をゆびさす。「三界万霊供養塔」。これは飢饉で餓死した者を供養するもので、江戸時代に建てられたものが各地にみられる。もしやこの供養塔が昌益と関わりがあるのかと聞いたが、隊長は笑っていた。しかし、昌益を昌益たらしめた契機は、かれが飢饉の惨状をまのあたりにしたことにある。すっかり昌益ワールドに入り込んでいた。

昌益の墓はすぐにみつかった。案内の杭が立っていたからだ。さっそくカメラを取り出して一枚。ところが、山田隊長はこの杭がお気に召さないらしい。「この位置に立てると、墓石を撮るのに邪魔になる」。さすがは写真家だ。またもやうなずく。



昌益の墓は数十センチほどであり、普通の高さである。しかしどうも貧弱に見える。まわりの新しいカロウト群の背が高すぎるのだ。その内心を察したのか「うちの墓は隣のより少しでも高くという気持ちがみんなにあってなあ」と山田隊長。平等を説いた昌益の周辺墓石くらい見栄をはらずに控えめにしてもいいではないかと隊長は思っているらしい。

曹洞宗温泉寺は文禄2年(1593年)の開山と伝わる。その100年以上あとに安藤昌益は生まれた。昌益の生家からは歩いて数分、棒切れをもって夕暮れまで境内で遊びまわったこともあっただろう。裏手にまわると、広大な水田がひろがっていた。この肥沃な光景が昌益少年の原点となったにちがいない。

「つぎは昌益の生家だ、行くぞ」、隊長の声が響いた。

秋田県大館市・・・・・安藤昌益の二井田へ

2014年08月08日 08時38分26秒 | 日記
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秋田北部、大館市のはずれ二井田に車で向かっている。青々した稲田が広がる。美しい光景だ。お目当ては、18世紀中葉に独創的な考えをつくりあげた安藤昌益の菩提寺と生家だ。学生時代に竹内好の論文でその名前を知って以来、おりにふれてH.ノーマン、狩野亨吉などの書を読んできた。

昌益の魅力は、生産に直接従事する農民が飢えているというのに生産に関わらない武士階級が貪食できる社会は正しいのかという着想をえて、封建時代に「自然世―法世」という仮説にまとめあげたことにある。徳川の治世はまちがっているという矯激な考えは儒者にはとても考えつかない独創であったろう。だが、それよりも私が関心をひかれたのは、ただ著をのこしたまま歴史の闇のなかにすっと消えていった生き方のほうだった。そうした疑問を解くきっかけが二井田に足を運ぶことによってつかめないだろうかとずっと思ってきた。二井田に向かう車中、すこしばかり興奮気味だった。
いずれも大館市観光協会HPより。ハチ公は大館の出身