松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

群馬県高崎市・・・・・ブルーノ・タウト、井上房一郎そして田中角栄

2014年08月22日 09時13分52秒 | 日記
日本建築史を考えるとき、ブルーノ・タウトの名前ははずせない。タウトが桂離宮や伊勢神宮などの伝統建築を高く評価してくれたから、わたしたちは日本の建築に誇りが持てるのだ。

さて、タウトが祖国を追われて、朝鮮から日本海を渡り、敦賀に到着したのは1933年(昭和8年)5月3日のことだった。翌日、タウトは陸路をたどって京都に桂離宮をたずねた。雷に打たれたような心境になったらしく「泣きたくなるほど美しい」と日記に書いた。くしくもこの日はかれの53歳の誕生日だった。


wikipediaより転載

ちょうどこの日、まだ日陰には深い雪の残る新潟県で、満15歳の誕生日をむかえた吃音で人一倍汗かきの少年がいた。かれはのちに戦後の日本を建設する。


少林山達磨寺HPより転載

タウトは群馬県高崎市の井上房一郎の庇護をえて、高崎市のはずれにある少林山達磨寺に住むようになった。6畳4.5畳の狭い離れであったが、高台からの眺めはすばらしく付近を散策するにもうってつけである。タウトはこの土地が気に入って、1934年(昭和9年)から日本を去る1936年(昭和11年)秋までのつごう2年3か月間をここ「洗心亭」に住んだ。離日するにあたっては「私の骨は少林山に埋めてほしい」とさえいいのこしている。

ところで、タウトが達磨寺に住みはじめるすこし前から、寺の西側丘陵には「白衣観音」をつくる計画が持ち上がっていた。中心人物は房一郎の父、井上工業社長だった。



設計は翌1934年東京池袋の建築事務所に依頼された。まもなく模型が完成したと、井上工業東京支店に連絡があった。そこで、この春に入社したばかりの若い社員が指示を受けて、自転車で池袋に向かい、汗をかきながら大事に持ち帰った。よほど印象深かったのだろう、「忘れられない思い出」とかれは後にふりかえっている。田中角栄だった。


Wikipediaより転載

角栄は数年で井上工業を辞め、起業、その後は猛烈なスピードで総理への階段を駆け上がっていく。その足跡をふりかえってみると、ある意味で「戦後日本の建設」だった。

さて、家業を継いだ房一郎はずっと角栄を支持し、角栄もよく応え、ために井上工業は年商500億を超える業績をあげたこともあった。地方ゼネコンとしては驚くべき数字だった。

井上房一郎は若い頃は文学・芸術や音楽に傾倒し、戦後には高崎文化の花を咲かせた。高崎文化の偉大なパトロンといってよい。バブルがはじけた1993年、その偉大なパトロンは94歳で亡くなった。すでに病に倒れていた田中角栄もその半年後に亡くなった。

私は一度だけ房一郎をそばで見たことがある。すでに晩年のときだった。高崎市の哲学堂で松本健一さんがセミナー講師に呼ばれたときだ。主催者として房一郎が挨拶に立った。上品な人だった。若い頃は随分盛んだったのではないかと思えるほど色の残り香がした。運転手つきの外車に乗って、帰っていった。

建築家タウトの日本滞在中の足跡を調べていたら、思いがけず、タウトと角栄が高崎の房一郎を軸にしてつながっているのに気がついた。

手も足も出ない、のではない。人と人とは手を結ぶ。少林山で買った真っ赤なダルマを手にしながらつくづくそう思う。